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異聞・戦国奮闘記  作者: 峰ジスト


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7/13

第七話 首

天文12年(1543年)

川面の靄が斬り裂かれるように割れ、渡河中の敵兵が喚きながら押し寄せてくる。


我が伊松家の兵は、川沿いを扇状に包み込む形で前進し、敵を次々と川へ押し戻していた。


槍が突き刺さり、盾が弾かれ、兵の叫びが交錯する。

土と血の匂いが、甲冑越しにも分かるほど濃く漂う。


私の前を守る馬廻りたちは、敵が近づけば一斉に斬り伏せ、

一歩たりとも私へ触れさせまいと奮戦していた。


「ここを通すな! 一気に押し返せッ!」

怒号が飛び、鉄の音が混じる。


そんな中、ふと視線を向けると──

父・秀政が、後陣で伝令に指示を出し、ゆっくりと後退する“ふり”をしているのが見えた。


一瞬、全体的に押されているのかと思った。だが、私はすぐに悟った。

(……敵を前へ引き寄せている。叔父上の水軍衆が来るまで、ここで止める気だ)


伝令が戦場を駆け回り、川へ押し込めていた各部隊を少しづつ後退させる。

敵は、押し込めていると錯覚し、どんどん渡河している。


まるで盤上の駒を動かすような父の采配に、驚くほど冷静に感心している自分がいた。

川下の方から狼煙が上がる。


「若様!」


背後から古市又兵衛の声が飛ぶ。

「右馬助様の水軍衆、ご到着との報です!」


(来た……!)


その直後だった。

木曽川下流から、太鼓と角笛の低い音が風を揺らした。

黒漆塗りの小舟がいくつも川面を滑り、船上には弓兵たちが身を低くして構えている。

叔父・右馬助秀隆の水軍衆である。


「放てぇいッ!!」


秀隆の声が川を震わせ、次の瞬間、雨のように矢が飛び交った。

両岸の敵兵へ容赦なく射ち込まれ、悲鳴が連鎖する。

川の中にいた者は馬を失い、岸に上がっていた者は背後から射抜かれ、

前後左右から叫びが響いた。


「ひ、引け! 引けぇ! 戻れぬのか!?」

「後ろも敵だ! う、撃たれる……!」


阿鼻叫喚。


完全な包囲。


敵は引き返したくても、背後には水軍の矢雨。前へ進めば伊松家の槍列。

逃げ道が、無い。


(……父上の狙い通りだ)


戦場に漂う血の匂いが一層濃くなる。


死に物狂いの敵の中から、数名が必死に馬廻りの隙を突き、こちらへ駆けてきた。


「若様に近づけるなッ!」


古市が即座に一人を斬り捨てた。

だが、もう一人が馬廻りの切っ先をかいくぐり、

まっすぐ私へ突っ込んでくる。


「ッ──!」


時間が一瞬伸びたように感じた。

馬を走らせる。槍を握る手に、知らぬ熱が宿る。

敵の目が大きく見えた。次の瞬間、私は槍を強く突き出した。


ガツン、と手に重み。


刃が肉を割き、骨を断つ音。敵の身体が揺れ、首が胴からふわりと離れた。

ぼと、と地面に落ちる音が聴こえた気がした。


(……あ、あれが……)


胸が締めつけられる。胃の奥から何かが込み上げそうになる。

だが──


「若様! お見事ッ!!」


古市の大声が、私の動揺を容赦なくかき消した。

その瞬間、全身から恐怖が抜け落ち、代わりに奇妙な静けさが広がっていった。


(……戦場では迷う暇などないのだ)


どれほど経ったか分からない。

だが、敵の叫び声は次第に弱まり、戦場は徐々に静けさに包まれた。


「敵、退け始めました!」


「追討隊、前へ!」


父の号令が響き、追討の部隊が一斉に南へ駆ける。

私は備えを整えたまま本隊へ戻り、軍議の陣へ向かった。

本陣には、既に父と重臣たちが集まっていた。

少しして、追討隊からの伝令が次々と入る。

「敵の大将、逃亡の報あり!」

「追討勢より続報──討ち取ったとのこと!」


どよめきが走った。


少し時間が経ち、追討隊が戻ってくる。

戦場に残る血の匂いがまだ消えぬ中、軍議場へ首級が運ばれた。

白布を取ると──


「桑名城主、伊藤基矩……!

 まさか大将自ら討たれていようとは……!」


今回の連合軍の総大将。北伊勢方の中でも要の武将である。

家臣たちの間に驚きが広がった。

論功行賞が始まり、銭、刀、米が功の者たちへ分け与えられた。


父は私の前で静かに言う。

「秀興。初陣で首級を挙げるとは見事であった。伊松家の嫡子として恥じぬ働きよ」


私は静かに頭を下げた。


戦後の弔いが行われる。

「此度、亡くなった我らが兵は四十九名──家々へ丁重に知らせ、葬儀を整えよ」

敵への憎悪ではなく、戦の代償を静かに受け止める声だった。


香が焚かれ、僧が読経を唱え、夜風が甲冑の隙間を抜けていった。

私は焚かれた松明の火を見つめながら、初陣の重さを胸に刻んだ。

(今回は何とか生きて戻れる……)


蟹江城が見えるころ、夜空には満ちる少し前の月が薄く浮かび、

静かに戦の終わりを照らしていた。


戦から戻ったのは、夜空を満ちた月が照らすころ。

甲冑は泥と血で重く、体の節々が軋んでいたが、蟹江の町が見えた途端、胸の奥がふっと軽くなった。

城門をくぐると、母・琴子が門前まで出てきていた。

その顔は、安堵と緊張がほどけたせいか、頬に一筋の涙が光っていた。

けれど、口元には笑みが浮かんでいた。


「秀興……、無事で……」


その声を聞いた瞬間、戦場では押し込めていたものが、一気に胸から溢れ出しそうになる。

父・秀政も兜を脱ぐと、「案ずかせたな」と柔らかく答えた。


私は母の姿を見るなり、体の力が抜けていくのを感じた。

足取りはふらつき、部屋へ辿り着くと、汚れも落とさず畳へ倒れ込んだ。

いやにやわらかい畳の匂いがした。


(……家に、帰ってきた)


そのまま深い眠りへと落ちていった。


戦の後片付けが終わり、落ち着いた日々がようやく戻ってきたころ。

京へ内裏修繕費の献上を行っていた祖父・秀教が蟹江へ帰還した。

道中の話や、京の噂を楽しげに語りながら、祖父は久しぶりの我が家をゆっくり歩いた。


「都は相も変わらず人が多い。だが、戦の噂で皆が妙に落ち着かん雰囲気よ」


祖父は軽口を叩いていたが、母はその様子から何かを察したように見えた。


祖父が帰宅して数日後。那古野から急ぎの使者がやってきた。

父が封を切り、文を読んだ瞬間、その表情がわずかに硬くなる。


「……信秀殿、美濃で大敗とのことだ」


広間に静寂が落ちた。

私は祖父ともに席に座り、父の説明を聞いた。


「土岐頼充が頼芸と道三に押され、越前と尾張へ支援を求めてきた……まではよい。

 だが、清州の守護代・織田達勝がこれを受け、信秀殿を総大将として押し立てたのが始まりだ」


祖父が眉をひそめる。


「土岐の内輪揉めに深入りすれば、尾張は泥沼に引きずられるのは道理じゃ……」


父は続けた。


「そのうえ、頼芸と道三側は近江の浅井・六角を味方につけていた。

 美濃を舞台に、越前・尾張 対 美濃・近江という構図になった」


私は息を呑んだ。

(……そんな大規模な戦に?)


父は紙を置き、重く言った。


「結果は惨敗。信秀殿は五千を失ったという」


祖父はゆっくりと目を閉じた。


「……痛いのう。五千というのは、ただの兵数ではない。

 那古野の勢いそのものが揺らぐ」


「吉法師殿は……どうされているのでしょう」

私は吉法師から届く書状を思い出す。

幼いながらも、鋭く、真っ直ぐな文字。


(あの少年が……これをどう受け止めるのか)


胸がざわついた。


父と祖父は地図を広げ、戦の情勢を読み解いていく。


「清州織田にしてみれば、信秀殿が力を持ちすぎるのは面白くない」


祖父の言葉に、父も静かに頷く。


「そのうえ、この敗北で織田内部の力関係も揺らぐ。尾張はしばらく不安定になる」


私は目の前の情勢を理解しようと、必死に頭を巡らせた。


(美濃は、道三と頼芸が内部分裂しながらも力を増している。

 尾張は信秀殿の勢いが削がれ、清州織田が動くかもしれない)


祖父は最後に一つ言い添えた。


「秀興よ。戦とは勝ち負けだけではない。

 “その後”の動きこそが、家の命運を分ける」


父が続ける。


「今こそ、蟹江の治安と産業を固めねばならぬ。

 幸い、先の戦で北伊勢の諸家を徹底的に叩いた。尾張南の基盤を、さらに強くするのだ」


私は強く頷いた。


(……時代が動いている。

 織田も、美濃も、伊勢も。

 この波の中で、伊松家が埋もれるわけにはいかない)

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