第七話 首
天文12年(1543年)
川面の靄が斬り裂かれるように割れ、渡河中の敵兵が喚きながら押し寄せてくる。
我が伊松家の兵は、川沿いを扇状に包み込む形で前進し、敵を次々と川へ押し戻していた。
槍が突き刺さり、盾が弾かれ、兵の叫びが交錯する。
土と血の匂いが、甲冑越しにも分かるほど濃く漂う。
私の前を守る馬廻りたちは、敵が近づけば一斉に斬り伏せ、
一歩たりとも私へ触れさせまいと奮戦していた。
「ここを通すな! 一気に押し返せッ!」
怒号が飛び、鉄の音が混じる。
そんな中、ふと視線を向けると──
父・秀政が、後陣で伝令に指示を出し、ゆっくりと後退する“ふり”をしているのが見えた。
一瞬、全体的に押されているのかと思った。だが、私はすぐに悟った。
(……敵を前へ引き寄せている。叔父上の水軍衆が来るまで、ここで止める気だ)
伝令が戦場を駆け回り、川へ押し込めていた各部隊を少しづつ後退させる。
敵は、押し込めていると錯覚し、どんどん渡河している。
まるで盤上の駒を動かすような父の采配に、驚くほど冷静に感心している自分がいた。
川下の方から狼煙が上がる。
「若様!」
背後から古市又兵衛の声が飛ぶ。
「右馬助様の水軍衆、ご到着との報です!」
(来た……!)
その直後だった。
木曽川下流から、太鼓と角笛の低い音が風を揺らした。
黒漆塗りの小舟がいくつも川面を滑り、船上には弓兵たちが身を低くして構えている。
叔父・右馬助秀隆の水軍衆である。
「放てぇいッ!!」
秀隆の声が川を震わせ、次の瞬間、雨のように矢が飛び交った。
両岸の敵兵へ容赦なく射ち込まれ、悲鳴が連鎖する。
川の中にいた者は馬を失い、岸に上がっていた者は背後から射抜かれ、
前後左右から叫びが響いた。
「ひ、引け! 引けぇ! 戻れぬのか!?」
「後ろも敵だ! う、撃たれる……!」
阿鼻叫喚。
完全な包囲。
敵は引き返したくても、背後には水軍の矢雨。前へ進めば伊松家の槍列。
逃げ道が、無い。
(……父上の狙い通りだ)
戦場に漂う血の匂いが一層濃くなる。
死に物狂いの敵の中から、数名が必死に馬廻りの隙を突き、こちらへ駆けてきた。
「若様に近づけるなッ!」
古市が即座に一人を斬り捨てた。
だが、もう一人が馬廻りの切っ先をかいくぐり、
まっすぐ私へ突っ込んでくる。
「ッ──!」
時間が一瞬伸びたように感じた。
馬を走らせる。槍を握る手に、知らぬ熱が宿る。
敵の目が大きく見えた。次の瞬間、私は槍を強く突き出した。
ガツン、と手に重み。
刃が肉を割き、骨を断つ音。敵の身体が揺れ、首が胴からふわりと離れた。
ぼと、と地面に落ちる音が聴こえた気がした。
(……あ、あれが……)
胸が締めつけられる。胃の奥から何かが込み上げそうになる。
だが──
「若様! お見事ッ!!」
古市の大声が、私の動揺を容赦なくかき消した。
その瞬間、全身から恐怖が抜け落ち、代わりに奇妙な静けさが広がっていった。
(……戦場では迷う暇などないのだ)
どれほど経ったか分からない。
だが、敵の叫び声は次第に弱まり、戦場は徐々に静けさに包まれた。
「敵、退け始めました!」
「追討隊、前へ!」
父の号令が響き、追討の部隊が一斉に南へ駆ける。
私は備えを整えたまま本隊へ戻り、軍議の陣へ向かった。
本陣には、既に父と重臣たちが集まっていた。
少しして、追討隊からの伝令が次々と入る。
「敵の大将、逃亡の報あり!」
「追討勢より続報──討ち取ったとのこと!」
どよめきが走った。
少し時間が経ち、追討隊が戻ってくる。
戦場に残る血の匂いがまだ消えぬ中、軍議場へ首級が運ばれた。
白布を取ると──
「桑名城主、伊藤基矩……!
まさか大将自ら討たれていようとは……!」
今回の連合軍の総大将。北伊勢方の中でも要の武将である。
家臣たちの間に驚きが広がった。
論功行賞が始まり、銭、刀、米が功の者たちへ分け与えられた。
父は私の前で静かに言う。
「秀興。初陣で首級を挙げるとは見事であった。伊松家の嫡子として恥じぬ働きよ」
私は静かに頭を下げた。
戦後の弔いが行われる。
「此度、亡くなった我らが兵は四十九名──家々へ丁重に知らせ、葬儀を整えよ」
敵への憎悪ではなく、戦の代償を静かに受け止める声だった。
香が焚かれ、僧が読経を唱え、夜風が甲冑の隙間を抜けていった。
私は焚かれた松明の火を見つめながら、初陣の重さを胸に刻んだ。
(今回は何とか生きて戻れる……)
蟹江城が見えるころ、夜空には満ちる少し前の月が薄く浮かび、
静かに戦の終わりを照らしていた。
戦から戻ったのは、夜空を満ちた月が照らすころ。
甲冑は泥と血で重く、体の節々が軋んでいたが、蟹江の町が見えた途端、胸の奥がふっと軽くなった。
城門をくぐると、母・琴子が門前まで出てきていた。
その顔は、安堵と緊張がほどけたせいか、頬に一筋の涙が光っていた。
けれど、口元には笑みが浮かんでいた。
「秀興……、無事で……」
その声を聞いた瞬間、戦場では押し込めていたものが、一気に胸から溢れ出しそうになる。
父・秀政も兜を脱ぐと、「案ずかせたな」と柔らかく答えた。
私は母の姿を見るなり、体の力が抜けていくのを感じた。
足取りはふらつき、部屋へ辿り着くと、汚れも落とさず畳へ倒れ込んだ。
いやにやわらかい畳の匂いがした。
(……家に、帰ってきた)
そのまま深い眠りへと落ちていった。
戦の後片付けが終わり、落ち着いた日々がようやく戻ってきたころ。
京へ内裏修繕費の献上を行っていた祖父・秀教が蟹江へ帰還した。
道中の話や、京の噂を楽しげに語りながら、祖父は久しぶりの我が家をゆっくり歩いた。
「都は相も変わらず人が多い。だが、戦の噂で皆が妙に落ち着かん雰囲気よ」
祖父は軽口を叩いていたが、母はその様子から何かを察したように見えた。
祖父が帰宅して数日後。那古野から急ぎの使者がやってきた。
父が封を切り、文を読んだ瞬間、その表情がわずかに硬くなる。
「……信秀殿、美濃で大敗とのことだ」
広間に静寂が落ちた。
私は祖父ともに席に座り、父の説明を聞いた。
「土岐頼充が頼芸と道三に押され、越前と尾張へ支援を求めてきた……まではよい。
だが、清州の守護代・織田達勝がこれを受け、信秀殿を総大将として押し立てたのが始まりだ」
祖父が眉をひそめる。
「土岐の内輪揉めに深入りすれば、尾張は泥沼に引きずられるのは道理じゃ……」
父は続けた。
「そのうえ、頼芸と道三側は近江の浅井・六角を味方につけていた。
美濃を舞台に、越前・尾張 対 美濃・近江という構図になった」
私は息を呑んだ。
(……そんな大規模な戦に?)
父は紙を置き、重く言った。
「結果は惨敗。信秀殿は五千を失ったという」
祖父はゆっくりと目を閉じた。
「……痛いのう。五千というのは、ただの兵数ではない。
那古野の勢いそのものが揺らぐ」
「吉法師殿は……どうされているのでしょう」
私は吉法師から届く書状を思い出す。
幼いながらも、鋭く、真っ直ぐな文字。
(あの少年が……これをどう受け止めるのか)
胸がざわついた。
父と祖父は地図を広げ、戦の情勢を読み解いていく。
「清州織田にしてみれば、信秀殿が力を持ちすぎるのは面白くない」
祖父の言葉に、父も静かに頷く。
「そのうえ、この敗北で織田内部の力関係も揺らぐ。尾張はしばらく不安定になる」
私は目の前の情勢を理解しようと、必死に頭を巡らせた。
(美濃は、道三と頼芸が内部分裂しながらも力を増している。
尾張は信秀殿の勢いが削がれ、清州織田が動くかもしれない)
祖父は最後に一つ言い添えた。
「秀興よ。戦とは勝ち負けだけではない。
“その後”の動きこそが、家の命運を分ける」
父が続ける。
「今こそ、蟹江の治安と産業を固めねばならぬ。
幸い、先の戦で北伊勢の諸家を徹底的に叩いた。尾張南の基盤を、さらに強くするのだ」
私は強く頷いた。
(……時代が動いている。
織田も、美濃も、伊勢も。
この波の中で、伊松家が埋もれるわけにはいかない)




