第六話 元服と初陣
駆け足気味です。想像力や語彙力が欲しいです。
天文12年(1543年)
春の気配が蟹江の港を包み始めたころ、父・秀政は私を呼び寄せた。
春先、薄曇りの空から柔らかい光が差すある朝。
父は文机の前に座り、静かに茶をすする。その視線が、私のほうへ向いた。
「……菊千代。そなたも今年で十二なるな。元服としようか」
驚きとともに、胸の奥に薄く緊張が走る。
父は茶碗を見つめたまま、ゆるく息を吐いた。
「信秀殿との書状のやり取りの中でな……お主に“娘を嫁がせたい”と申し出があった」
「……信秀殿の娘を、私に?」
「うむ。弾正忠家としても、伊松とより強固な縁を結びたいのだろう。
菊千代よ、そなたにとって悪い話ではない。
近く、吉日を選び元服の儀を行う。準備しておくように」
私はゆっくりと頷いた。
(ついに……元服か。それに、吉法師と義兄弟になるのか)
婚姻はまだ先。
いまは婚約の段階だが、織田家から来る嫁がどのような娘か想像を膨らませていた。
元服の日、屋敷は静かな緊張に包まれた。
庭には白砂が撒かれ、幔幕が張られ、香の匂いが淡く漂う。
京からは、母の義兄にあたる山科言継その人が下向し、その姿に家中の者たちは息を呑んだ。
絹の直衣をまとい、京の雅をそのまま運んできたような人物。
「大きゅうなったの、菊千代。父親に似て凛々しい顔よ」
祖父・秀教は烏帽子親として座し、厳かに烏帽子を私の頭へ載せた。
「これよりは、伊松藤左衛門秀興と名乗れ」
静かに頭を下げながら、心の奥で小さく呟く。
(……今日、私は“武士”となった)
元服の余韻が残るある日のこと、屋敷の入り口から大きな声が響いた。
「右馬助様、ご帰還──!」
九州まで商いに出向いていた叔父が帰ってきたのだ。
苦労をねぎらおうと叔父を出迎えると叔父・秀隆は潮風に焼けた顔で笑った。
旅の砂を肩で払うと、荷をほどき、布を丁寧にめくる。
その下から──黒鉄の筒と、木の台が現れた。
「元服したそうだな、菊千代。今では、秀興か、良き名だな。
それから、見よ。これは鉄砲というらしい。九州で南蛮の商人から買い付けた」
叔父の目は少年のように輝いていた。
私の心臓が一瞬止まったように感じた。
(ついに……“鉄砲”が来た)
私は自然と、慎重に銃身へ触れた。冷たい鉄が、皮膚を通じて未来の戦の匂いを伝えてくる。
「叔父上、遠路はるばるご苦労でございました。
旅の疲れを癒せるよう屋敷の者には指示を出しておりますゆえ、ゆっくりとお休みください。
私は、鍛冶職人を呼び、解体して構造を確認するべくここで失礼いたします」
「お、おう……そこまで興味を示すとは思わなんだが、休ませてもらおう」
叔父の困惑した声を背に、さっそく鍜治場へと足を運んだ。
職人たちと構造を確認し、量産が可能か可能なら生産を始めるよう助言をしながら、指示をだす。
職人は新しい玩具を前にしたように、目を輝かせながらさっそく手を動かし始めた。
鉄砲の試作に没頭していた夕刻。工房裏を山伏衆の影が駆け抜けた。
頭目・弁増が、息も絶え絶えに駆け込む。
「若様……北伊勢の国人ども、連合して動いております!」
「数は?」
「詳しくは掴めませぬが、千から二千……あるいはそれ以上。
蟹江を、狙っております」
胸の奥が熱くなる。しかし声は自然と冷たかった。
「すぐに、父上へ」
父へ報告後、すぐに主だった家臣が広間へと集められた。
「……戦だ」
父の声は、低く重かった。
床には簡易な地図が広げられる。
「斯波家の要請で信秀殿が大垣に出向いている時に攻めてきたか.......
兵を二千五百。海からは右馬助が当たる。
山伏衆は敵の規模と進路を探れ。
騎馬隊は一足先に南道を封鎖せよ!」
次々と指示が飛ぶ。家臣たちが走る音が屋敷中に響く。
そして、父は私の肩へ手を置いた。
「秀興……これが、お前の初陣だ」
ほんの一瞬、呼吸が止まった。しかし、逃げ場はない。
傅役・古市又兵衛が背後で静かに膝をつく。
「若様、心を乱してはなりませぬ。戦は“読む”もの。
恐れは、読みに濁りを生みます」
その穏やかな声に、胸がすっと軽くなった。
私はゆっくりと頷いた。
陣触れの太鼓が遠くで鳴り、屋敷の障子には松明の揺れる赤い光が映っていた。
甲冑の下に着る小袖を整えていた私の前に、
母・琴子が静かに歩み寄ってきた。
普段と変わらぬ、浅葱の小袖に白の袴。
だが目元には、かすかな不安の影が浮かんでいた。
「……秀興」
呼ばれた声は優しいのに、その奥にある張りつめた息遣いが伝わってくる。
私は姿勢を正した。
「母上。出立の刻が迫っております」
母は私の胸元にそっと手を添え、乱れがないか確かめるように布を撫でた。
「七つ、八つと大きくなるのを見て……
いずれ戦に向かう日が来るとは覚悟しておりました」
母は障子越しの夜空を一瞬見上げ、小さく息を整える。
「けれど……いざこの時が来ると、
胸が、苦しくなるものですわね」
その言い方は、泣き言ではない。
“母としての当然の思い”を淡く吐き出しただけだった。
私は静かに答えた。
「私の周りは古市や戦巧者の兵が固めております。前に出すぎないよう気を付けますとも」
すると母は首を振り、やや厳しい顔つきに戻った。
「いいえ、心配はいたします。
どれほど立派になろうとも……母は母です」
そして、私の両肩に手を置いた。
「命を粗末にしてはなりません。家を……父上を守りたいならば、まず己を守るのです」
胸がわずかに締めつけられた。
「必ず、生きて戻ります」
そう答えると、母はそっと笑みを浮かべた。
翌未明。
空が藍から薄紫へと変わりつつある刹那。
薄い靄が木曽川の面を覆い、冷たい湿気が甲冑の継ぎ目へじっとりと染みてくる。
丘の上に敷いた前線陣地から見下ろすと、川面に黒い影がいくつも揺れていた。
渡河中の敵軍――。
伊勢北部の国人衆を中心とした連合軍である。
まだ半数は水に足を取られ、馬さえ渡りきれていない。
「……弁増の知らせがなければ遅れていたな」
父・秀政が低く呟く。
隣で山伏衆の頭目・弁増が静かに膝をついた。
「昨夜、奴らは川上の浅瀬を使うつもりでしたが、
増水で道を変え、ここへ……。間に合ってようございました」
山伏衆の見立て通り、敵は最も迂闊な渡河地点に追い込まれている。
その川沿いを、我が兵が半円を描くように包囲する形で布陣していた。
その布陣の端。
川下側には、こちらへ合図を送るための狼煙台があり、
叔父・右馬助秀隆率いる水軍衆が木曽川を遡って近づいてくる予定だ。
(陸と水。両側から挟撃できる)
胸の奥で、息がひとつ大きく弾んだ。
兜の緒を締める。
喉の下で布が固く結ばれ、頭が一気に重く感じる。
(……これをかぶって、人を斬るのか)
鍛えてきたはずの腕が、ひどく頼りなく思えた。
槍の重みが、今日に限って鋭く掌へ食い込む。
気づけば、指先が微かに震えていた。
「若様」
声がした。
振り返れば、傅役の老将・古市又兵衛が馬を曳きながら佇んでいた。
その声音は、戦場では異質なほど静かだった。
「前へ出すぎませぬよう。
周囲は馬廻りが固めておりますれば……
若様が倒れては、兵たちの心が折れましょう」
私は小さく息を吐き、頷いた。
(そうだ……私一人の命ではなく、“伊松家の未来”を背負っている)
ふるえが少しだけ収まった。
馬に跨る。
鐙に体重を移した瞬間、周囲の地面が震えていることに気づいた。
二千五百の兵が動き始めているためだ。
甲冑がこすれ、槍が揺れ、馬の鼻息が白く散る。
川面からは、敵の焦る怒号と水を掻く音。
丘の上からは、太鼓の低音が木霊していく。
──ドン……ドン……ドン。
その響きが腹へと沈む。
父・秀政が馬首を進めた。
風に揺れた指揮旗が朝の光を受けて淡く輝いた。
(……来るぞ)
私は馬腹を軽く蹴った。
前へ進む馬の背で、槍を握りしめる手に汗が滲む。
これが、戦。
やがて父の声が、冷えた空気を切り裂いた。
「我が領地を狙う賊どもを追い返してやれッ!!
全軍──突撃!!」
次の瞬間、兵たちの鬨の声が爆ぜた。
「おおおおおおおぉ────ッ!」
地面が揺れる。
砂が跳ね、靄が散り、馬の蹄音が荒れた鼓動のように響く。
私は息を吸い、胸の奥へ熱を押し込んだ。
(これが……本物の戦か)
朝日が川面を薄紫から金色へ変えたその刻。
伊松家の兵は怒涛のように動き出し、蟹江を守る戦が、ついに始まった。




