表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞・戦国奮闘記  作者: 峰ジスト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/14

第四話 改革の一歩

読んでいただいている皆様へ、感謝いたします。 

天文7年(1538年)

那古野から蟹江への帰途、船は追い風に乗って滑るように進み、

朝日を反射して眩しいほどの海面が広がっていた。


吉法師と交わした短い言葉、

信秀の、あの計るような眼差し。

そして父の落ち着いた応対。


それらが胸の中で何度も反芻される。


(いずれ尾張が大きく動く。その前に、我が家の土台を固めねばならぬ)


帰り着いた蟹江の港は、いつも通りの喧噪に包まれていた。

ただ、その雑多な声すら前より力強く聞こえるほど、私の視界は変わっていた。


その日を境に、私は領内を歩く頻度を増やす。

まだ七つの子供、それでも祖父も父も文句を言わなかった。

「目を養うことは学びのうち」と、むしろ背を押してくれた。



天文8年(1539年)

春。

蟹江から少し離れた農村を歩くと、

若草が伸び始めた畦道の向こうで、老人が用水の淀みを指して嘆いていた。


「毎年、ここが溢れてしまいましてのう……

 冬のうちに何とかしたいが、村の者だけでは手が足りませぬ」


用水路には枯草と流木が絡まり、茶色い泥水が濁って流れている。

溢れた痕跡が黒く残り、田の一部はぬかるんだままだった。


(冬に放置した枯草か……。

 冬に掃除をすれば防げるのだが、いつもの事と気に掛けるものは少ない)

私は思わず眉を寄せた。


(けれど、冬は農作業が止まり、人手は余っている。

 問題は、働いても食い扶持が出ないこと……)

(だったら、食い扶持をこちらが出せばいい)


その夜、祖父・秀教に提案すると、

秀教は火鉢の火を見つめながら、静かに問うてきた。

「冬に普請とな……。

 寒中の働きは堪えるぞ。領民が応じるか?」


「米や味噌、干物を“働いた分だけ”渡せば、喜んで動くはずです。

 冬場は食料が何よりも価値がありますから」


秀政は腕を組んで黙考し、やがて頷く。

「……たしかに、蟹江には港があり、食料の蓄えもある。

 余った力を冬に使うのは理にかなう。

 試す価値はあるぞ、親父殿」


秀教は扇を閉じ、にやりと笑った。

「では、この冬、五つの村で始めてみるか。

 うまくいけば、蟹江の“冬の風物”となるやもしれん」



冬の冷たい風が伊勢湾から吹き込み、

霜柱が田を覆う季節。


村の入口に新しい高札が立てられた。

《冬季普請につき、働きに応じて食料・銭を支給する。

 堤普請・用水清掃を希望する者は政所まで》


最初、村人たちは半信半疑だった。


「働けば米がもらえる……? 本当か?」

「こんな時節に普請とは、無体ではないか」

「いや、米と味噌をもらえるなら悪くないぞ」


やがて庄屋が政所から受け取った米俵や干物の束を見せると――

誰もが目を丸くした。


「ほんまに出るんか……!」


「ならば、わしも行くわ!」

「冬に食えるだけでありがたい!」


集まった村人たちは、雪に埋もれた用水の泥を掘り、枯草を集め、壊れかけた堤に土を盛り、

若い衆は丸太を担いで運んだ。


冷気は容赦なく頬を刺したが、その顔には不思議と明るさがあった。


作業を見回る私の前に、赤い頬の若者が駆け寄った。


「若様、今日の働きで味噌一壺と米一升を頂けると聞きました!」

「冬に働けば米がもらえるなんて、生まれて初めてです!」


その声は、まるで祭りのような浮き立ったものだった。


作業が終わると、政所に列ができた。

働き手に、役人がひとりひとり米や味噌、干物を手渡していく。


「ありがてえ……これで冬を越せる!」

「来月も出ますとも!」

「若い衆を連れてまいります!」


その勢いは、領内に瞬く間に広がった。


「冬は蟹江に働きに行くと食い扶持が稼げるらしいぞ!」

「蟹江は景気がよい」

「堤は丈夫になるし、仕事もある」


村人の噂が、尾張にも北伊勢にも伝わっていった。


翌年には、他領から働きに来る者も現れるほどになり、

蟹江は冬でも人が動く“特異な領”へと変貌を遂げた。


この改革によって、蟹江の堤や用水は見違えるように整えられ、

その後の大雨でも、村々はほとんど浸水被害を受けなくなる。


すべては――あの農村で、老人が困った顔で指差した、小さな詰まりから始まった。


普請の見回りを終え、父とともに蟹江の屋敷へ戻る途中のことだった。


市のはずれ――

干物の匂いと潮風が混ざる、人通りの少ない一角で、

奇妙な格好の男たちが、桶の水を回し飲みしているのが見えた。


黒ずんだ法衣、鹿の角の付いた兜のような頭巾、

胸には法螺貝。

その装束は、蟹江のどの者とも違う。


「山伏だな……」

父が低く呟いた。


山伏。

山中を巡り、修験の道を歩む者。

山河に詳しく、人里離れた道もよく知り、

時に占い、時に祈祷を行い、

時に“誰も知らぬ山の抜け道”を語る者たち。


私は思わず足を止めた。

彼らは流れ者でありながら、どこか張り詰めた気配を漂わせていた。


父が一歩近づき声を掛ける。

「そなたらは、このあたりの者ではあるまい。どこより来た?」


山伏衆の一人が、深く頭を下げた。山で鍛えられた声だった。

「はい。このたび、信濃より流れてまいりました。雪深き山里では冬の仕事がなく……働き口を求めております」


もう一人が言葉をつなぐ。

「情報や山の道に長じております。もし何かお役に立つことがあれば」


態度は礼儀正しく、言葉は無駄がなく、彼らがただの浮浪者ではないことはすぐに分かった。


私は父の横目に気づく。“値踏み”の眼だ。


父・秀政は、武芸だけでなく人を観る目にも長けている。

その秀政が、静かに息をついた。

「……蟹江は港町でな。山を知る者は少ない。地形に詳しければ、堤作りにも役立とう」


山伏衆の顔がほのかに明るくなる。

「ありがたき幸せ。山も川も道も、すべてお調べいたします」


父は短く頷いた。

「まずは政所に参れ。食い扶持と寝床を用意しよう」


「は、はい!」


山伏たちは深々と頭を下げ、まるで救われたような顔をしていた。


私はその姿を見つめながら、ふと胸が高鳴るのを感じていた。

(山伏……彼らは道を知り、土を知り、土地の“癖”を読むことに長けている。

 治水、普請、諜報――すべてに使える)


父が歩き出しながら、ぽつりとこぼした。

「菊千代、ああいう者らは、使いようによっては宝となる。

 我が家に山の目が加われば、もっと強くなるだろう」


私は大きく頷いた。

こうして、山伏衆は伊松家に召し抱えられ、後に伊松を支える“影”として活躍することになる。


ある日、祖父秀教が一通の書状を手に私を呼んだ。山科家からの返書である。


「お主の話を伝えたところ、西国の職人を幾人か紹介してくださるそうじゃ。

 その代わり、産物を定期的に納めてほしいともな」

祖父には、蟹江に新たな産業を興すために職人を紹介してほしいと伝えていた。

その言葉の通り、数か月後には旅衣の一団が蟹江へやって来た。


漆の香を漂わせた木工師。

黒い煤で顔を汚した鍛冶師。

織機を担いだ女職人。

陶器を包んだ荷を大切に抱える陶工。

彼らの瞳には疲労と、どこか期待が混ざっていた。


父・秀政は彼らを屋敷の広間へ迎えた。

「遠路よう来てくださった。蟹江は小さき地にて不便も多かろうが、

そなたらの技があれば、必ず道は拓ける」


職人たちは深く頭を下げた。

彼らは京や波多野、播磨の村々から追われるように流れてきた者も多く、

「技が生きる場所」を求めていたのである。

新たな産物が誕生すれば、収益の増加が見込める。冬の普請にかかる費用も賄うことができるだろう。


その日から、蟹江の港町に新しい影がいくつも生まれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ