第三話 初対面
前話での蟹江から那古野までの道中を熱田経由に変更しました。
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天文七年(1538年)
翌朝、まだ東の空が白むころ、蟹江の港には潮の満ち始める音が響いていた。
桟橋には伊松家の家臣たちが列をなし、船頭たちは縄の締まりを確かめながら、潮風に晒された腕を動かしている。
叔父・右馬助秀隆が、帆柱の根元に立ちながら手を振った。
「風は南寄りで悪くない。昼前には熱田へ着くであろう」
「叔父上、港はいつもこんなに人が集まるのですか」
私が尋ねると、秀隆はにやりと笑った。
「豊かになっておる証よ。ここ十年で船の出入りは倍になった。東国からに、伊勢、志摩、さらには堺からの船も増えたわ」
見れば、大小さまざまな船が往来していた。
荷を運ぶ商船、船底を空にした帰り船、漁から戻ったらしい小舟。
港には塩や干物の匂いが漂い、船頭たちの怒鳴り声と笑い声が混ざっている。
父・秀政が私の肩に手を置いた。
「これが伊松家の富の源よ。陸の戦だけでは足りぬ、海があってこそだ」
私は頷きながら、改めて己が家の力を実感した。
やがて、帆が上がり、船は静かに海面を滑り出した。
岸が遠ざかるにつれ、家臣たちの声も小さくなっていく。
朝日が海面を照らし、白い航跡が伸びていった。
昼前に、船は熱田の港に着いた。
熱田は蟹江とは違う、もっと雑多で活気のある町だった。
寺社への参詣客、諸国の商人、荷を運ぶ馬子たちが道を埋める。
伊勢街道を行き交う旅人の声、店先から漂う団子の香ばしさ……ひときわにぎやかな場所だった。
桟橋には、見知った商人・大橋家縁者の六郎兵衛と、商人風の身なりをした加藤という男が待っていた。
白い小袖に紺の羽織を羽織り、どこか柔和な笑みを浮かべている。
「これは伊松様、ご足労ようこそ。弾正忠様への戦勝祝い、必ずお取り次ぎいたしますゆえ」
六郎兵衛は深々と頭を下げた。
父が言う。
「道中の手配も、いつものように頼む」
六郎兵衛は誇らしげに胸を張った。
「もちろんでございます。旅籠も、熱田一の部屋を加藤殿に用意していただきました。まずはお疲れをお癒しくださいませ」
隣の加藤が父に恭しく礼をした。
「伊松様、後ほど商人衆からもご挨拶に上がります。どうぞごゆるりと」
その夜、旅籠では商人衆による小宴が催された。
彼らは蟹江と熱田を結ぶ海路の恩恵をよく理解しており、歓待は実に温かい。
「弾正忠様は今、勢い盛んですな。那古野の町も活気が増しております」
「伊松様が後援なされるなら、尾張はさらに栄えましょうぞ」
父は穏やかに笑いながら盃を受けていた。
翌朝、六郎兵衛に案内されて那古野城へ向かった。
城下町は思った以上に整っており、商家や鍛冶屋の店先には武具、糧米が山のように積まれている。
武士の往来は多く、町全体に張り詰めた気配が漂っていた。織田家の支配となって日は浅いはずだが、すでに活気と秩序が根を張りつつあるようだった。
那古野城の大手門前では織田家中の侍が並び、先頭の男が進み出て言う。
「伊松様、よくぞお越しくださいました。信秀様がお待ちにございます」
案内された広間は、まだ新しい木の香りがほのかに漂っていた。
そこに、織田弾正忠信秀がいた。
噂に違わず、広い肩、鋭い眼差し。
ただの武辺者ではなく、獲物を正確に見極める獣のような気配を纏っていた。
「左近将監殿、お越しいただき感謝する。此度の兵糧や武具の贈り物、まことありがたく思う」
信秀は立ち上がり、父の横に座りなおして深々と頭を下げた。
父が礼を返す。
「弾正忠殿のご武運、尾張中に響いております」
信秀は豪快に笑い、やがて私へ視線を移した。
父が私を紹介する。
「息の菊千代でござる。良き機会ゆえ、弾正忠殿にお目通りをと連れて参りました」
私は深く礼をした。
「菊千代にございます。謹んでお目通りつかまつります」
信秀は満足げに頷き、家臣へ合図する。
「吉法師を連れてまいれ」
数息の後、幼子が姿を現した。
数え五つ。だがその目は年齢以上に静かで鋭い。
織田家は美形が多いと噂に聞いていたが、幼いながら確かに整った顔立ちだった。
(これが──のちの信長)
吉法師はじっとこちらを見て、片眉を上げた。
「吉法師でござる。そなた、七つにしては大きいの」
「お初にお目にかかります、吉法師殿。丈夫に産んでくれた母へ、日々感謝しております」
そう返すと、吉法師はくすりと笑う。
「のう、父上。この者、強そうじゃ」
「うむ。伊松家には戦巧者が多い。うらやましいことよ」
信秀の言葉に胸が熱くなる。
吉法師は一歩近づき、小声で囁いた。
「いつか、一緒に戦に出られるか?」
「……そのときは、必ず」
迷いなく答えると、吉法師は満足げに小さく頷いた。
その刹那、未来がかすかに動いた気がした。
その後の広間では祝宴が開かれた。
杯が行き交う中、織田家の家臣らがこちらへ挨拶に訪れるのは、あくまで「客人であり、有力家としての伊松家」に対してであった。
「左近将監様、蟹江は相変わらず見事な賑わいと聞いております。
那古野の新たな商いも、いずれそちらを頼らぬわけにはいきませぬ」
「伊松様の御領地が栄えておりますれば、尾張南部も安んじます。互いに益のあること、これからも続けて参りたいものです」
どの言葉にも、下に見る色はない。
それどころか、むしろ「うまく繋ぎを保ちたい」という意図がにじんでいた。
父・秀政は静かに聞き流しながらも、応じる口調は常に穏やかで節度があった。
「我らも弾正忠家の働きに学ぶところ多くあります。
那古野が落ち着けば、尾張全体の流れも変わりましょう」
その言い方は、相手を立てつつも決して従属の姿勢ではない。
「対等の誼」を互いに認めているからこその言葉だった。
酒が進み、一段落ついたところで信秀が目線だけで父を呼んだ。
二人は周囲から少し距離を置いて、低い声で語り合う。
「秀政。そなたが蟹江を治めているおかげで、南に気を取られなくて済む。
街道も、物の流れも、安定しておる」
「それは互いの利となればこそです。
那古野の変動がこの先どう進むか。こちらとしても気にかけております」
信秀は、杯を置き、わずかにため息を洩らした。
「尾張はまだ荒れておる。
わしらが先へ進むには、蟹江のように落ち着いた地が必要なのだ。
……力を貸せとは言わぬ。しかし、これまで通り互いの益になる道を歩みたい」
それは“頼み”というより、“申し出”に近かった。
父は深く頷く。
「従うでも逆らうでもなく、互いを支える道こそ長続きいたしましょう。
伊松と織田、その形を崩す気はございませぬ」
私にも、両家の間にある絶妙な距離感が理解できた。
宴席を抜け出した後の廊下。
吉法師は私をじっと見つめ、こう問いかけてきた。
「そなたの家は、山科家と縁があるのだろう?
父上は、そのことをよく話していた」
「はい。祖は山科家の出であり、今でも京と繋がりがございますよ」
吉法師は年齢に似合わぬ落ち着いた表情を浮かべる。
「尾張には、そういう家があまりない。だから興味がある。
そなたは、文字を多く読めるのか?」
私が日々の学びのことを話すと、吉法師は目を輝かせた。
「それなら、また教えてほしい。
父上は“これからは、力だけでなく知も必要だ”と言っておる。
……わしも学ばねばならぬ」
この言葉に、幼いながらも胸の内に熱いものが宿った。
吉法師は決して“お殿様”として振る舞ったのではない。
対等に、私の言葉を聞き、考え、学ぼうとしていた。
廊下の向こうから家臣が迎えに来て、吉法師は振り返りながら一言だけ残した。
「また、会おう」
その声が、宴の喧騒とは別の場所で、静かに響いていた。
宴が終わり、那古野城が静けさを取り戻すころ。
信秀は、自室の灯火を一つだけ残し、衣を緩めて畳に腰を下ろした。
杯は空のまま、手に取るでもなく机の横に置かれている。
彼は天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……これで尾張では頭一つ抜けることができたが、伊松家の落ち着きようはなんとも言えんな」
思い浮かべているのは、伊松秀政の穏やかな表情と、彼の息子──菊千代。
信秀は眉をひそめ、机に手を置いた。
「家格なら、うちはあれより下よ……。
だが、いま優位にあるのはこの那古野での兵と勢いのほうだ。」
自身の立場を誰より冷静に見ていた。
伊松家は古い縁と家格を持ち、蟹江という要衝を押さえる。
織田弾正忠家が台頭したのは、あくまでここ数年のことにすぎない。
「秀政……老獪よのう。
こちらを立てつつ、決して頭を垂れはせん。
あれでいて、内実は読みづらい男よ」
信秀は苦笑を洩らした。
「だが、不快ではない。むしろ……ようあれほどの落ち着きを保てるものよ」
その声音には、わずかな敬意すら混じっていた。
そして、彼の思考は自然と菊千代へ移っていく。
宴席での挨拶、礼法の整い方、そして吉法師との応答。
七つとは思えぬほど、よく周囲を見ていた。
「……あの子は、放っておけぬな。吉法師にも、刺激となるやもしれん。あの二人が育てば……尾張の形も変わる」
その後、言葉を切って目を閉じる。
しばし沈黙が落ちる。
やがて彼は、低い声で結論めいたものを呟いた。
「伊松家とは、距離を間違えるな。
当分は、近すぎても遠すぎてもならん。
うまく、均しながら……互いに利を積む。
今の尾張で、あれほど扱いの難しい家は他にないが、先を考えると上手く取り込みたいものよ」
そう言って、ふっと笑う。
「面白くなってきたわ」
その笑みは、宴席の豪胆なものではなく、
獲物を前にした武将のものでもなく──
計算と期待と、わずかな愉悦が混じった、
尾張の雄・織田信秀の顔であった。




