表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異聞・戦国奮闘記  作者: 峰ジスト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/14

第二話

第一話の内容を名前がわかりやすいように修正しました。

もう少し伊松家の設定が続きます。

天文七年(1538年) 蟹江城下・伊松屋敷


数えで七つになった。

この身体は成長が早いのか、同じ年の子よりも頭ひとつ大きい。

近ごろは武芸の稽古でも体格で勝り、木剣を振るたびに相手がひるむ。

祖父もその様子を見て、「左近将監の若き日を思い出すわ」と笑っていた。


朝は日の出とともに起き、井戸で顔を洗う。

冬に比べて水が柔らかくなったとはいえ、まだ肌に冷たい。

庭では若党たちが槍の素振りを繰り返し、乾いた掛け声が空に響く。

屋敷の裏手では、潮風が松林を渡り、遠くから船の帆綱が鳴る音が聞こえた。

蟹江の町は、春を越えて夏の匂いが混ざり始めていた。


汗を流した後、粥に焼き魚、漬物の朝餉を済ませ、稽古場に戻る。

昼には厨の者にねだって餅を焼いてもらい、午後は祖父や母から和歌や礼法を学ぶ。

母・琴子は、いつも香の香る部屋で私を待っていた。


「筆を持つときは、息を整えてから。字は、心をうつす鏡です」

そう言って、母は私の手を軽く添えた。

その指先は白く、力強かった。

「……母上、なぜ字はそんなに大事なのですか」

「言葉は、血よりも長く残ります。あなたが何者かを、誰かが後の世で知るためのしるしです」

そう言って微笑む母の横顔を、私はよく覚えている。


週に二、三日は禅寺から和尚が来て、経の意味や筆の手習いを見てくださる。

その声は穏やかで、ときに眠気を誘うほど柔らかだった。


そんなある日のこと、祖父と父の会話から、織田弾正忠信秀殿が那古野城を奪ったと知った。

廊下を歩いていた私は、襖の隙間から二人の声を耳にした。


「これで那古野から熱田までが、弾正忠家の勢力下となるわけじゃな」

祖父・秀教は眉を寄せ、湯呑を手にしていた。

「はい。今川方の兵を逐い、尾張の南半をほぼ掌握なされました」

父・秀政の声は静かだが、どこか緊張を帯びている。


「蟹江はすぐ東が織田領ですものね」

母・琴子が小袖の袖を整えながら言った。

その声は穏やかだが、目は真剣だった。

「弾正忠殿は信定様よりも、はるかに攻めの才があるお方。

 いずれ尾張を一つにまとめられるやもしれませぬ」

父がそう答えた。


祖父はふっと笑みを浮かべ、

「その折には、我らも軽々しく動けぬ。だが、旧恩は忘れまい」

と呟いた。

父は頷きながら、

「幸い、信秀殿とは津島の交易を通じて良好な間柄。今のうちに誼を深めておきたいところですな」

と応じた。


私は黙ってその会話を聞いていた。

どうやら、伊松家の立場は微妙なものらしい。

東に織田家、西には北伊勢の国人衆。

潮風と戦の匂いが混ざりあう、そんな土地に我が家はあるのだ。


その日から、私は屋敷の文庫に通うようになった。

古い巻物を引き出し、墨のにじむ文字を追いながら、伊松家の由緒を読み漁った。

巻物の端には「山科荘 伊福郷」と記され、山科家の印判が押されていた。


祖父から聞いていたとおり、伊松家の祖は山科家三代当主・教房卿の男子、藤原秀惟である。

だが、系図をたどるうちに、妙な空白があることに気づいた。

母方の記録がない。


(非嫡流か……それとも、記録に残すことをはばかる生まれだったのか)


文書には、東国と堺を結ぶ海路の交易、荘園の年貢船の記録、そして「伊勢湾往還船免状」とあった。

祖父が話していた「水軍」の起こりも、どうやらここにあるらしい。

もとは伊勢湾で活動していた武装商人や海賊衆が、伊松家の庇護を受けて「年貢船」として登録され、関銭の免除や港の使用権を与えられた。

その代わり、戦時には兵船として出陣する。

まさに経済と軍の一体化といった感じだ。


その日の夕刻、潮風が屋敷の裏手から吹き込む中、叔父の右馬助秀隆が訪ねてきた。

黒い直垂の袖を翻し、腰には塩気を帯びた風がまとわりついている。

「おお、菊千代。大きくなったな」

彼は笑いながら私の頭をわしわしと撫でた。

「叔父上、今日も沖へ出ていたのですか」

「うむ、南風がよく吹いてな。船底の具合を見てきたわ」

彼の顔は日に焼け、眼光は鋭く、それでいて人懐こい笑みを絶やさない。


「そなたもいずれ海を見に来い。蟹江の力は、潮の流れにあるのだ」

「……潮の流れ?」

「そうだ。潮と風の流れを読む者が勝つ。戦も商いもな」


その言葉が、やけに胸に残った。

陸の武士が刀で治めるなら、海の武士は風と潮を読む。

幼心にも、伊松家が持つもう一つの力の形を感じたのだった。


その夜、廊下の外では、初夏の虫が鳴いていた。

庭の池に月が映り、静かな水面に柳の影が揺れている。

父と祖父が広間で話している声が、障子越しに漏れてきた。


「――信秀殿が、那古野奪取の祝いとして諸方の縁ある家に使者を出されたそうです」

父の声だ。

「ふむ。となると、我らも招かれたか」

祖父の低い声が続く。

「はい。大橋家を通じて使者が参りました。蟹江の伊松殿にも参上願いたいとのこと」


少しの沈黙ののち、祖父が湯呑を置く音がした。

「……よい機会じゃな。お主が参るのか、左近将監」

「はい」

「信秀殿は信定殿の嫡子、武勇と器量においては尾張随一の評判。

 この機に、伊松の名を改めて刻ませておくのも悪くないの」

「そうですな。新たな交易やもしかすると同盟の話もあるかと思います。それから――菊千代も連れて参ろうかと」


私は思わず身を乗り出した。

(那古野……織田家の城へ?)


翌朝、父が私の部屋を訪れた。

まだ陽も昇りきらぬ時刻、白地に浅葱の小袖を着込み、髪をきちんと結っている。

「菊千代、支度をいたせ。明日、我らは那古野へ参る」

「わたしも、ですか?」

「うむ。弾正忠殿にお目通りの折、お前の顔を覚えていただくのは悪くない。

 いずれ、この尾張をまとめるお方となろう」


母・琴子も傍らに立ち、少し心配げな顔をしていた。

「まだ七つにて、長途は堪えましょうか」

「道中は馬ではなく駕籠を用いよう。熱田で一泊し、翌日に那古野へ入る」

「……そうですか。では、旅装の支度を」

母は静かに頷き、衣桁に掛けてあった私の直垂を取り上げた。

薄青の絹地に、伊松家の紋が控えめに染め抜かれている。


「これを着ていきなさい。どこへ出ても、恥じぬように」

琴子はそう言って、襟を整えながら微笑んだ。

「母上、信秀様とはどんなお方なのですか」

「……強い風のようなお方、と聞きました。

 時に嵐を呼ぶけれど、その風がなければ船は進めぬ――とね」


父は笑い、

「琴子の言う通りだ。だが、吹き荒れる風には、帆の張り方が肝要よ」

と私の頭を軽く叩いた。


その夜、私は寝所でなかなか眠れなかった。

那古野とは、これまで地図でしか見たことのない地。

織田の当主、弾正忠信秀――

もしかしたら、吉法師にも会えるかもしれない。


外では、潮の香りを含んだ夜風が、障子をやさしく鳴らしていた。

それはまるで、東から新しい時代の息吹が届いたかのようであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ