第十三話
天文18年(1549年)
夏の日差しが伊勢湾の水面を白く弾ませるころ、蟹江の城内は、いつになく静かな緊張に包まれていた。
産屋の前では、女中や侍女たちが行き来をひそめ、廊下の柱に凭れた家臣たちは、互いに言葉少なに目配せをするばかりである。
やがて、襖の向こうから赤子の産声が上がった。
「おぎゃあ……おぎゃあ……」
その声は、夏の蝉の声よりも力強く、屋敷の隅々にまで響き渡った。
私は息を詰めるようにして産屋の前に立ち尽くし、扉が開くのを待った。
しばらくして、産婆が汗をぬぐいながら出てきた。
顔には疲労の色が濃いが、その眼は明るい。
「おめでとうございます、若様。丈夫な男児にございます。
御方様もご無事。母子ともに、これ以上なく健やかに」
膝から力が抜けるとは、まさにこのことだろう。
私は無意識に柱へ手をついていた。
「……そうか」
それだけ言うのがやっとだった。
産屋に通されると、汗を浮かべながらも微笑む志乃が、白布に包まれた赤子を胸に抱いていた。
産褥の乱れを女中が気遣う中、志乃は私を見ると、安堵と誇りの入り混じった表情でかすかに笑った。
「秀興様……男の子にございます」
「……よく、やってくれた」
それだけ告げると、喉の奥がひどく熱くなった。
私は赤子のそばへ歩み寄り、そっと抱き上げた。
布越しにも、その体はずっしりと重い。
指を差し出すと、小さな手がぎゅっと握り返してきた。
「菊千代」と口にしてみる。
かつての自分の幼名を、そのまま嫡男に与えた。
前世からこの身に至るまでを、ひとつの流れとして繋ぐかのような名付けだ。
(この子が家を継ぐときには、今よりもさらに強く、大きな伊松であらねばならぬ)
その思いは、誓いに近かった。
志乃の横顔は、どこかふわりとほどけていた。
男児であろうと女児であろうと、我が子に違いはない。
しかし、この時代、最初に男子を得ることがどれほど女の心を軽くするか、それも理解していた。
「本当に……よく泣く子にございます。
きっと、元気に育ちましょう」
志乃は力の抜けた声でそう言い、菊千代の顔を愛おしげにのぞき込んだ。
私は内心、乳の質や寝所の清潔さ、産後の養生のことを立て続けに考えていた。
この時代の習いには反する部分もあったが、女中頭や産婆とも相談し、
産室の換気、寝具の頻繁な取り換え、産婦の食事に関しては、できる限り前世の知識を反映させるつもりだった。
(すくすく育てるには、まず“病”を遠ざけねばならぬ)
喜びの中にも、そんな計算が頭の隅で冷静に回り続けていた。
しばらくして、信長のもとにも、私の嫡男誕生の報は届いたらしい。
やがて那古野から、祝いの使者が蟹江へやって来た。
先触れの声とともに姿を見せたのは、平手政秀その人であった。
年を重ねた今も背筋は伸び、衣紋の乱れひとつない。
那古野の“理”そのものが歩いているような男である。
「このたびは、御嫡男御誕生、まことめでたきことにございます、左近将監様。
三郎様も、何度も“直ちに祝意を伝えよ”と申されておりました」
「遠路、ご足労痛み入ります、平手殿。
信長殿にも、後ほど礼状をしたため申す」
広間に通し、ささやかながら膳を用意した。
祝儀である以上、過度に飾り立てる必要はない。
だが、海と田の幸を揃え、伊松の持つ力を示す程度には整えた。
酒が二、三巡するころ、平手殿は少し声を落とした。
「若様と、濃姫様の仲につきましては……
悪いとまでは申しませぬが、どうにも、噛み合いませぬな」
「ほう」
私は盃を置き、耳を傾けた。
「濃姫様は、美濃の斎藤道三殿の御娘。
気丈なお方ゆえ、“織田家の嫡男たるものはかくあるべし”というお考えも強い。
ところが、三郎様は例のごとく、朱鞘に奇妙な装束で……」
平手殿はそこで言葉を切り、苦笑を浮かべた。
「濃姫様には、どうにもあのご恰好が、お気に召さぬようにございましてな」
私は小さく息を吐き、盃を指先で転がした。
「あの身なりは、信長殿自身の気を紛らわせる意味もありましょう。
それだけではなく……弾正忠家の中で、誰が敵で誰が味方か、
“うつけ”と見せながら測っておられるのでしょうな」
平手殿の目が細くなった。
苦虫を噛み潰したような表情で、しかし深く頷く。
「やはり、そう見えますか」
「家臣の中には、“まともな主君”を求める者もおりましょう。
一方で、民草はあの格好を面白がり、心を許しやすい。
どちらを取るかではなく、
双方の反応を見て“どのあたりで線を引くか”を探っておいでなのかと」
自分で言いながら、あの信長の目を思い出していた。
うつけと呼ばれようが、あの眼は、常に何かを見極めている。
平手殿は盃を煽り、ふうと長い息を吐いた。
「……ですがな、左近将監様。家中を預かる身としては、
“他に手立てはないのか”と考えてしまうのも、また偽らざる心境にございます」
「それは、もっともなことで」
私は頷き、言葉を続けた。
「民の評判が良くとも、一部の家臣が離反するほどであれば、
いずれ大事の折に足を掬われかねませぬ。
あの振る舞いは“敵味方を炙り出す手”として有効でも、
長く続ければ、家そのものを摩耗させましょう」
平手殿は黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。
「左近将監様も同じことを仰りますか……。
実のところ、某もここしばらく、
“いかにあの奇抜さを保ちつつ、家中を丸く収めるか”と考えておりました。
普段の政務を行うお姿は大変御立派で家中の者からも次期当主のお姿と評判なので、
惜しいとも感じております」
「ならば、良い知恵が浮かびましたら、ぜひともお聞かせ願いたい。
こちらでも、那古野や古渡から聞こえてくる噂を踏まえ、
いくつか案を練っておきましょう」
平手殿は肩の力を少し抜き、盃を置いて、ゆっくりと頭を下げた。
「左近将監様には、いつも三郎様のことをお心に掛けていただき、
この平手、感謝の言葉もございませぬ。
後日、あらためて那古野へお越しくだされ。
その折には、こちらからも考えをお示しいたしましょう」
「承知いたしました」
広間には潮の匂いと酒の香りが混じり合い、外では夏の風が軒を鳴らしていた。
産まれたばかりの菊千代の泣き声が、遠く別の棟からかすかに届く。
那古野を訪れたのは、平手殿が蟹江を去ってから、十日ほど経ったころだった。
那古野への道中、夏の気持ちのいい風に吹かれながら私は考えをまとめていた。
信長のあの朱塗りの鞘、茶筅の髪、袖を外した浴衣びら。
あれを頭ごなしにやめよと言ったところで、素直に従う男ではない。
(ならば、“やめさせる”のではなく、“使い分けさせる”ほうがよい)
道中の村々は、以前よりも人の出入りが多くなっていた。
流民と思しき者たちが、那古野の方角へと歩いてゆく。
「織田様の城下では、仕事があるそうな」「米蔵がよく動くらしい」
そんな断片的な声が耳に入る。
(こちらが流れを作ったつもりでいたが、もう、信長殿自身が人を引きつけている)
那古野の城下に入ると、その実感はさらに強まった。
市場には新しい店が増え、行き交う人の衣服も、わずかに彩りを増している。
城に着くと、出迎えに現れたのは平手政秀であった。
「ようお越しくだされた、左近将監様。若様も、楽しみにしておられました」
「それは何より。……あの恰好のことも含めて、少々話をせねばなりませぬな」
軽く笑って言うと、平手殿は苦笑しながらも、ほっとしたような息を洩らした。
「若様は、ああ見えて、人の言葉をよく聞かれます。
ただ、言い方を誤ると、すぐに逆手に取られますゆえな」
「承知しております」
広間に通されると、ほどなくして障子の向こうから、陽気な足音が近づいてきた。
ぱたり、と戸が開く。
朱塗りの鞘、萌黄と紅の糸で結った茶筅髷、袖のない上衣に半袴、火打袋をいくつもぶら下げ――
噂に違わぬ、奇抜な姿の男がそこにいた。
「おお、秀興。子が生まれたそうではないか」
開口一番、そう言って笑ったのは、ほかならぬ織田三郎信長であった。
その声には、心からの祝いの色があった。
「は。おかげさまで、元気な男児にございます。
信長殿からの祝意も、確かに受け取りました」
「うむ、うむ。……して、どうだ。父親というのは」
「思いのほか、忙しゅうございますよ。
泣き声と共に、子の先の世のことばかりが頭をよぎります」
「ははは、そうか父親というのも大変だな」
信長はそう言うと、自らの朱鞘を軽く叩いた。
「この格好もな、“先”を見越しておるつもりなのだが……
周りからは、どうにも評判が悪い」
ちらりと、平手殿の方へ目をやる。
平手殿は、何も言わぬまま目だけで「そこを話してくれ」と告げていた。
私は少し姿勢を正し、信長の真正面に座りなおした。
「信長殿」
「何だ」
「その恰好を、やめろとは申しませぬ」
信長の眉がわずかに動いた。
「ただし、“いつでもどこでも”その装いでおられるのは、惜しいと存じます」
「惜しい?」
「はい」
私は、静かに言葉を続けた。
「城下を歩かれるとき、領民と交わられるとき――
その際の朱の装束は、民草の目から見れば、
『気さくで、見ていて楽しい殿様』に映りましょう。
子どもなど、目を輝かせて後をついておることでしょうな
昨今の那古野の発展と民の暮らしぶりから大事の際には民の協力も得られやすいでしょう」
信長はくくっと笑った。
「よく見ておる。実際、その通りよ」
「ですが、城中で、重臣や一門衆を前にされるときまで同じであれば、
“本気でそれしか持たぬうつけ”に見える危険もあります」
「……ふむ」
信長の目が、すっと真面目な色を帯びた。
「信長殿」
私は少し身を乗り出した。
「装いを、“折り目”ごとに分けては、いかがでしょう。
城下を見回るとき、人の心を掴むときには、今のような朱の姿。
民の前では“近しさ”を示す装いとして用いる。
一方で、重臣・一門、他家の者の前では、きちんと直垂・狩衣を整え、
『いざとなれば締まる殿様』という姿も見せておく」
信長は黙って聞いていた。
平手殿は、呼吸すら殺すように座っている。
「奇抜な恰好は、敵と愚か者を炙り出すには好都合。
しかし、それに慣れ切った家臣にとっては、いつまでも“ないがしろにされている”ように感じる。
ならば、場によって使い分け、
『ここは気を抜いてよい場』『ここは決めねばならぬ場』という線を、
家臣に対して礼を払っておると信長殿自らお示しになるのがよろしかろうと考えます」
「……つまり、お前はこう言いたいのだな」
信長は顎に手をやり、少し視線を天井へ向けた。
「“朱の三郎”と“弾正忠家の嫡男・信長”の二つの顔を、
使い分けろと」
「その通りにございます」
私はためらわず答えた。
「それならば、民にも家臣にも筋が通る。
城下では、“面白い殿様”。
評定の場では、“弾正忠家の後継者”。
どちらが本当でもなく、どちらも織田三郎信長である、と」
しばしの沈黙が落ちた。
やがて、信長は口元をにやりと歪めた。
「面白いことを言う」
「ならば、その二つの顔を、もっとはっきり分けてやろうか」
「と、申されますと?」
「城下を歩くときには、これまで通り朱の布をまとい、若衆も派手な格好をさせる。
しかし、城の大広間での評定、他家の使者を迎える折には――」
そこで一拍置き、平手殿の方へ視線を投げた。
「平手。おぬしの好む“いかにもな衣”を着てやろう、若衆たちもな」
平手殿は、思わずという表情で目を見開いた。
「若様……!」
「ただし、それは“わしが決めた場”だけだ。
すべてをそちらの言い分通りにはせぬ。
わしの気分が乗らぬ場では、朱のまま参る」
そう言って笑ったが、その妥協の線は、十分すぎるほど現実的だった。
「十分にございます、若様」
平手殿は深々と頭を下げた。
私はそこで、さらに一つ提案を加えた。
「もう一つ、よろしいでしょうか」
「まだあるのか、秀興」
信長は面白そうに目を細める。
「朱の装束は、いずれ“戦の色”として統一されては、いかがでしょう。
朱の采配、朱の旗指物、朱の具足……
家臣の中から、信長殿の直卒として選ばれた者には朱を許し、
その者たちをもって“馬廻り”とするのです」
信長の目が、すっと細まり、やがてぎらりと光った。
「尾張にて朱を許されるは、わしと、その側に立つ者のみ……か」
「はい。
そうなれば、今、家中であれこれ言う者も、
いざその色を身にまといたくなりましょう。
『朱は、うつけの色』ではなく、
『弾正忠家の武の色』となる」
平手殿が息を飲むのが聞こえた。
「うつけと評されていた姿が、いつの間にか“憧れ”に変わる。
その変わり目を、信長殿ご自身が決められればよろしいと存じます」
信長はしばし黙し、やがてゆっくりと笑った。
「さすがは公家の流れを汲む家よ、わしの恰好にもこうも筋道立たせるとは」
「お褒めの言葉として受け取りましょう」
そう答えると、信長はくつくつと喉を鳴らして笑った。
笑いがひと段落したところを見計らって、私は声の調子を変えた。
「……ところで、信長殿」
「ん?」
「濃姫殿とは、いかがにございますか」
一瞬、信長の目が細くなり、それから露骨に顔をしかめた。
「いかがもこうもあるか。
あやつは父親譲りなのか、口が辛い」
そう吐き捨てるように言うと、朱鞘の柄頭で畳をこん、と軽く叩いた。
「わしが城下を歩けば、『その恰好はやめよ』。
馬で出れば、『もう少し落ち着いた姿を見せよ』。
評定で一言笑えば、『人を試すな』。
まったく、小言の尽きぬ女よ」
横目で平手殿を見ると、「そこは某の前では言わぬでいただきたい」と言いたげに眉が動いたが、
信長は気にもしない。
「道三の娘とはああいうものか。
何でもかんでも見透かしたような目で見おって……」
ぶつぶつと愚痴をこぼす様子は、年相応の若武者そのものであった。
私は少し笑いをこらえながら、さりげなく話題を継いだ。
「志乃から、たびたび濃姫様のことは聞いております」
「姉上が、か?」
「はい。文のやり取りをしておりましてな。
和歌や香の話もされているようですが……」
そこで一拍置き、ことさらに何でもない風を装って言葉を続けた。
「濃姫様、よく信長殿のお話をなさるそうです」
信長の手が、かすかに止まった。
「……どんな話だ」
「あまり詳しく申せば、志乃に恨まれましょうが」
そう前置きしてから、私は柔らかく笑った。
「例えば――
『あの方は、まことに腹の底の見えぬ人。誰より早く動き、何よりも先を見ているのに、
その肝心のところを、私にはなかなか見せてくださらぬ』
と」
信長は視線を逸らした。
「それは……愚痴ではないのか」
「愚痴のかたちを取った、興味、のろけでございましょうな。
志乃の文によれば、濃姫殿は、信長殿のことを『目の離せぬ人』と書いておられました」
「……目の離せぬ、か」
信長は朱鞘の先で畳をじいと押し、
それから、わざとらしく鼻を鳴らした。
「それは……褒めておるのか、どうなのか」
「褒め言葉と受け取ってよろしいかと。
少なくとも、興味のない相手を、女はそこまで詳しくは語りませぬかと」
信長の耳たぶが、わずかに赤くなったように見えた。
平手殿は横を向き、咳払いひとつで気配をごまかしている。
「それに、濃姫殿は、
『三郎様が、戦や政の話をするときの眼が、一番だ』
とも書いておられました」
信長の指がぴくりと動いた。
「……戦と政の話ばかりしておると、『血腥い』『骨っぽい』と嫌われるものとばかり思っていたがな」
「女といえど、道三殿の娘。
むしろ、うわべだけの優しさより、
本気で何かを成そうとする眼のほうが好ましいのではございませぬか」
一瞬、信長の表情からふざけた色が薄れた。
「……あやつ、そこまで言っておるのか」
「文の中身をすべて申すわけには参りませぬが」
私は、少しだけ芝居がかった溜めを置いた。
「少なくとも、“三郎様を気に入っておらぬ”という書きぶりでは、決してありませんでしたよ」
信長は、ふっと視線をそらした。
「わしがあいつを、気に入っておらぬように見えるか」
「さて、それは――」
ここで言葉を切り、あえて答えを遅らせた。
「志乃の文を読む限りでは、濃姫殿のほうは、“もっと話がしたいが、どうにも距離が詰まらぬ”
といった心持ちのように見えます」
「……距離、か」
信長は膝の上で指を組み、
しばらく何かを思案するように目を伏せた。
「信長殿」
「何だ」
「もしよろしければ、装いの“使い分け”と同じように、
濃姫殿の前でも、顔を分けられてはどうでしょう」
「ほう?」
「城下を歩く三郎信長と、評定の座にある信長は、同じ人でありながら、見せる顔が違います。
ならば、夫として濃姫殿と向き合うときには、
“家中に見せる顔”とも、“城下に見せる顔”とも少し違う、
素の部分をお見せになってもよろしいのでは」
「素の部分、か」
信長は、照れ隠しのように大きく鼻を鳴らした。
「わしは、普段から素のつもりだが?」
「その素は、“弾正忠家次期当主の素”でございましょう」
「ぬ……」
「濃姫殿にとっては、たまには戦や政の話だけでなく、
ご自身が何を面白いと感じ、何を恐れ、何を憎み、何を望むか――
そういう話を一つ二つ聞かせていただくだけでも、だいぶ違うかと存じます」
信長は、こちらをじっと見た。その眼差しは、策を検分するときと同じ鋭さであったが、
その奥に、わずかな気恥ずかしさが混じっている。
「……お前、姉上に似てきたな」
「それは、褒め言葉と受け取っておきましょう」
「だが、まあ……」
信長は腕を組み、天井を仰ぐと、ぽつりと言葉をこぼした。
「あいつの言葉は、いちいち胸に刺さる。
小言も多いが、言っていることは正しい。
わしが黙り込めば、『何を考えているのか、せめて半分くらいは教えてくださいませ』などと抜かす」
その口ぶりは呆れたようでいて、どこかくすぐったそうでもあった。
「ならば、半分と言わず、三分の一くらいお見せになってはいかがですか」
「おい、減らしたぞ」
「全部は、戦でも政でも危のうございますゆえ」
信長は堪えきれず、声をあげて笑った。
「……まあよい。
今度、あいつと二人になった折には、
少しくらい、こちらから話を振ってみるか」
そう言ったときの横顔に、ほんのわずかな照れと期待の色が差していた。
平手殿はその様子を横目で見て、深く、深く一礼した。
「若様が、そのお気持ちをお持ちくだされば、お二人の仲は良いものとなりましょう。
いずれは家中の者にもお言葉を増やしていただければと思います」
信長は照れ隠しのように顔をそむけ、朱鞘で畳をこんと叩いた。
「さて、話はそこまでだ。
秀興、今度お主が蟹江から何か面白い品を手に入れたら、
あいつに渡すものを一つ選んでくれ」
「濃姫殿への贈り物でございますか」
「わしはあまり、そういう趣味に明るくない。
姉上かお前なら、うまくやるだろう」
私は深く頷いた。
「承りました。
蟹江の工房にも、雅びなものを作る職人が増えております。
濃姫様の御心にかないそうな品を、いくつか選んで参りましょう
ただ、信長殿がその中からお選びいただきお渡しいただくようお願いします」
信長はそれ以上何も言わなかったが、その耳たぶは先ほどよりいっそう赤くなっていた。
こうして、奇抜な装束の使い分けとともに、
濃姫との距離を少しずつ縮めようとする信長の姿が、
那古野の一室で静かに形をとり始めていた。




