第十一話
多くの皆様に呼んでいただき感謝いたします。
以降、更新は不定期となりますが、ご容赦ください。
駆け足気味で味気ない内容ですが、どうぞご覧ください。
天文17年(1548年)
初陣を終えた信長と入れ替わるように信秀は軍勢を率いて西三河に進軍していった。
約2年の間、一進一退の攻防を繰り広げる岡崎城攻めは、信秀の本軍到着により、岡崎城は落城となる。
松平広忠の嫡男である竹千代を捕らえることに成功するが、広忠は逃してしまう。
そのため、松平広忠が要請した今川の援軍が到着すると泥沼の様相を呈していた。
伊松家にも信秀から援軍の要請があり、知多半島に進軍する今川軍を沿岸部から荒らしまわったが、決定打とはならず膠着状態は変わらなかった。
織田方、今川方お互いに業を煮やし、同年3月、小豆坂で激突。
今川方は、本命の駿河衆を動員しており、総勢1万5千、対する織田方は6千と劣勢であった。
織田方は、矢作川を渡河し、織田信広を大将として、今川の陣へ攻勢をかけ松平の陣を崩すことができたが、今川軍へ深入りしすぎて伏兵により横やりを入れられ総崩れとなった。
安祥城へ撤退する織田軍を追撃する今川軍であったが、これは信秀が渡河を許さず小豆坂の戦いは織田の敗北で終わりを迎えた。
信秀は、西三河での敗北を払拭するように、同年8月には西美濃に侵攻を開始する。
大垣城を拠点に、揖斐川・根尾川を北上し、次々と城や砦を落城させ、中美濃と西美濃を分断する。
しかしながら、同年11月、無理な進軍は著しい突出を招き、斎藤道三により大垣城が攻められ救援が間に合わず落城。尾張でも道三の策略で、清州衆が一部離反し、古渡へ進軍を開始した。
清州衆は信長と伊松家の包囲により壊滅するが、大垣城落城により、逆に尾張と分断された信秀は道三と和議を結び撤退する。
また、西三河でも信秀不在の間に安祥城が今川方に落ち、信広が捕らえられる。
竹千代と信広の人質交換となり、今川とも和議となる。
これにより、美濃と西三河の織田領を完全に失陥。
信秀にとって痛恨の一年となった。
小豆坂での敗北、西美濃での破綻。立て続けの敗戦は、それまで尾張の虎と名高かった織田弾正忠信秀の身体を確実に蝕んでいった。合戦に勝敗はつきものとはいえ、このときばかりは失策が重なったとしか言いようがなかった。信秀はすべてを己の懐に抱え込み、やがて静かに倒れた。
やがて那古野を離れた東の丘陵地に末森城が築かれ、そこが信秀の隠退の地となった。喧噪から遠ざかったその地で、信秀は政務のほとんどを手放した。家臣が心配そうに見舞うと、信秀はかすれた声で「……三郎に任せよ。あやつなら、大事は違えぬ」と告げたという。かつて尾張の虎と恐れられた男の声ではなく、しかし不思議と誰も逆らえない重みがあった。
こうして空白となった座を、三郎信長が驚くべき速さで埋めていった。那古野城には日々、領民の訴訟が持ち込まれる。百姓の水争い、境界争い、商人同士の取引の揉め事……そのひとつひとつに信長は耳を傾け、時には現地まで足を運び、泥に足を浸しながら状況を確かめた。訴訟の結論を述べるときの声は若いながら揺るぎなく、城下では「三郎様は耳が利く。理も情も見えるお方よ」と評判が広まっていった。
領内巡視の姿も、信長の変化を象徴していた。少人数の供だけを連れ、百姓の家を訪ね、鍛冶場で火花を眺め、商人の荷を手に取り値段を問う。その姿は、かつての信秀にも似ていたが、もっと深く、もっと速い。平手政秀の後見が、安定感を与えた。政秀の進言は筋が通り、信長はそれを素早く吸収し、みずからの政治判断へと変えていった。
秀興もまた、書状を通じて二人の距離を取り持っていた。政秀には「信長の性急さは若さゆえではなく、その先を読む鋭さ故」と伝え、信長には「政秀の叱責は、父に代わる者としての情の深さから来る」と記した。その務めが功を奏したのか、政秀と信長の間には不穏さがなく、家中に信長を侮る空気は和らいでいった。
武芸への姿勢もまた尋常ではなかった。信長は扱いの難しい三間半の長槍を飽かず突き続け、その音が空を切り裂くたび、周囲の武士たちは無言で感嘆し、これに続く。弓は市川大介を師として遠矢の訓練を重ね、鉄砲は橋本一巴、兵法を平田三位から手ほどきを受けた。鷹狩に励む姿もまた、ただの遊興ではなく、合戦を想定した軍事訓練となった。
にもかかわらず、領内巡視の際の装束は奇抜極まりなかった。袖を外した浴衣びらに半袴、火打袋をぶら下げ、髪は茶筅に立て、紅糸や萌黄糸で結び、大刀は朱塗り。若衆にも朱武者の装いをさせたから、町に現れるたびに人々は「朱のお殿様だ!」と歓声を上げた。農民たちもその親しみやすい姿に好意を示す一方、城中の口さがない一部の武士は眉をひそめ、「どう見ても、うつけよ」などと囁いた。しかし、秀興にはその裏が読めていた。派手な装束は敵にも味方にも“本心を悟らせぬ仮面”。うつけと思わせておくほうが、むしろ都合のよい場面も多い。
秀興が末森の信秀を見舞うと、信秀は痩せこけた身体を起こしながらも鋭い眼光を残していた。だが、その声は穏やかだった。
「……三郎を頼む。あれは、わしよりも大きくなろう」
その言葉を聞いた瞬間、秀興は膝をつき深く頭を垂れた。
「養父殿、この秀興、信長殿をこれからも支えて参りましょう」
信秀が去ろうとしている時代。その代わりに、信長という奔流が尾張を飲み込もうとしている時代。それを肌で感じ取ったからである。
もはや信長に“うつけ”の影は微塵もない。領民を救い、家臣を掌握し、武芸に秀で、政務を裁き、先の戦を読む。少年は、すでに尾張という国の中心へ歩み出していた。秀興はその歩みを見つめていた。
その頃、織田を追い出し美濃支配を固めていた斎藤道三は、守護の土岐頼芸を追放し、美濃の支配をさらに固めるため、娘の帰蝶を信長の嫁に出す決意を固め、末森に使者を出した。
信秀はこれを承諾し、美濃と完全に和睦、尾張と美濃の国境は固まった。
弾正忠家と敵対した清州衆の動揺は著しくすぐに和睦の使者を送り、弾正忠家と清州衆は和睦。
これにより、美濃と尾張は一時的に平穏を迎えることになる。
帰蝶は再婚説や早世説、子がいないなどいろいろありますが、ここでは嫡男を産み信長との仲も良好としたいと考えています。




