第十話
天文15年(1546年)
夜明けの大浜は、昨夜の焚き火の匂いと、潮が運ぶ湿った風が残っていた。
東の空が薄桃に染まり始めたころ、信長、秀興、政秀、通勝、秀隆は馬の前に立ち、
それぞれ鎧を整えていた。
浜辺の野営地では、兵たちが黙々と荷をまとめ、
破れた槍旗を巻き、焚き火の跡に砂をかけている。
その様子を見渡しながら、信長が静かに呟いた。
「……今川方の増援は、どこにもおらぬな」
浜風で髪を揺らしながら、政秀が進み出る。
「はい。昨夜より周囲を探らせておりますが、軍勢の気配は一切ございませぬ。
おそらく、遠江へ引き上げたかと」
通勝も頷き、昨夜の戦で荒らされた砂浜を指し示す。
「こちらも十分に打ち破っております。
大浜を押さえた以上、当初の目的は果たしておりますぞ」
信長はしばし顎に手を当てる。
「……しかし、岡崎を攻める父上の軍がある。
このまま岡崎の東方面へ回り、挟撃とすることもできる」
政秀が一歩進み、深く頭を下げた。
「信長様。
この八百では、長陣は難しゅうございます。
糧米も一両日が限度。無理に岡崎へ踏み込めば、
敵の伏兵に討たれる危険も増します」
言葉は柔らかいが、その声音には確かな“諫言”の色があった。
信長は視線を上げ、ゆるく息を吐く。
「……分かっておる。
ここで引くのが最善か」
その声には、昨夜の勝利の余韻と、次の戦を既に見据える冷静さが宿っていた。
政秀がほっと安堵の息をつく。
秀隆が笑って口を挟む。
「大将の判断というのはそういうものよ。
攻めるも勇、それを抑えるもまた勇じゃ」
信長は鼻で笑った。
「何とでも申せ。
だが、退くとなれば早いほうが良い」
そして、秀興のほうへ振り返る。
「秀興、そなたらも蟹江へ戻るのだろう?
今日は天気もよい。道中、追い討ちの心配もなさそうだ」
「はい。志乃も心配しているでしょうし、急な出陣でありましたからな。
領内を見回り、政務を片付けませんと」
信長は「ああ、姉上か」と苦い顔をする。
「姉上がそなたの帰りを待っているなら、急いだほうが良いかもしれんぞ」
信長の顔が可笑しく笑ってしまった。
(帰ったらゆっくり話すとしよう。信長も志乃には弱いようだ。姉には頭が上がらないのかな)
信長が馬へ跨がると、兵たちは一斉に松明を折り畳み、作業を終えた。
「では、戻るぞ。
次は、もっと大きな戦になるやもしれん」
信長の声に、兵たちが「ははっ!」と応じる。
「こちらも、戻るとしましょう。叔父上、帰りもよろしくお願いいたします」
「おう、まかされた」
風が吹き、二つの軍勢はそれぞれの帰路へと動き出す。
数刻の後、蟹江の港はいつもと変わらず賑わっている。
網を干す漁師、荷を担ぐ船頭、商人たちの呼び声。
城門をくぐると浅葱色の小袖をまとった母・琴子が駆け寄ってきた。
すぐ横で、志乃も深々と頭を下げた。
「秀興様……!ご無事のご帰陣、心より……心より安堵しております」
丁重な所作だが、頬が紅潮しているのが可愛らしい。
「心配をかけた。信長殿も無事だ。戦も勝った」
そう言うと、志乃の肩の力がふっと抜けた。
そのまま母の横に並び、二人して私の帰りを確かめるように見つめてくる。
(……この顔を見ると、安堵とともに疲れが押し寄せてくるな)
そのままの足で父の執務室へ向かった。
「戻りました、父上」
「うむ。よく帰った。……信長殿の初陣、見事であったそうだな」
父は書類を置き、静かに微笑む。
「見事な連携であった。水軍衆にも大儀であったとな」
いつになく柔らかい声音だった。
父への報告を済ませ、女中から湯を沸かしていると聞き、風呂に入ることにする。
湯殿に入り、甲冑の跡が残る身体を湯に沈めた瞬間、全身から力が抜け落ちた。
肩、腕、腰……
戦場で気づかなかった痛みが、次々と湧き上がる。
今回は敵陣に深く入りすぎたと反省をしながら、疲れを癒した。
執務へ戻ると、家老たちが書類を山のように抱えていた。
「若様、ご帰還直後に恐縮ですが……」
「よい、始めよう」
机に並べられたのは、農作、治水、市場、流民管理――
蟹江のすべてが詰まった報告書だ。
読み進めると、領内の変化が、数字となって現れていた。
輪作と新式農具が功を奏し、蟹江を中心とした領内は およそ七万石 の収量を記録。
新田開拓の余地はまだあり、もう少しだけ収量は伸ばすことができるだろう。
船の出入りは十年前の二倍以上。交易拠点としての地位は揺るぎない。
「港と農地を合わせると……十万石規模の家か」
家臣の一人が鼻を鳴らす。
「もはや蟹江は小名の領地ではござらぬ。国衆でも指折りにございます」
確かな誇りがあった。
この豊かな財政を背景に、数年前から常備兵の整備を進めていた。
現在では、500名の常備兵が交代で、訓練と領内巡回を続けている。
今回の迅速な出陣も、彼らの存在なくしては成し得なかった。
工房からは鉄砲の生産も順調との報告が上がっている。
山伏衆からも硝石生産の成功の報告が上がっていた。順次、常備兵に鉄砲隊を整備していく予定だ。
近隣の騒乱により、流民が増えつつあるが、
現状、治水工事と新田開墾により受け入れることができていた。
寺社も寺領の削減と引き換えに、信徒に応じて予算を付けている。
おかげで、一向宗からの改宗に協力的であり、競うようにしていた。
念のため、改宗場所や時間の指定など取り決めを交わしている。
一向宗の影響力は激減していた。
父から政務の大半を受け継ぎ早3年、領内は順調だった。
一方、政務の大半を私に譲った父は、主に織田家と折衝や山科家を通じて畿内情勢を分析している。
天文法華の乱から10年、京は徐々に復興しているが、畿内は混沌としている。
8月に、細川氏綱が挙兵し、河内守護代・遊佐長教、畠山氏の惣領名代・畠山政国らが堺を包囲。
9月には、摂津衆を氏綱がまとめ上げ、細川国慶が京に侵入したため、将軍・足利義晴は近江に退避し、管領・細川晴元は丹波国に出奔した。
おかげで、京も混乱しており、増加傾向にあった京との取引は伸び悩んでいる。
山科家は、こちらからの支援で屋敷を修繕し、防備を固めている。
内裏は、祖父の献金と父からも改めて献金を贈り、塀が崩れているところなどを修繕していた。
これらの支援を評価して、近々、父に祖父と同じ左衛門佐の官職を叙任するという知らせが届いている。
私にも左近将監を与えるよう交渉中のようだ。
一応、山科家の被官である伊松家は、直接朝廷とやり取りしても、幕府から横やりを入れられることはない。
近江に退避した将軍は、当分、六角の庇護下にある。
数年のうちに、六角の仲介で和睦となるだろう。
そして、信長の前の畿内の覇者である三好長慶が台頭する。
そのような情勢を見ていると、室町幕府は滅びるべくして滅びるのだと感じた。




