第七話 誓約柱の影 ―封印の呼び声―
白い雨はまだ降っていた。
祈り灯の粉は雪のように舞い、肌に乗るたび遠くの誰かの願いをかすかに映しては、すぐノアの血に吸い込まれて消えた。王城前広場――石畳の中央にそびえる誓約柱は、夜にもかかわらず淡い光を滲ませている。人と神とが契りを交わし、言葉を契約へと固定するための柱。そこにいま、断たれた回路が集まり、歪んだ心音を打っていた。
「ここが二つ目の結束点……」
リゼルが息を整え、青い瞳で柱を測る。「回路はまだ生きてる。女神の声は弱っているけど、契約は残ってるわ」
「契約は斬れるか?」
「“言葉”そのものが縫い留められてる。普通なら無理……でも――」
言葉の続きを飲み込むように、リゼルはノアの横顔を見た。ノアの背で魔族の紋が微かに熱を帯び、呼吸のたび詩のような音が骨の奥で反響する。祈りを拒む血が、契りの縫い目を嫌って逆立っている。
「……やるしかない」
ノアは剣を抜き、柱へと歩を進めた。石畳に刻まれた古い祈文が足裏へ粘りつく。リゼルは祭壇で覚えた“結び”の祈りを逆相にし、柱に巻きつく目に見えない糸をほどき始める。ミナは広場の端で身を小さくし、周囲を警戒している。
最初の亀裂は、柱の根元に走った。意味が撚り合わせられた束が、ひと筋だけほつれる。ノアはそこへ刃を滑り込ませ、言葉の目を黙れで断った。契約がびくりと跳ね、周囲の白い雨が一瞬止まる。
「いける……!」
その時、広場の影が一斉に口になった。石畳の目地が開き、人ひとり降りられそうな黒い穴が三つ、四つ、五つ――十。祈り残滓が、ここを守るために集まる。穴の縁から祈り文字の針が雨のように飛び、リゼルの祈りを縫い留めようとする。
「主様、下がって!」
ミナが叫ぶ。ノアは体を捻り、針を腕で受けた。皮膚は裂けない。だが意味が骨へ刺さる。お前も祈れ、お前も誓え、お前も――。
「……黙れ」
一言で、針が粉になって散った。しかし数は減らない。穴は増え、柱の光は逆に強まる。契約は抵抗し、祈りは口を生やして噛みついてくる。ノアの呼吸が荒れる。肺が焼け、背の紋が脈打つ。血が、呼んでいる。
――使え。
――だが、戻れなくなる。
父の声が、冷たい底から響いた。ノアは奥歯を噛み、刃を柱へ当てた。だが刃が触れた瞬間、柱の表面に浮かぶ古文の一節が目に刺さる。
> “召を忘れよ。名を忘れよ。呼ぶな。”
次の瞬間、頭蓋の内側で何かが外れた。視界が白く弾け、遠い夜の残像が押し寄せる。
――熱を出した夜。
禁書の間で、埃の積もる一冊を開いた。何度閉じても、同じページに戻る本。詠唱は記されていない。ただ、描き方だけがそこにあった。陣の、描き方。
ページを撫でた瞬間、胸の奥で火が上がった。世界が反転し、誰かが泣いていた。抱きしめる腕が小さく震え、温かい声が近づいた。「大丈夫よ」――母上の声。
目を閉じる直前、夢の縁で、少女が泣いていた。名前のない顔で、こちらへ手を伸ばし――
「ノア!」
リゼルの声が現在へ引き戻す。針の雨が濃くなる。穴は二十を超え、柱の上では古い契約文が書き換わり始めていた。
――秩序を立てよ。器を戻せ。口に満たせ。祈りを戻せ。
ミナがよろめき、影に足を取られる。ノアは駆け、彼女の腕を引いて転倒を防いだ。穴の奥から伸びる黒い糸がミナの足首へ絡みつき、引きずり込もうとする。ノアは素手で掴み――噛んだ。血の味に似た、鉄と灰の味が舌に広がる。糸が悲鳴のように千切れた。
「主様、だめ……! そんなこと、したら――」
ミナの声が震える。ノアは短く首を振り、「下がっていろ」とだけ告げた。自分の中心に、冷たい輪が回る。祈りを拒む血が、回路を切り刻もうと歯を鳴らしている。
「――リゼル。柱は、あとどれくらいで落ちる」
「“鍵”がいる。言葉じゃない鍵。……主様、あなたの血が、たぶん――」
その時だった。誓約柱の根が脈打つ。石畳の古い目地が光を宿し、ノアの足元の線がひとりでに走り出す。蜘蛛の巣が描かれるみたいに、光の線が交差し、絡まり、円を作る。二重、三重、四重――円の重なりの向こうで、世界の縁が薄くなる。
「これは――」
リゼルの声がかすれる。「召喚、陣……?」
記憶が、裂け目から溢れた。
――剣を持った少年が、夜の教会で膝をつく。背は血で濡れ、呼吸は浅い。
――少年の前に、円があった。彼の指で描かれた円。詠唱のない、世界の外側へ触れるための図。
――少年は血で指先を濡らし、最後の円を閉じる。口は動かない。かわりに、名前を与える。
> 『お前は誰のものでもない。だから、俺が初めてお前に名をあげる。――ナーディア。“希望”って意味だ』
――光の中から少女が現れ、震える唇で言った。
> 『……主様』
――その瞬間、少年は笑った。誰にも見せたことのない、安堵の笑みで。
白い雨が止んだ。世界が、円の中心に集まる。
ノアは膝をつき、震える手で光の線に触れる。指先が覚えていた。詩でも祈りでもない、描き方を。
「ノア……」
「大丈夫だ、リゼル。思い出した」
ノアは黙々と線を繋いだ。線は彼の血を吸い、赤く脈打つ。円が閉じるたび、誓約柱の光が下がる。影の穴は恐れるように後退し、針は方向を失う。ミナが両手を胸の前で組み、泣き笑いの顔で見守った。
最後の円を閉じる前、ノアは一度だけ目を閉じた。胸の奥で、誰かが待っている。遠い夜、泣きながら手を伸ばしていたあの子が。
「――来い」
指先で名を結び、円の中心へ差し出す。
「ナーディア」
世界が鳴った。
音のない雷。白い雨粒が空中で止まり、影の口が震え、誓約柱がその名の響きへ膝を折る。円の中心に、夜より深い闇がひとつ咲き、闇の中に光が一滴落ちる。雫は羽根の形にほどけ、長い髪を編む。
現れたのは、少女だった。
裸足が石に触れる。薄い衣が風に揺れ、紅に近い瞳が、真っ直ぐにノアを射抜く。頬には涙の跡。長い睫毛が震え、唇が言葉を探す。
そして――彼女は、跪いた。
両手を胸に置き、額を石に寄せ、祈るように、けれど祈りではなく、誓いとして。
「……やっと、迎えに来られたのですね、主様」
その呼び名は、骨の芯まで届いた。
ノアの視界が滲み、膝が折れそうになる。リゼルが息を呑み、ミナが小さく歓声とも嗚咽ともつかない声を漏らした。少女は顔を上げ、笑った。泣きながら笑った。
「主様。前の世界で、私は貴方を護れなかった。……あの日、手が、届かなかった。だから今度こそ――」
指先が震えながら伸びる。「この身のすべてで、貴方を護ります」
ノアは歩み寄り、彼女の手を取った。温度が重なる。
その瞬間、記憶が扉を開けた。
――教会の地下室。
――白い外套たち。
――「勇者は神に仕える器である」
――「器が自我を持つのは、異端である」
――刃。
――血。
――倒れる自分を抱きとめ、号泣する少女。
――封印の光。
――『次の世界で、もう一度。主様を護ります』
世界が戻る。ノアは息を吐き、笑った。ひどく乱暴で、どうしようもなく救われた笑みで。
「お前が――ナーディア」
「はい。主様がくださった名。**“希望”**でございます」
誓約柱の光が大きく揺れ、影の穴が一斉に唸った。残滓が後退する。ナーディアの周囲で、空気が異質に澄む。祈りでも、神式でもない。世界の外側に触れた契約が、彼女の存在を肯っている。
リゼルが一歩、前に出た。涙の跡を拭い、膝で礼をする。「私はリゼル。彼の――ノアの、ええと……」
「主様の仲間でございますね」
ナーディアが微笑む。柔らかいのに、芯は鋼だ。「よろしくお願いいたします、リゼル様。ミナ様」
ミナがおずおずと手を振る。「……よろしく、ナーディアさん」
束の間の呼吸。だが、それはすぐに破られる。誓約柱の上部に刻まれた契文が新しい文字を描き始めた。
――召喚、禁。
――召喚主、処断。
――召喚体、封。
「早いな。書き換えが来る」ノアが剣を握り直す。
「主様、わたくしが参ります」
ナーディアが前へ出る。裸足が石を鳴らし、指先が円の残光を撫でる。彼女の瞳が赤く深く染まり、髪が夜の風を掴んだ。
「契約で縫われたものは、契約で切れます」
彼女は小さく息を吸い、低く、やさしく――歌う。
それは祈りではない。名と名を結び直すための歌。前世の夜、封印が落ちる直前に、涙で途切れた旋律の続き。柱の文字が揺れ、線がほどけ、契約の縫い目が露わになる。
「今です、主様」
ノアは一歩で跳び、ほどけた縫い目へ刃を滑らせた。
「――黙れ」
言葉が断たれた。誓約柱が低く軋み、光が崩れ落ちる。影の穴が悲鳴のように縮み、穴から吐き出された祈りの塵が、夜風で散った。広場に、ほんの一瞬だけ本当の静けさが訪れる。
息を合わせるように、ナーディアがノアの肩に触れた。「主様。ここで立ち止まれば、また繋がります。次へ」
「ああ。七つのうち、二つ目――」
「あと五つ」リゼルが地図を思い出すように囁く。「北塔の書庫、王城前の誓約柱、商環の噴水、東門の巡礼門、西苑の灯篭群、聖堂地下の根。どれも、簡単じゃない」
ミナが拳を握った。「でも、行かなきゃ」
ノアは頷き、誓約柱を振り返らず踵を返した。その背で、ナーディアの声がやわらかく追いかける。
「主様。……一つだけ」
「なんだ」
「前の世界で、お別れを言えませんでした。だから今、言わせてください」
彼女は微笑み、透る声で、しかし確かに告げた。
「おかえりなさい、主様」
胸が、熱くなる。ノアは短く、けれどはっきりと返した。
「ただいま」
そのやり取りを聞いて、リゼルが静かに笑い、ミナも目元を拭った。夜風が白い雨を払い、広場の影が少しだけ浅くなる。
――空白に、音が戻る。
その音はもう、神の声ではない。
ノアの足音。ナーディアの裸足の音。リゼルとミナの息遣い。
四つの音が連なり、次の結束点へ向かっていく。
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