第六話 沈黙の聖堂
祈りが止んだ夜は、音が死ぬ。
セリアルの街から鐘の響きが消え、風は屋根の上で迷子になった。石畳には祈り灯の残光が微かに残り、消えかけの火が吐く白い息だけが、まだこの世界が続いていることを示していた。
ノア=ヴェルグレインは、瓦礫に背を預けたまま息を整える。隣では聖女リゼルが外套の裾を押さえ、震えを抑え込んでいた。塔の心臓――祈りの回路を断った余波は、まだ街の奥に潜り込んでいる。
最初に異変が来たのは、耳だった。
遠くで、同じ節回しの祈りが千人分、同時に途切れ、そして――戻らない。代わりに、何かが喉を引っ掻くような乾いた音が、四方からじわじわと近づいてきた。祈れなくなった喉が、言葉の形を忘れて軋む音だ。
「……静かすぎる」ノアは呟く。「この静けさは、空白じゃない。欠損だ」
リゼルは頷いたが、視線は遠い。「祈りが抜け落ちた場所に、別のものが入り込もうとする……そんな感じがします」
「何が来る?」
「――祈りの残滓。声だけになった神の、切れ端」
言葉の直後だった。通りの端で、ひとりの男が膝から崩れ落ちた。顔は上を向いたまま、口だけが祈りの形を繰り返す。声は出ない。代わりに、彼の胸から薄い白煙みたいなものが立ち上がり、空へ解けていく――いや、集まっていく。街路の上、見えない一点に。
次々に倒れる。女、子供、老人。祈りを日常にしてきた者ほど、喪失に耐えられない。目は開いているのに焦点が合っていない。彼らの口から漏れる空気だけが、祈りの残骸を吐き出す。
空がざわめいた。
見えないはずの線が、夜気の中に浮かび上がる。街に張り巡らされた導線が、断たれた先でまだ「何か」を求めて震えている。断面が擦れ合う音が、歯の根に触れるように冷たい。
「伏せて」リゼルがノアの肩を掴む。次の瞬間、祈り灯の柱が一本、静かに裏返った。
光が内側にめくれ、影になって地面へ落ちる。影は畳のように広がり、通りの中央に黒い長方形の穴を作った。その穴から、白い手が一本、音もなく伸び出る――骨ばっている。皮膚は紙のように薄く、爪は祈り文字の形に尖っていた。
ノアは剣を抜いた。刃が夜を裂く音に、影の穴の縁がびくりと震える。手は一度引っ込み、代わりに声が溢れた。
> ……ルシア……いや、レオルナ……
どうか、どうか、どうか――
失わないで、欠けないで、倒れないで――
祈りの断片が、何千人分も重なって、一つの生き物みたいに蠢いている。耳ではなく、皮膚と骨で聞かされる声。ノアは一歩前に出て、穴に剣先を突きつけた。
「喰っているのか。祈りを」
影の奥で、何かが笑ったように見えた。その黒は夜より濃く、ぬめりも熱もない。そこから一本の筋が伸び、倒れた男の胸へ戻ろうとする。獲物を引きずり込むように。
リゼルが祈り衣の袖を握りしめる。「止めないと。残滓は形を得ようとしている。声だけじゃなく、口を持つ前に」
「合図を」ノアは無言で頷く。
彼は影の縁を踏み、刃を横に払った。黒と白の境界が裂け、影の面が波のように歪む。すかさずリゼルが両手を前へ伸ばし、祈りの否定を紡ぐ。彼女の祈りは、願いを叶えるためのものではない。結び目をほどくための祈り――セリアが最後に託した、逆位相の祈りだ。
街路に散った残光が、糸になって集まる。リゼルの掌に集約されたその糸が、影の穴にかかる。
「――ほどけ」
糸が沈む。黒がざわめき、穴の輪郭が溶ける。だが、その時だ。頭上の雲が音もなく裂け、白い雨が降った。雨は水ではない。祈り灯の粉――細かく砕けた信仰の塵が、雪のように舞い落ちてくる。
降りかかった塵が、リゼルの頬に触れた瞬間、彼女の睫毛が震えた。瞳の奥で、青が揺れる。塵には、まだ命令が残っている。器へ戻れ、声を通せ、と。
ノアは躊躇わずリゼルを抱き寄せ、外套で覆った。白い雨が布の上に積もり、無数の祈り文字が浮かんでは消える。彼の背中の紋が熱を持つ。血が、ざわりと立ち上がる。
――使うのか。
胸の奥で、父の声が低く鳴った。使えば戻れないかもしれない。祈りを拒む血は、祈りの形で迫るものをすべて弾き返す。弾くだけならいい。噛み砕き始めたら、そこから先は、戻れない。
ノアは歯を噛み締めた。リゼルの肩越しに、影の穴が再び口を開けるのが見えた。黒い縁が歯のように尖り、中央で何かが蠢いている。口を持つ前に、終わらせる。
「――離れないで」
囁き、ノアは一歩踏み出した。足元で石が鳴り、血が応える。背の紋がひとつ瞬き、空気の流れがひっくり返る。白い雨が進路を譲るように割れ、影の穴の上で渦を巻いた。
ノアは剣先で渦の中心を穿つ。祈りの塵が刺し傷に吸い込まれ、黒が悲鳴のような低い振動を発した。耳が圧に焼ける。リゼルの祈りが重なり、静謐が刃になる。
影が縮む。戻せる。だが、その時――街の別の区画から、同じ穴が三つ、四つ、五つ、と同時に開いた。
ノアとリゼルは顔を見合わせた。断った回路の断面が、そのまま口になっていく。塔一つを壊した程度では、街に縫い込まれた祈りの総量は消えない。残滓は散り、塵は集まり、口は増える。
「逃げよう、場所を変える。ここでは飲まれる」ノアが言う。
「どこへ?」
「――聖堂だ。祈りを一番吸ってきた場所は、逆に空になっているかもしれない」
ふたりは路地を抜ける。倒れた人々の間を縫い、祈り灯の影を飛び越える。白い雨は降り続け、肌に触れると、遠くの誰かの祈りがちらりと脳裏に浮かぶ。母の無事を願う声、兵士の勝利を願う声、飢えた子のパンを願う声――一瞬ののち、すべてノアの血に吸われて消えた。
胸が重くなる。消したのは願いの形だ。本物の想いまでは、消えない。自分に言い聞かせる。足を止めれば、飲まれる。
聖堂は、広場の向こうに口を開けていた。大扉は半ば砕け、内部は闇。祈り灯はすべて落ち、祭壇の上にだけ、朽ちた金の輪が横倒しになっている。レオルナの象徴。血の匂いはない。あるのは、長い祈りの終わりの匂いだけ。
中に踏み込んだ瞬間、街の騒音が途切れた。そこは、音のない井戸だった。声は届かず、外の白い雨もここでは溶ける。祈りが何層にも重なって圧縮された末に、すべて抜け落ちた空洞――沈黙の聖堂。
リゼルが膝をつく。「……ここなら、少しは持ちこたえられる」
ノアは扉の残骸を引きずり、仮の障壁を作る。息を吐いたところで、気づく。祭壇の輪――金の内側に、ひとつだけ灯りが残っていた。蝋燭ではない。言葉の火だ。短い祈りが、火の形をとって揺れている。
近づくと、その祈りはノアの前で震え、形を変えた。誰かの声が、そこから直接響く。
> ……ノア。
もしこれを見ているなら、君はたぶん、塔の回路を一つ切ったんだろう。
まだ間に合う。七つを全部、断って。
“彼女”を、器から解放して。
声は――セリアだった。残響が、祭壇の奥に残っていたのだ。リゼルが口元を押さえる。青い瞳にまた涙が満ちる。ノアは目を閉じ、頷く。
「七つ。塔は一つ。残り六」
「……北塔の書庫、王城前の誓約柱、商環の中心噴水、東門の巡礼門、西苑の灯篭群――そして、この聖堂の地下にある根」リゼルが淡々と列挙する。声は震えているのに、言葉は正確だった。
「順路を決めよう。最も包囲が薄く、最も被害が少ない順で――」
言い終わる前に、聖堂の床が凹んだ。祭壇の前、石の継ぎ目が吐息のように開き、闇の裂け目が広がる。ここは空洞――だが、空洞は呼ぶ。空白は、必ず何かを呼ぶ。
闇の底から、細い足音が登ってきた。子供が裸足で石を踏むような音。ノアは思わずリゼルの前へ出る。剣を下段に構え、呼吸を殺す。
暗闇から現れたのは、少女だった。年の頃はティアと同じくらい。白い布をまとい、髪は肩で切り揃えられている。顔は伏せられ、手は胸の前で祈りの形を――いや、違う。祈らされている。指の関節が不自然に曲がり、宙の一点へ固定されている。
少女の背後で、黒い糸が揺れていた。糸は聖堂の壁一面に張り付いて、祈りの文字の上に縫い目のように重なっている。糸の先は、少女の肩甲骨のあいだに消えていた。
リゼルが息を呑む。「残滓が……形を持った」
少女が顔を上げた。瞳は空で、口元が、祈りの文をそのままなぞるように裂けた。
> ……祈れ。
祈りを戻せ。
器を満たせ。
秩序を立てよ。
欠けたところを埋めよ。
――祈れ。
ノアは一歩踏み出した。剣が低く鳴る。彼の背の紋が微かに光り、空気の目に見えない皺が刃に沿って寄ってくる。少女はその場から動かない。代わりに、壁の糸が生き物のようにほどけて伸び、祈り文字の針となって飛んだ。
ノアが身を捻り、針を払う。火花は出ない。針は触れたものをすり抜ける――意味の針だ。刺されれば、祈りを思い出す。従え、と命じる言葉が骨に染みる。危うい。刃で切るだけでは足りない。
「ノア、言葉を切って」リゼルが叫ぶ。「針は意味だから、剣でなく――」
「わかってる」
ノアは短く頷き、息を吸った。胸の奥、血の温度をほんのわずかに上げる。祈りを拒む息――異端の呼吸。父に教わった、最後の礼。祈りを否定するための礼儀。
「――黙れ」
その一言が、聖堂の空気を反転させた。針が空中で解け、言葉が粉になって落ちる。少女の唇が凍り、黒い糸が震える。リゼルがすかさず手を伸ばし、糸の結び目をほどく。二人の行為は、表と裏のように重なった。
少女の背の糸が一本、二本と外れていく。外れるたびに、彼女の瞳が少しずつ色を取り戻し――すぐまた薄れていく。残滓は、別の糸を繰ってくる。終わりがない。
ノアは剣を下ろし、静かに少女へ近づいた。距離を詰めながら、あえて目を逸らさない。彼女の空虚を見続ける。そこに、誰かの祈りが居座っている。少女自身の声を、追い出している。
「名前は?」ノアが問う。
返事はない。黒い糸が口の形を勝手に作る。ノアはもう一歩踏み込み、少女の額に人差し指を置いた。血の温度をほんの少し、移す。
「君の名前は?」
沈黙。次の瞬間、小さな声が、祈りの奥から滑り出た。
「……ミナ」
ノアは微笑んだ。「ミナ。帰ろう。君の言葉で」
黒い糸が悲鳴を上げ、聖堂の壁が唸る。床下の闇で、無数の口が同時に開いたような圧がのしかかる。残滓が怒る。器を返せ、と。
リゼルが祈りを紡いだ。今度の祈りは、ほどくのでも断ずるのでもない。結ぶ祈り。ミナの名前を、彼女自身の胸に結び留める祈り。セリアが教えた、たった一度だけ使え、と言った方法。
「ミナ。あなたの声は、あなたに属する」
糸がぱん、と弾けた。少女の身体から黒が抜け、聖堂の闇へ落ちる。ミナは膝から崩れ落ち、震える肩を抱えた。泣き声が、やっと音になって聖堂に満ちる。
ノアは肩の力を抜いた。リゼルがそっとミナを抱きしめる。少女は縋り、嗚咽をこぼす。聖堂の壁はまだ黒く濡れているが、その黒は先ほどほど飢えていない。ここでは、祈りは少し人に返る。
だが、広場の向こうから、また鐘が鳴った。鳴るはずのない鐘が、誰かの手で無理矢理振られている。白い雨が、再び濃くなる。街全体で、残滓が形を取り始めている。
「時間がない」ノアは短く言う。「ここに留まれば、飲まれる」
リゼルは頷き、ミナの涙を拭った。「行ける?」
少女は小さく頷いた。まだ足は覚束ないが、瞳には自分の色が戻っている。
ノアは祭壇の金の輪を振り返った。セリアの火は、もう消えていた。だが、温度だけが指先に残る。七つの結束点。回路の根。順に断つ。残滓が完全に口を持つ前に。
聖堂を出る瞬間、天井の闇が揺れた。声が降りる。レオルナではない。もっと小さく、しかし鋭い声。
> ……奪ったね。
祈りを。
だから――あなたの祈りを、もらう。
次の瞬間、ノアの胸が掴まれた。見えない手が、心臓を直接撫でる。熱が冷たく裏返り、喉の奥に焦げた鉄の味が広がる。膝が笑い、視界の端が黒く染まる。
「ノア!」リゼルの声。遠い。ミナの泣き声。遠い。
ノアは歯を立てた。血が応える。渡さない。祈りを持たない者の心臓は、祈りでは動かない。父の言葉が、暗い底から浮かぶ。
> 祈りを持たぬなら、意志で立て。
ノアは闇に向かって笑った。「悪いが、ボクには祈りがない」
胸を掴む手が、わずかにたじろぐ。その隙に、ノアは一歩踏み出した。扉の外、白い雨。影の口。増え続ける黒。街は沈黙し、しかし確実に何かに満たされつつある。
「行くぞ」ノアは言い、リゼルの手を取った。彼女はミナの手を取る。三つの体温が連なり、白い雨の下へ滑り込む。
沈黙の聖堂は背後で口を閉ざし、祈りの火は完全に消えた。
――空白は、音を呼ぶ。
その音が、神の声である必要は、もうない。




