第五話 祈りの回路
夜霧が街を包む。
聖都セリアルは、まるで世界そのものが祈っているように静まり返っていた。
教会の鐘がゆっくりと鳴り、光を宿した雲が塔の頂を照らしている。
――あれが、祈りの回路の中心。
ノア=ヴェルグレインは屋根の上から塔を見つめ、唇を結んだ。
隣に立つリゼルの横顔が月光に照らされ、白い肌が淡く輝いている。
その瞳の奥に宿るのは恐れか、覚悟か。
「本当に、やるのね……」
「やらなきゃ、あの声は止まらない」
塔の心臓部には“祈りの回路”――神レオルナが人々の祈りを吸い上げる装置がある。
それを壊さなければ、この国は永遠に“神の声”に支配される。
風が吹いた。
リゼルの金髪が舞い、ノアの頬を掠める。
その瞬間、胸の奥に熱が走った。
血の鼓動が跳ね、内側からざわめくような音が響く。
――やめろ。
――それを使えば、また……
耳の奥で誰かの声がした。
ノアは歯を食いしばり、頭を振る。
抑え込もうとしたが、血が逆流するように身体の中で渦を巻いた。
「ノア……?」
「下がれ、リゼル!」
次の瞬間、地面が裂けた。
魔力が吹き上がり、黒い炎のような光がノアを包み込む。
空気が震え、祈りの光が砕ける。
彼の足元から伸びた魔法陣が狂ったように回転を始めた。
皮膚が焼ける。
筋肉が裂ける。
だが痛みよりも恐ろしいのは、自分の中から聞こえる“声”だった。
> 『――我が子よ。祈りを拒め。世界に従うな』
誰だ。
その声は、あの日消えた父のものだった。
まだ幼い頃、優しく笑っていた魔王の姿が脳裏に蘇る。
ノアの瞳が血のように赤く染まり、光を飲み込むように輝いた。
「……父上?」
リゼルの声が震えた。
彼女の目の前で、ノアの背に黒い紋が浮かび上がる。
それは人間のものではない。
祈りを拒む血、魔族の印。
「やっぱり……あなた、人間じゃ……」
「――違う、リゼル。ボクは……」
言葉が喉で途切れた。
黒い光が爆ぜ、塔の結界が悲鳴を上げる。
祈りの回路が拒絶反応を起こしている。
ノアの存在そのものが、“神の系統”にとって異物だった。
風が爆ぜ、祈りの灯火が消える。
リゼルは恐怖に顔を歪めながらも、ノアの腕を掴んだ。
「痛い……痛いはずなのに、どうしてそんな顔するの!」
「ボクは……壊すんだ、リゼル。祈りも、神も、全部……!」
叫んだ瞬間、血が溢れ出した。
それは魔力ではない、“拒絶”の奔流だった。
ノアの中の血が、祈りのエネルギーを食い尽くしていく。
塔の石壁が軋み、聖堂の鐘が勝手に鳴り始めた。
人々の祈りが悲鳴に変わる。
祈りが破壊される痛みが、世界に伝わっていくようだった。
リゼルは震える手でノアの頬を押さえた。
赤と金が交錯する光の中で、彼女は泣いていた。
「あなたの血は、世界を壊すためのものじゃない……!」
「じゃあ、何のためにある!」
「誰かを守るために、でしょう! あなたのお父さんが、それを教えたはずよ!」
その瞬間、ノアの脳裏に父の声が重なった。
> 『ノア。もし世界が祈りで塗り潰されるなら、お前だけは祈らずにいろ。
だが決して、誰かを憎むためにその力を使うな』
血の渦が止まった。
赤い瞳が、ゆっくりと元の青に戻る。
リゼルの手の中で、ノアは息を吐いた。
「……父上、ボクは……」
「ノア、もういいの。祈りの回路は壊れたわ」
振り返ると、塔の中心にあった光の柱が崩れ落ちていた。
回路が切断され、街中の祈りが途絶えている。
鐘が止まり、風が音を取り戻す。
静寂の中で、リゼルは小さく微笑んだ。
「ねえ、ノア。あなたのお父さんは本当に悪だったの?」
「……いいや。誰よりも人を信じていた。だから、神に裏切られた」
ノアは拳を握り、崩れ落ちる塔を見つめる。
リゼルが隣に立ち、彼の手をそっと包んだ。
「なら、あなたがその理想を継げばいい。祈りを、もう一度正しい形に」
「……そうだな」
夜空が赤く染まり、祈りの光が散る。
それは破壊ではなく、“再生の予兆”のようだった。
神の声が消え、初めて訪れた静寂の中で――
ノアは微かに笑った。
> 『父上……ボクは、あなたの願いを繋ぎます』
その声は、風に溶けていった。
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