第四話 光を纏うもの
夜が深まるほど、聖都セリアルは明るくなる。
祈りの灯が窓ごとに浮かび、無数の星のように瞬いていた。だが、星はどれも同じ色で、同じリズムで瞬く。誰かの手で、空そのものが揃えられているみたいに。
ボク――ノア=ヴェルグレインは、聖女院の外壁に手を当てた。
冷たい石。表面だけが磨かれて光っている。耳を澄ますと、壁の奥で鼓動のような音がした。とても小さく、けれど絶えない音。これは建物の音ではない。祈りの音だ。集められ、束ねられ、圧縮された祈りが、塔の中でゆっくりと回っている。
ペンダントの宝石が、胸元で微かに熱を帯びる。
セリアの声が残した小さな残響が、まるで道案内のように脈打った。
『……“彼女”が動き出す前に――』
“彼女”――聖女。
ボクは外套のフードを深くかぶり、影の階を駆け上がる。石の継ぎ目ごとに刻まれた結界紋様を読み取り、歪みを一つずつ踏み抜くようにして上へ。セリアから叩き込まれた“最短で核心に触れるための踏み方”が、掌と足裏の記憶でまだ生きている。
踊り場の先、銀扉。
深く息を吸い、ペンダントを扉の中央に触れさせる。赤い光が静かに広がった。扉の聖刻がわずかに軋み、鍵穴のない扉が左右に割れる。祈りの香が濃くなる。甘いのに、どこか遠い腐臭を含んだ匂い。
そこは、白い間だった。
壁も床も天井も白。床の中央に円環の魔法陣、頭上には輪を連ねた金の装飾。
円の真ん中に、彼女がいた。
白金の髪。長い祈り衣。両手を胸の前で組み、目を伏せている。
頬を伝う涙が、光を受けて糸になる。
――聖女リゼル。
「……来ましたね」
目を上げずに、彼女は言った。
声は澄んでいる。けれど、その奥に“もうひとつの層”が重なって聞こえた。祈りの深部から響くような、誰のものでもない声。
「ボクの名を知っているのか」
「知っています。あなたが、ノア」
リゼルはゆっくりと目を開いた。青い瞳――セリアと同じ色。だが、そこに宿る光は冷たい。
「そしてあなたが、勇者を殺した人」
胸の奥で何かがひとつ落ちた。
肯定する以外に、言葉はなかった。
「……ああ。ボクが、彼女を殺した」
リゼルの唇が少しだけ震えた。
涙が一筋、音もなく落ちる。
それは悲しみの涙というより、役目として流れる水みたいだった。
「わたしは“器”です。女神レオルナの声を通す器。この塔の祈りを束ね、御心の通りに道を示す」
彼女は自分の胸を指先で軽く叩いた。薄い布越しに、かすかな聖刻の鼓動を感じる。
「だから――わたしを、殺してください」
空気が固まる。
思考が一瞬止まり、すぐに灼けるような怒りがこみ上げた。
「誰に言わされた」
リゼルは静かに首を振る。
「誰にも。これは、わたしの願いです。勇者様の跡を継いで、世界を守るために」
世界を守るために。
その言葉は、セリアがよく使った言い回しと似ている。だが中身が違う。セリアは“人”を守るために剣を握った。今、リゼルは“世界”という言葉で人を捨てようとしている。
「……世界を守るためなら、人間でも魔族でも、誰かひとりを使い捨てにするのか」
「はい。そう決められています」
「誰に」
「祈りに」
リゼルの瞳が、まっすぐこちらを射抜いた。
「レオルナは“誰か”ではありません。この国で積み上げられた祈りそのものです。
沈まぬ太陽、倒れぬ秩序、欠けない秤。人々が求め続けた“こうあってほしい”の層が、女神の形を取った。だから、女神の命令は人々の総意です。抵抗は、祈ったすべての人に刃を向けることになる」
最悪の答え。
ボクが最も聞きたくなかった、しかしいつか必ず直面するとわかっていた答え。
「なら、ボクは世界を敵に回すことになる、というわけだ」
「はい。あなたが勇者様の遺した声を追うなら、必ず」
リゼルが一歩、ボクに近づく。
距離が縮まるごとに、ペンダントが熱を増す。胸板の下で、セリアの声が微かに揺れた。
『ノア……殺さないで。彼女は、わたしの代わりじゃない』
反射的にペンダントを握る。
リゼルがそれを見て、かすかに目を見開いた。
「その声……やはり、勇者様はあなたに残したんですね」
「残したのは声だけじゃない。選択だ」
「選択?」
「そうだ。“世界に刃を向けるか”“彼女を救うか”、両方だ」
その時、白い間の扉が開き、甲冑の軋む音が雪崩れ込んだ。
聖堂騎士。白い外套、白い槍。盾には黒い槍を貫いた白銀の十字――ヴァルドニアの紋章。
「異端侵入! 聖女様から離れろ!」
槍が一斉に構えられる。魔法陣が床に浮かび、拘束の鎖が天井から降る。
「聖鎖結陣――」
「――二度も通じると思うな」
ボクは床を蹴った。
鎖が落ちるより速く、一歩で間合いを詰め、柄で騎士の顎をはじく。
もう一人の胸甲に刃を滑り込ませ、回転。火花。聖油の匂い。
セリアに叩き込まれた最短最小の殺陣が、身体の奥で自動運転のように動いた。
――斬れる。
だが、殺さない。
足を払って、関節を決めて、意識を刈る。白い外套が床に倒れ、槍が転がる。
呼吸が乱れる騎士たちの向こうで、リゼルが微動だにせずこちらを見ていた。涙は止まらないのに、瞳は揺れていない。
「ノア」
名前を呼ばれる。
声が二重に聞こえた。リゼルの声と、その奥に微かに重なるセリアの声。
「あなたは、まだ救われたいのでしょう?」
「救われる気はない。果たすだけだ」
リゼルが首を横に振る。
祈り衣の裾が、床の円環を撫でた。
白い間がわずかに震える。
――塔そのものが、彼女の祈りに反応している。
「では、せめて“選んで”ください」
「何を」
「わたしを殺すか。わたしを連れて逃げるか」
喉が鳴った。
自殺の指示ではない。選択の提示。
彼女は“器”でありながら、器の役目から一歩外に出て、ボクに未来を渡そうとしている。
「殺せば、きっと祈りは新しい器を探すだけ。
でもわたしを連れて逃げれば、塔の回路は乱れます。祈りの流れが変わり、女神は“わたし”にアクセスしにくくなる。
……その隙に、何かを変えられるかもしれない」
騎士たちが再び立ち上がり、詠唱の声が重なる。
床の円環が青白く光る。
祈りの回路――この塔だけではない。街全体に巡らされた聖導線が、塔の中心に向かって収束しているのが、肌でわかった。
“神”は上から降ってくるのではない。下から積み上がってここに集められる。
「祈りは、刃にも鎖にもなるのね」
自分の声が乾いていた。
リゼルは小さく笑い、また一筋だけ涙を落とす。
「本当は、灯りにもなるはずです」
その言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
セリアが、かつて笑って言った言葉に似ていたから。
『祈りは、誰かを縛るためじゃない。誰かのために手を伸ばすことだよ』
ボクは、決めた。
剣を鞘に納め、リゼルに向けて手を差し出す。
「ここから出る。君を、連れて」
リゼルの睫毛が震え、青い瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。
次の瞬間、塔が咆哮した。
壁に浮かぶ聖刻が一斉に点き、輪を連ねた天井が開く。
声が降りてきた。
『――やめなさい』
冷たく、完璧で、個を持たない声。
それは名前を名乗らない。名乗る必要がない。
この国で積み上げられた祈りの総和、その形。
レオルナ。
『器を持ち去ることは、秩序を欠く。秩序の欠損は、災厄を呼ぶ。災厄は、祈りを歪め、人を傷つける』
『あなたはまた、誰かを殺すのですか、ノア=ヴェルグレイン』
胸が焼けた。
名前を呼ばれ、あの日の血の温度が蘇る。
――違う。
ボクはこの声に、これ以上、言葉を渡さない。
「秩序を口にするなら、まず“誰を守る秩序か”を言え」
ボクは天井を睨む。
「器を殺して祈りを保つ秩序なら、壊す価値がある」
『ならば、試しなさい』
塔の光が収束し、床の円環が刃に変わる。
白い鎖がふたたび降り、今度は光の針が混ざっていた。魂の縫い目に刺さるような、得体の知れない痛み。
ペンダントが灼熱に跳ねた。
赤い宝石の奥から、セリアの声がひときわ強く響く。
『ノア、今――わたしの声を手放して』
「手放す……?」
『ここで“鍵”になるのは、わたしじゃない。彼女だよ』
理解が、稲妻のように走る。
ボクはペンダントの鎖を切り、リゼルの首へと回した。
金属が触れる瞬間、赤と青の光が重なり、白に変わる。
塔の鎖が一瞬、躊躇した。
リゼルの身体を縛っていた見えない糸が、たわむ。
「リゼル、握って」
差し出した手を、彼女が掴む。
その掌は冷たいのに、震えていなかった。
ボクは足を踏み出した。
床の円環が拒む。塔の結界が軋む。
――だから、上へ。
天井の輪が幾重にも重なる。
セリアに教わった一歩。空間の継ぎ目を拾い、重力の皺に爪先を引っかけるようにして跳ぶ。
祈りの風が顔を打ち、聖油の匂いが目を刺す。
背後で、レオルナの声が追ってくる。
『祈りをほどくな。世界が崩れる』
「祈りを縫い直すんだよ」
誰にともなく言って、ボクは輪の隙間へ身を投げた。
光が弾け、空が近づく。
外の夜風が、頬を打った。
塔の外縁を蹴り、滑る。
リゼルの軽い体重が腕にかかる。
足元、遠くに敷石。間に合わない――いや、間に合わせる。
風の筋を読む。街路の祈り灯が形作る見えない流線。
ボクとリゼルを包むように、涙の光がふわりと膨らんだ。
着地。
膝に衝撃が走り、肺から空気が抜ける。
でも折れていない。リゼルも無事だ。
彼女は腕の中で小さく息を吐き、囁いた。
「――怖かった」
「ボクもだ」
瓦礫の陰へ飛び込み、息を潜める。
塔の警鐘が一斉に鳴り、白い外套が四方から走ってくる。
その喧騒の中で、リゼルがボクの外套を掴んだまま、上を見上げた。
瞳はまだ潤んでいる。けれど、その奥に微かな意思が灯っていた。
「ノア。わたし、あなたと行きます」
「後悔する」
「わたしはもう、器だけではいられない」
その言葉に、ボクは小さく笑った。
セリアの声が、ほんの少しだけ、嬉しそうに揺れた気がした。
『……ありがとう、リゼル』
塔の上から、再び声が降る。
『逃げても無駄だ。祈りはお前たちを見つける』
それが“神”の真実なら、祈りの回路を断つしかない。
塔の心臓へ集められる導線。教会、鐘楼、噴水、交易所――都市の要所に埋め込まれた七つの結束点。
そこを切れば、レオルナの声は弱る。
頭の中で地図が組み上がる。第一区の大聖鐘楼、商環の中心噴水、王城正門前の誓約柱、東門の巡礼門、西苑の灯篭群、北塔の書庫、そして塔自身。
「リゼル。祈りを集める場所を知っているか」
「……はい。案内できます」
「じゃあ、走ろう。神さまに、少し眠ってもらう」
ボクたちは瓦礫の陰から飛び出した。
警鐘が鳴り、祈り灯が連鎖して明滅する。
街そのものが、巨大な敵のように目を覚ます。
だが、もう決めた。
世界全体を敵に回すことになっても、ボクは彼女を、そして誰かを使い捨てる秩序を許さない。
セリアが残した声は、リゼルの涙と重なって、ボクの足を前へ押す。
夜風が、少しだけ暖かい。
祈りの回路を斬る旅が、今始まった。




