第三話 聖女の涙
夜が明ける。
神聖院の崩れた屋根から光が差し込み、灰の中に漂う粉塵を白く染めていた。
静寂。破壊の直後に訪れる、不気味な静けさ。
ノア=ヴェルグレインは瓦礫の中に立ち、剣を杖のように突き立てた。足元には、血と灰が入り混じった泥が広がっている。
ヴァルドラス――教導院長であり、勇者を操った男は斃れた。
だが、あの最期の言葉が頭から離れない。
> 「……神の意志は、次代へ……加護は継承される……」
加護は継承される。
つまり、“次の勇者”がもう存在している。
あるいは、それ以上に――神が、まだこの国を支配している。
ノアは拳を握りしめた。血が滲んでも、痛みを感じない。
その時だった。崩れた壁の向こうから、かすかな声がした。
「……う、うぅ……」
泣き声。
ノアは慎重に瓦礫をどけた。現れたのは、小さな少女だった。
年の頃は十にも満たないだろう。白い神官服の裾は破れ、煤に汚れている。
膝を抱えてうずくまるその姿は、どこか懐かしいものを感じさせた。
「……大丈夫か?」
ノアの声に、少女はビクリと身体を震わせる。
怯えた瞳。けれど、その色を見た瞬間、ノアは息を飲んだ。
――青い瞳。あの、セリアと同じ色をしていた。
「あなた……魔族なの?」
唐突な問いだった。
「どうしてそう思う?」
少女は涙を拭いながら、少しだけ微笑んだ。
「匂いがする。……勇者様が言ってた、“優しい匂い”」
ノアの胸に痛みが走った。
勇者――セリア。
その名を、今この国の誰もが“禁句”のように扱っているというのに、この子は恐れずに口にする。
「君は……勇者を知っているのか」
「はい。わたし、勇者様のお世話をしていたんです。神聖院で」
少女は、震える手で胸の十字飾りを握りしめた。
「勇者様は……とても優しかった。笑ってくれて、食事のときもわたしと話してくれて。
でも、ある日を境に、突然泣かなくなって……声も、表情も、何も……」
ノアは膝を折り、少女と目線を合わせる。
「……何があったか、教えてくれ」
少女は唇を噛み、やがて口を開いた。
「勇者様は、“神聖術式”を埋め込まれたんです。
『女神の加護』って呼ばれてましたけど……実際は、“操るための呪い”でした」
その言葉に、ノアの中で何かが軋む音がした。
怒りでも悲しみでもない、もっと冷たい何か。
脳裏に蘇るのは、あの日のセリアの笑顔。空洞のように静かな、無理に作られた笑み。
「勇者様は何度も拒もうとしていました。
でも、身体が勝手に動くんです……! 剣を握る手が、涙を流しても止まらない。
“神の声”が聞こえるたびに、痛そうに頭を抱えて……」
少女は泣き崩れた。
ノアは拳を握ったまま、その姿を見つめるしかなかった。
それが、セリアの真実。
神の“加護”とは、神の“支配”だったのだ。
「君の名前は?」
「……ティア、です」
「ティア。どうして君が助かった?」
少女は小さく首を振る。
「わかりません。でも、勇者様が言ってました。
『もし、わたしがいなくなったら――代わりに伝えて』って」
ティアは胸元の鎖を外した。そこには銀のペンダント。
中央に嵌められた赤い宝石が、微かに光を放つ。
ノアがそれに触れた瞬間、空気が震えた。
――声が、響いた。
> 『……ノア……ごめんね……でも、これで終わりじゃない……
“彼女”が動き出す前に、止めて……お願い……』
声は弱く、途切れ途切れだった。
けれど、それは紛れもなくセリアの声だった。
「“彼女”……?」
ノアが問うと、ティアは震えながら答えた。
「最近、聖都で“聖女”と呼ばれる人が現れたんです。
神の声を聞くことができるって……でも、その聖女様、いつも泣いてるんです。
何もないのに、涙を流して……まるで、誰かの悲しみを代わりに受けてるみたいに」
ノアの胸に、寒気が走った。
勇者の加護――いや、神聖術式。
それが、聖女という名で再び使われている。
「……ヴァルドニアは、まだ続けるのか。
罪を、同じ方法で繰り返すのか」
ノアの声は低く沈んだ。
ティアは涙を拭い、震える声で言う。
「勇者様は……あなたのことを話してました。
『ノアは誰かを守るために剣を振るう子だ』って」
その言葉に、ノアは思わず目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、あの穏やかな笑顔。
> 「君なら、世界を変えられるよ」
あの時、確かにそう言ってくれた。
「……ありがとう、ティア」
ノアはゆっくりと立ち上がり、瓦礫の外を見つめた。
遠く、光の塔が見える。聖女が祈るという塔。
そこに、すべての始まりと終わりがある。
「ここに隠れていろ。ボクは“聖女”に会いに行く」
ティアはノアの手を握る。
「気をつけてください……ノア様。あの塔には、“神”がいます」
「……構わない。ボクはもう、祈りを捨てた。
神だろうと何だろうと、彼女を奪ったものを、許さない」
◇◆◇
夜。聖都の中心、光の塔――聖女院。
月光を受けて輝くその塔は、まるで神の指のように空を突いていた。
塔の頂には、ひとりの少女が立っている。
白金の髪、純白の衣。だが、その頬には乾かぬ涙の跡。
「……彼が、来る」
少女――聖女リゼルは静かに呟く。
風が彼女の髪を揺らし、瞳に宿る青が月光を映す。
その瞳は、どこかセリアに似ていた。
リゼルは胸に手を当て、微笑む。
> 「主神レオルナよ……これが“御心”ならば、どうか、導いて」
祈りの声が塔の中に響く。だが、その祈りの奥底に、ほんの一瞬だけ――
“恐れ”と“悲しみ”が滲んだ。
リゼルの耳に、誰かの声が囁いた。
> 「リゼル……守って。もう、誰も……」
それは、確かにセリアの声だった。
少女は涙を流す。
聖女の涙が、光となって床に落ちた。
その光が、遠く離れた場所――瓦礫の中で眠るティアの頬を照らす。
まるで、ふたつの祈りが繋がっているかのように。
◇◆◇
夜風が吹く。
ノアは塔を見上げ、深く息を吸った。
「待っていろ……今度こそ、君を解き放つ」
剣が微かに光を帯びる。
それは怒りの炎ではなく、悲しみが形を変えたもの。
復讐の夜は、まだ始まったばかりだ。




