第二話 人の国の影 ― ヴァルドニア王国 ―
魔王城が焼け落ちて、三日が経った。
灰の匂いはまだ空気に残り、風が吹くたびに黒い粒子が舞い上がって地面に落ちていく。城の跡には、かつての栄華を示す瓦礫と血の染みだけが静かに横たわっていた。
ノアは自らの手で父と母を葬った。王族としての墓地に埋めることは許されない。あの場所はもう、ヴァルドニア王国の兵と教導院の者たちに見張られているという。
「……必ず、終わらせる」
ノアは低く呟いた。言葉は風にかき消されるが、その決意は彼の中で燃え続けていた。手に残る乾いた血がおそろしく冷たく感じられる。剣の欠片を腰に差し、外套のフードを深く被る。向かう先は聖都――セリアル。あの国の中心にある大きな光の塔、神聖院がある場所だ。
辿り着いたセリアルは、ノアの記憶よりも冷たく、美しかった。清らかな石畳は朝露のように光り、噴水は澄んだ水音を奏でている。人々は皆、朝の祈りを終えたばかりか、整然とした笑みを浮かべて通りを行き交っていた。だがその笑顔は均質で、どこか人形めいて見える。ノアの胸に内なる何かがざわついた。
ノアは“アレン”という偽名を名乗り、冒険者ギルドに身を登録した。偽名の理由は簡単だ。あの国では魔族であることが露見すれば命を奪われかねない。ここでノアは、目立たぬように、同時に王国の奥へと近づける存在にならねばならなかった。
ギルドの仕事は単純だ。魔物退治、護衛、依頼のこなし──だがその合間に、情報は動く。酒場の騒音の間から耳に入る会話、依頼人の噂、噂話に混じる役人の名。ノアはそれらを拾い、繋げ、地図のように頭の中で整理していった。彼の目的は決まっている。教導院――神聖院の聖域へ、たどり着くことだ。
ある夜、ギルドの酒場で年老いた冒険者が酔った勢いで口を滑らせた。
「勇者様は神聖院の管理下だってよ。最近じゃ姿を見た者もいねぇ」
その言葉に、周囲がしらけるような空気になった。神聖院。ヴァルドニアにおける宗教と政治の中枢。教導院が統治の実務を担い、王はその表象に過ぎないという話を、ノアは幼いころから父上の言葉で聞いていた。
ノアは酒を一口飲み、平静を装って返す。
「神聖院にはどうやって入る?」
老冒険者は笑った。「貴族か神官、あるいは特別な招待状がいる。普通は門前で衛兵に止められるだけだ」
ノアの目には決意が光る。ならば、神官として紛れ込めばよい。祈りの衣を纏い、日常に混じれば、教導院の近くにも自然と入れるはずだ。
計画は淡々と進んだ。ノアは孤児院の奉仕者として身を寄せ、祈祷、清掃、炊事をこなしながら教会に馴染んでいった。偽名を名乗り、夜は聖歌を覚え、朝は子供たちの面倒を見る。人々は彼を信用し始め、やがて見習い神官として神聖院の補佐に推薦された。ノアは心の中で、父と母の顔、セリアの笑顔、そしてあの日見た“外套の内側の針痕”を繰り返し思い出していた。
ヴァルドニアの教義は明快だ。女神レオルナの名の下に秩序を説き、レオルナの教えに背く者は穢れであると断じる。穢れは排除されるべきで、国家はそれを徹底して正すのだと教える。表面の言葉は慈愛に満ちているが、その奥には選別と抹消がある。ノアはそれを肉の感覚で知っていた。
ある夜、ノアは禁域に近い通路を抜け、神聖院の地下へと忍び込んだ。薄暗い廊下を進むと、やがて巨大な扉が現れた。重い石扉を押し開けると、そこには広い空間と、床一面に刻まれた複雑な魔法陣があった。円の中心に映し出された銀の紋章は、女神レオルナだ。胸が締め付けられる思いがした。セリアの胸に刻まれていた印と、同じ紋章だった。
「やはり、ここが始まりか」
背後で声がした。振り返ると、長衣を纏った白髪の老人が薄暗がりに立っている。彼の背筋は伸び、瞳は冷たく光っていた。教導院長、ヴァルドラスだ。
「魔族の匂いがするな。よくも潜り込んだな」
ノアは剣を静かに構える。全身が緊張する。ヴァルドラスの口元に浮かんだ笑みは、慈悲ではなく確信に満ちていた。
「セリアを……お前たちが操ったのか」
「操るとは語弊がある。導いたのだ。神の意志に沿わせるためにな」
ヴァルドラスの声は冷たく、だが穏やかさを装っている。宗教の欺瞞が、言葉の端々から滲み出していた。
ヴァルドラスは両手を掲げ、古の詠唱を始める。床の魔法陣がうごめき、空気の流れが変わった。天井からは白い鎖が音を立てて降り注ぎ、ノアを拘束しようとした。「聖鎖結陣」──教導院の標準式だ。だがノアの中の怒りは、ただの憎悪ではなかった。父と母の血、師であったはずのセリアの無垢な笑み、それらが渾然一体となって炎となり、彼の魔力に溶け込んでいく。
鎖は爆ぜて砕け散り、光と衝撃が空間を引き裂く。ノアは剣を振るい、長年閉ざされていた怒りをそのまま叩きつけた。刃がヴァルドラスの胸を貫いた瞬間、老人は驚きの色を浮かべながらも口の端で微笑む。
「……神の意志は、次代へと受け継がれる」
言葉は力を失い、男は床に崩れ落ちた。だがその微かな呟きは、ノアの胸に重く落ちた。加護が継承される──という言葉。ヴァルドラスの死に際の言葉は、まだ終わりではないことを示していた。
ノアは神聖院を破壊しながら、瓦礫の上に立ち尽くした。外では民がざわめき、塔の鐘が鳴り、人々が祈りの声を上げる。だがその祈りの声はかつての温度を失っている。ノアは呟いた。
「勇者を縛った糸は、ここだけではない。どこかに、まだ残っている。全部、断ち切る」
彼は立ち上がり、崩れた扉の外へと歩を進める。朝の光が瓦礫を白く照らす中で、ノアの影だけが長く伸びていった。復讐は始まったばかりだ。だがその影の先には、まだ知らぬ真実と、より深い闇が潜んでいる──ノアはそれをまだ知らない。




