第一話 心臓のない夜
正気に戻ったとき、世界は音を失っていた。
足元で、湿った音。遅れて鼻を刺す、鉄の匂い。
石造りの廊下に横たわる肢体――胸郭の中央、心臓の在るべき場所が抉られて空洞になっている。そこにあるはずの脈は消え、黒い穴だけが口を開けていた。
震える四肢を押さえ、ゆっくりと近づく。抱き上げた瞬間、腕の中の重みが現実を連れてくる。皮膚はまだ温かいのに、温度の芯がない。
触れて、ようやく理解する。死んでいる、と。
頬に触れた指が勝手に震え、涙が崩れ落ちる。
「どうして……君が、ボクの大切な人を……なんでなんだよ!」
喉が裂けるほど叫んだ。返事はない。石壁が自分の声だけを跳ね返す。
床に落ちた刃の柄には見覚えの紋――ヴァルドニア王国の聖印。勇者の、剣。
視界の端で影が揺れた。
振り向く。白い外套、腰の剣、光を宿す瞳。
勇者――セリア=ロウフィールド。
彼女は、微笑んでいた。いつもボクを励ましてくれた、あの温かな笑みで。
「……終わったよ」
耳に届いた声は柔らかく、けれどどこか空洞だった。
胸が潰れ、次に何が起きたかはよく覚えていない。
刃が走り、叫びが飛び、火花が散り、空気が裂けた。
――白い外套が血に染まる。
倒れかけた身体を反射的に受け止める。薄く開いた唇は何かを言いかけ、言わなかった。左手がボクの頬に触れ、羽のように落ちる。
胸に耳を当てる。脈は、ない。
静けさが戻る。
外套の内側から細い銀の糸が覗く。辿ると皮膚に黒い針痕――幾重にも重ねられ、皮下に何かを埋めた盛り上がり。
喉の奥で、怒りとも嘆きともつかぬ音が漏れた。
その時、石壁に仕込まれた魔導通信が耳を裂く。
『魔王殿! 至急――王都より緊急通達。勇者、拘束解除。教導院による命令オーバーライド、制御失敗! 繰り返す、制御失敗!』
遅い。すべてが遅すぎた。
ボクは彼女をそっと横たえ、立ち上がる。靴底に血が吸い付く。
――ここから、物語は遡る。
どうして、こうなったのか。
ボクは魔王の息子で、そして勇者・セリアの弟子だった。
名は、ノア=ヴェルグレイン。
◇◆◇
――五年前。
「息子よ。今日は大事な客人が来る。大人しくしておくんだぞ」
父上は大きな手でボクの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
母上が現れ、ボクを抱きしめた。「大丈夫よ。私が見ておくから」
扉が開き、先に出てきた人影へボクは弾かれるように飛びついた。
「おっと、どうしたんだい?」
柔らかな腕。見上げれば、綺麗なお姉さんが笑っている。
「ふふ、あなたが魔王殿の言っていた子かな。元気いっぱいだ」
「息子よ、初対面で抱きつくのは感心せんぞ」父上が咳払いする。
「すまないね、勇者殿」
「気にしないで、魔王殿」
……まて。魔王? 勇者?
「父上は、魔王だったの!?」
「あれ、言っていなかったか? 我は今代の魔王だ」父上は豪快に笑う。
「私は勇者――セリア。今日は、戦いじゃなく話し合いに来たの」
長き戦の果て、父上は前代魔王を討ち、新たな魔王として即位した。
父上は終わらぬ争いを終えるため、勇者へ停戦を申し入れた。
「あなたの国で、人は泣くの?」セリア。
「泣く。人も魔族も、家族を失えば泣く」父上。
ふたりは笑った。幼いボクには、それがただ眩しかった。
◇◆◇
半年のあいだ、セリアは何度も魔王城を訪れ、父上と語り、ボクとも遊び、やがて師になった。
剣は厳しく、心は優しかった。転び、泣き、笑い、気づけばボクは強くなっていた。
一年後、セリアは微笑む。
「もう、私じゃ君に勝てないね」
「そんな――」
「いいの。弟子が師を超えるのは嬉しいことだよ」
彼女は瞬間転移を見せ、「努力すれば、私だって届く」と笑った。
――それが、彼女と会った最後の日になった。
◇◆◇
セリアが来なくなり、連絡が途絶え、王国は停戦のみを一方的に通告した。
ボクは決める。「人の国へ行って確かめる」
父上は渋り、母上は泣き、最後には二人とも頷いた。
「定期連絡を。しなかったら迎えに行くわよ」母上。
「従者を一人つけろ」父上。
ボクはうなずき、旅立った。ヴァルドニアの聖都セリアルへ。冒険者として登録し、依頼をこなし、セリアの足跡をたどった。
旅の途中、父上から魔導通信が届く。
『勇者、消息不明。王国、沈黙。注意しろ』
数週間後、緊急連絡。
『魔王城、襲撃! 帰還せよ!』
ボクは転移陣を連打して帰還した。
破られた城門、血に濡れた廊下。
謁見の間で、セリアが――父上と母上を刺す瞬間を、見た。
……そして冒頭へ。ボクは怒りに任せてセリアを斬り、外套の下から操りの針痕を見つけ、通信は王国の教導院による命令オーバーライドを告げた。
すべてはヴァルドニアが仕組んだ。
ボクは誓う。
王国を許さない。
彼女を操り、家族を奪い、平和を踏みにじった、その根を――必ず断つ。
「待っていろ、ヴァルドニア」
喉の奥で何かが燃えた。世界がまた音を選び始める。
――復讐が、始まる。




