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第一幕

ローマとカルタゴ。共に同じ天を抱けぬ両国。殺し合う運命の両国が、その定めに従い、ここカンナエに導かれてしまったのは歴史上の必然なのかもしれない。


紀元前216年七月三十日、ローマ軍八万六千がカンナエに着陣。カルタゴ軍五万、カンナエの街を出て野戦陣地を構築、迎撃態勢に入る。


八月一日 両軍陣地を出て軍を対峙させる。

そして八月二日、運命の日。


「正気ですか!」

ハスドルバルの声が会議場の空気を震わせる。

「そのつもりだが」

手の内で指揮杖をいじりながら、どこか飄々とした口調で答えるハンニバル。そのどこか相手をおちょくるような、余裕綽々とした態度に更なる憤激を覚えたハスドルバルは、それを押さえつけるような真似はせず、拳を目の前の机に叩きつける。

それがもたらした大きな音は、会議場にいる出席者の鼓膜を震わせはしたが、心を震わせるには至らない。何せ今この部屋にいるものは全員、長年名将ハンニバルについてきた歴戦の勇者達だ。机を殴りつける音なぞそよ風程度でのものであろう。この程度でキレやがって、幾人かがそう言わんばかりの軽侮の視線をハスドルバルに向けるが、彼はそんなものに一向に頓着せず引き続き喚く。

「ご自覚がないようですね。なら教えて差し上げます。貴方は正気ではない。狂っていますよ!」

わはは、とどこか相手を馬鹿にしたような、大仰な笑いの後、ハンニバルは指揮杖で背中をボリボリ搔きながらぼやいた。

「そりゃ、俺達あのローマと正面から殴りあってんだ。どこか狂ってなきゃ無理だぜ」

どっ、と会議場に歓声がわく。

ガーン! 

ハスドルバルの前にある木製机が真っ二つになる。机が彼の本気の殴打に耐えられなかったのだ。諸将の内数人が眼を鋭くして立ち上がりかけるのを視線で制し、ハンニバルはとぼけた口調で聞く。

「お前さっきから何そんなにカリカリしてやがんだ?。ヒス中の俺の女房にそっくりだぜ」

また笑いが起こるも、それを無視して喚くハスドルバル。

「誰のせいですか! 誰が私をこうさせているのですか!」

「ひょっとして俺か?」

わざとらしく自分を指さして言うハンニバル。ピキッ、とまたもやハスドルバルの額に一本の太い青筋が浮かび上がる。その時、口を開きかけた彼の肩を軽く抑えた者がいた。カルタゴ軍宿将のマハルベルである。長年戦場で過ごしてきたベテランで、その豊富な経験と確かな用兵能力をもって長年ハンニバルを支えてきた。

先だって行われたトラシメネス湖畔の戦いでは別動隊を率い、ローマ軍に見事な奇襲を仕掛けて戦死者と捕虜合わせて四千という大戦果を上げた。今回の戦いでは右翼騎兵部隊を担当する。

「少し落ち着け。左翼騎兵大隊指令官が怒りに呑まれてどうする」

はっ、と我に返るハスドルバル。年季を感じさせる老人の深みのある落ち着いた声は、血気にはやる若者の心を見事に均せた。マハルベルはやや非難がましい目付きでハンニバルを睨み、苦言を呈する。

「大将軍も大将軍です。部下を少々いじるのはともかく、おちょくるのは大概にして頂けませんか? 私のような武骨な人間には見ていて気分の良いものではない」

「いや、すまん。ただ真っすぐな奴を見ると、どうしてもおちょくりたくなっちまうんだよなぁ」

背中から抜いた指揮杖を机の上に放り投げ、めんどくさそうに両手を頭の後ろに組むハンニバル。その品のない振る舞いに、またしてもハスドルバルの額が激しく脈打つも、これ以上尊敬する上司に恥をかかせるわけにもいかず、ぐっと堪える。よく耐えた、と言わんばかりに部下の肩を軽く叩き、マハルベルが苦言を続ける。

「だが、僭越ながら私めも彼と同じ意見です。大将軍は尊敬していますが、此度の取り回しはとても納得のいくものではありません。できません」

「どこが?」

分かっているのにあえて聞くハンニバル。明らかに目の前の部下二人をからかって楽しんでいる。爆発しそうになっているハスドルバルの肩を再び宥めるように軽く叩き、マハルベルは正面から上司の心中を問う。

「人選です」

「そんなに変か?」

「変ですよ! なんの実戦経験もない羊飼いのガキが、この作戦の肝である中央歩兵部隊司令官だなんてありえないでしょう! こんなこと兵に何て説明すればいいんですか?」

ハスドルバルがマハルベルを押し退け、会議場の末席を指差しながら喚く。そこには亜麻色の髪をした、ひ弱な感じの男が居心地悪そうに座っている。背はそれ程高い方ではない。体格は華奢でなで肩。角のない、丸みを帯びた輪郭の優しい目、小さいが形の整った鼻、小さな口に厚みのない・・・・・・。人の顔を構成する要素が、小さな顔の中でバランスよく配置されている。美青年といえなくもないが、その気弱な眼差しに滲み出ている、人としての線の細さが、その魅力を大幅に減じてしまっている。見るからに戦場には似合わない男だけあって、ハンニバルに無理矢理着せられたであろう鎧が全く体に馴染んでいない。退出を許したらすっ飛んで出ていきそうだ。ハスドルバルに指差された男は、剛の者達の視線を一身に浴び、怯えのあまり雨中の子犬の様に震え、俯いてしまっている。そんな彼に一瞥をくれ、席の上でいずまいを正すハンニバル。その瞬間、場の空気が張りつめる。全員の注目の中、ハンニバルは低いが重厚な声で宣言する。

「ハスドルバル」

「は、ははっ」

その声が持つ凄みに怯み、怒りを忘れて思わず畏まってしまうハスドルバル。

「俺の指示に従えないなら出てけ。いらん」

口調、表情こそ穏やかだが、それが持つ響きには断固たるものがある。あの大ローマ帝国をして『ローマ最大の敵』と言わさしめた総帥の威に打たれ、思わずその場に平伏するマハルベルとハスドルバル。

「納得できないだぁ? なんだ、なら俺は一々お前らから納得とやらを取りつけにゃならんのか? ここはローマか? 俺達カルタゴ軍はいつから共和制になった?」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

上官の叱責を前にして言葉もない二人。軍隊の世界では上からの命令は絶対だ。納得いかないから従えない、は許されない。それを一々許していたら軍隊そのものが機能しなくなる。

「こたえろぉっ!」

ハンニバル・バルカ。フェニキアの言葉で『バアルに愛されし雷光』の意。その名に遜色のない、雷のような大喝をかますハンニバルに、先程までのおちゃらけた雰囲気はどこにもない。

「も、申し訳ございません」

今までの無礼を謝罪するマハルベルとハスドルバル。ハンニバルは苛烈としか言いようのない視線を二人に叩きつけ、そのまま場内全員を睥睨する。それを前にして誰一人顔を上げられる者はいない。ハンニバルはその場でスクッと立ち上がり、有無を言わせぬ口調で宣言した。

「今回の戦において、中央歩兵部隊指令官はこのルーファンだ。いいな」

その場で畏まる諸将達。唯一の例外はルーファンと呼ばれた羊飼いの青年のみであった。彼は場の空気にいたたまれなくなったのか、陣幕の入口から外に目をやっている。彼の視線の先には、整然と整列した多数の騎兵部隊が、何かの訓練だろうか、皆一斉に息を合わせて奇妙な動きをしている。少し興味がわき、それを観察するルーファン。馬上の騎士の合図と共に馬が足を折ってひざまづく。その後騎士が素早くそこから降りて、手にした杭を使って迅速に馬をつなぎ、槍を構える。その後槍を置き、杭から馬を解放して再び馬上の人になる。

「まだまだ遅い! もっと素早く! 素早くだ!」

訓練を担当している高級幕僚らしき男が、部隊全体を見下ろせる指揮所でがなりたてている。何のための訓練なのか、ルーファンにはさっぱり理解できない。

「ルーファン、来い」

「は、はいっ!」

唐突にハンニバルに声をかけられて驚愕するルーファン。その声は完璧に裏返っていた。大股で会議場である陣幕を出るハンニバル。おどおどとした様子で諸将に一礼をし、ハンニバルの後を追うルーファン。二人の背を追う諸将の視線に好意的な色はなかった。

          


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