第十一幕
「頃はよし、か」
鷹の様な目付きで、おそらく戦場全体を見通しているであろう彼が低く呟く。カルタゴ軍歩兵部隊が苦心して作り上げたU字型の半包囲網が、ローマ軍歩兵部隊をほぼ飲み込みつつある。
「第一、第十重装歩兵部隊に伝達!速やかに敵の後方を遮断せよ!」
「はっ!」
彼の指示を前線へと伝えるべく、数騎の伝令が戦場を駆けていく。
暫くしてU字の両先端部分で待機していた第一、および第十重装歩兵が、ローマ軍の後方を襲撃する。ヌミディア騎兵と並ぶ、カルタゴ軍もう一つの切り札が猛然とローマ軍に襲いかかる。背後を突かれて動揺するローマ軍歩兵部隊。
しかし第一、十部隊にはローマ軍歩兵部隊の後方を『完全に』遮断するだけ程の兵力はない為に、現状、包囲網の出来は七割といったところだ。ハスドルバルとマハルベルが率いる騎兵部隊が加わる事で、この包囲網は完成する。
挟撃を受けながらも怯む事なく、前へ前へと突き進むローマ軍歩兵部隊。
「背撃を喰らってなお乱れぬか。見事なり。よく訓練されていると見えるわ」
持ちこたえるローマ軍の勇戦を、 彼は重みのある一言で讃える。戦場の趨勢が刻一刻とカルタゴ軍に傾きつつある中で、ついにローマ全軍にとって最悪の知らせが、満身創痍、息も絶え絶えの伝令兵の口によってローマ軍本陣へともたらされる。
「騎兵部隊は・・・・・・全滅です。ミヌティウス司令は・・・・・・兵と運命を・・・・・・共にしました。・・・・・・敵は・・・・・・こちらに向かっておりぐふっ」
報告の途中に、その場で吐血をする伝令兵。顔も体も深紅に染まっており、背中には折れた槍らしき物が二本突き刺さっている。死んでいてもおかしくはない状態だが、己の責務を果たすべく、死に物狂いで死神に抵抗しているのであろう。伝令兵は肺の中にある血を全て吐き出し、最後の力を振り絞って任務を全うする。
「ウ、ウァロ閣下、パウルス閣下におかれましては、・・・・・・い、一刻も早い撤退を、・・・・・・との言伝てを・・・・・・、ミ、ミヌ、ティ・・・ウ・・・ス司令より・・・う・・承り・・・・・・ま・・・・・・した」
その言葉を最後に、伝令兵はその場で事切れる。幕僚の一人が彼に駆け寄り、敬礼の後、丁寧な手つきでその遺体を抱き上げ、その場から離れていく。何をしに行くのか、と尋ねる者は誰一人としていなかった。幕僚達の険しい視線に気付く事なく、ウァロは暫くその場で呆然としていたが、急にかん高い声でパウルスを呼んだ。
「パウルス執政官!」
「・・・・・・はっ」
ウァロの前に進み出るパウルス。彼には目の前の男が何を言ってくるか、おおよそのところ検討ついていた。
「只今より全軍の指揮権を貴官に移譲する!」
「・・・・・・閣下はどうされるのですか?」
パウルスは分かりきった事をあえて尋ねる。そんな彼にウァロは応える。早口で、尚且つ目を逸らしながら。
「私はこれより戦線を離脱する」
凍てついた空気の中、白い目にさらされるウァロ。心中の後ろめたさがそうさせるのか、彼は半ば逆上気味に喚き散らす。
「勘違いするな! 私は逃げるのではない!私は総司令としてこの戦の経緯を本国に報告する義務があるのだ! カルタゴ軍への報復戦の為にな!」
シュラン、とどこかで誰かの鞘が鳴る。幕僚の一人が剣を抜いたのだ。その顔は憤怒を通り越して冷たく強ばっている。次々と彼に続く幕僚達。彼等は剣を手にジリジリとウァロに迫ってゆく。
「な、なんだお前ら! 俺は総司令だぞ! 全員剣を降ろせ!命令を聞かないと抗命罪で死刑だぞ!」
ウァロは大声で迫りくる幕僚達を叱りつけるも、その真っ青な顔が、虚勢である事を雄弁に物語っている。
「現在の総司令はパウルス閣下ではないのですか? 今しがた貴方が命じた事ですよ」
ウァロに迫る幕僚内の一人が答える。ぐうの音も出ない正論に、うっ、と詰まるより他ないウァロ。彼を取り巻く白刃の輪が狭まる。じりじりとジリジリと後退りするウァロの背が、陣幕に触れる。逃げ場を無くした彼の頭上に、今当に幕僚達の剣が振り下ろされようとしたその時、深みのある落ち着いた声がそれらを押し止める。
「全員剣をしまえ」
パウルスがウァロを庇う様に、彼等の前に立ちふさがる。
「閣下、お許しを」
幕僚の一人がウァロを睨み据えながら答える。そんな彼にパウルスは毅然とした口調で命令する。
「ならぬ。総司令としての命令だ。剣をしまえ」
パウルスの威に打たれ、幕僚達は渋々と剣をしまう。それを確認した後、パウルスはウァロに向き直り、一礼と共に言った。
「指揮権の移譲、確かに承りました。ウァロ閣下におかれましては、一刻も早く空いている後方から離脱されるのが宜しいかと思われます」
恐怖のあまり呆けた様になっていたウァロだったが、直ぐ様立ち直り、いつもの様に尊大な振る舞いを始める。
「う、うむ。その通りである。私は私の務めを果たす。各々自らの責務を果たせ!」
ウァロはそう言い残して、あたふたと馬場へと向かう。それと入れ替わる様に、陣幕にまた一人、満身創痍の男が入って来た。
「殿!」
男はファルカスだった。彼も騎兵一千を率いて、敵左翼部隊と戦っていたのである。
ざわめく空気の中、主君に歩み寄る彼のややよろけた足取りには、深い疲労が滲んでいる。斬瘡や矢傷にまみれたその体からは、粘ついた血と汗の匂いがする。兜は無く、身に付けていた甲冑も全身至るところに穴が空き、最早防具としての体を成してはいない。
「ファルカス!無事だったか!」
大事な家臣の生還に、パウルスは思わずその相好を崩す。ファルカスはそんな彼の前に跪き、報告を行う。
「我が部隊は敵左翼とぶつかり、敗れました。戦場に突如現れた敵の槍兵に対処しきれなかったのです。お預かりした兵のうち、八割が戦死。残りの二割も殆どが傷を負っており、五体満足な者は数えるくらいしかおりませぬ」
「・・・・・・分かった」
戦死者八割。パウルスはその燦々たる結果に一瞬だけ天を仰ぐも、直ぐに気を取り直してファルカスに指示を出す。
「ファルカス、直ぐに手当を受けろ。このままでは」
「殿!」
ファルカスがいきなりパウルスの肩にしがみつく。驚いて目を丸くするパウルスに、ファルカスがやや取り乱した口調で言った。
「我々は『なに』と戦っているのですか?」
「何だと?」
質問の意図が読めずに目を白黒させるパウルスをよそに、恐怖にのまれたファルカスが続ける。
「この敵は尋常ではありませぬ。『戦いながら兵を後退させる』と言うあり得ない用兵、人が考えたとは思えぬえげつない策略、これはハンニバルの仕業ではない!もっと恐ろしい、魔神の様な男が奴等の指揮を執っている!私にはそうとしか思えぬのです!」
パウルスは錯乱するファルカス両頬を、自らの両掌で包みその心を落ち着かせる。
「ファルカス、落ち着け。私を見ろ。大丈夫、心配ない。我々は大丈夫だ」
「・・・・・・ご、ご無礼を」
ようやく己を取り戻したファルカスが、頭を深く垂れて己の無礼を詫びる。パウルスはそれに頷き一つで応えて、もう一度同じ事を口にする。
「ファルカス、直ぐに傷の手当をしろ。止血をして傷口を洗え。早くしないと命に関わるぞ」
「畏まりました!」
ファルカスは一礼と共に立ち上がり、軍医による傷の手当を受ける為に陣幕を出る後にする。それを見送ったパウルスの前に、幕僚達が跪いて指示を仰ぐ。
「閣下、我らにご指示を」
その内の一人が代表して、指揮杖を両手でパウルスに差し出しながら指示を仰ぐ。
「うむ」
パウルスは差し出された指揮杖を受け取り、暫く考え込む。
現状ローマ軍はカルタゴ軍の包囲網下に陥りつつある。ただ、幸いな事に今のところ脱出路である後方は空いてはいる。この機を逃さず、方向転換し、軍を転じて空いている後方から脱出するか? 敵の騎兵部隊によって脱出路が塞がれる前に、この包囲網を突破してしまえば・・・・・・
いや、それは自殺行為だろう、とパウルスは首を一振りして希望的観測を振り払う。集団で動くファランクス隊の向きを変えるには大変な手間とそこそこの時間ががかかる。しかもその間は、兵士達はほぼ無防備だ。軽装歩兵が残っているならば、方向転換中の本隊を守らす事も可能だが、残念ながら彼等は全滅してしまっている。
無防備で方向転換をする我等を、カルタゴ軍が座して見ているとは考えにくい。我等が背を返した途端、彼等は全員待ってましたとばかりに襲いかかって来るだろう。それに唯一の脱出路も、我等が退却準備をしているうちに、おそらく敵の騎兵部隊によって塞がれる。逃げ場はない。ならばどうする?
悩むパウルスが、答えを求めて陣幕を出る。彼に続く幕僚達。戦場に良案を見出そうとするパウルスの目が、カルタゴ軍の本陣を捉える。
そこで戦風の中、力強くたなびく総大将旗を見た時、パウルスの腹は決まった。
「死中に活路を見いだすしかあるまい! 全軍突撃! 一丸となって敵本陣に突入し、敵将ハンニバルの首をあげるのだ」
「応!」
幕僚全員が新たな総司令の指示に力強く応じる。パウルスが更に続ける。
「全軍に通達、盾を捨てよ。これより身を守る事を考える事は許さぬ。ハンニバルの首を取るか我等の全滅か二つに一つだ」
「応!」
ローマ軍本陣に、アエミリウス家の旗が掲げられる。それを見た兵士達から、力強い鬨の声があがる。兵士達は新司令官の指示の下、次々と盾を捨て、武器を両手で持ち敵に襲いかかる。決死の覚悟で他戦う彼等の気迫が、勝利を目前に緩んでいるガリア兵達を呑み込んでいく。




