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第九幕

「司令! もう第四、五、六隊は限界です! これ以上は持ちません!」

「ふん」

不甲斐ない部下達のさまを鼻一つで嘲り、 彼は指揮杖を掲げ号令を下す。

「鳴らせ!」

数瞬の間の後、至るところで鳴るラッパの音が、カルタゴ軍の軍旗を大きく揺らす。

その後暫くして、ローマ軍歩兵部隊内部に、どこからともなく現れた十数騎の伝令兵が、ローマ兵達に衝撃的な事実を告げてまわる。

「後方が遮断されたぞ! カルタゴ軍の騎兵隊だ!」

「退路が断たれた! 俺達ローマ軍は包囲されているぞ!」

「全滅だ! 俺達はこのままでは全滅だ!」

その知らせを聞いたローマ兵達の顔が、みるみる青くなる。

「なに? 騎兵隊が破れたのか!」

「そんな、早すぎるだろ!」

「流言だ! 流言だろ? そうだよな?」

「ハンニバルの悪巧みだ!騙されるな!」

「まて! 本当に流言なのか? 本当だったら俺達は全滅だぞ!」

ローマ兵達の間にパニックが走る。皆浮き足立ち、攻撃どころではなくなっていた。


「敵が・・・・・・止まった?」

戦場を見ながら呆然と呟くマゴ。勝ち戦を目前にしたローマ軍が何故か唐突に進軍を止めたのだ。驚くなという方が無理があるだろう。誰もが声もなく魂消る中で、ただ一人、足をばたつかせて笑い転げている男がいた。ハンニバルだった。

「だーっはっはっはっはっ! こりゃいい! こりゃ最高だ! こんなの策略っつーよりイカサマだろ!何だか俺、ローマの奴等がかわいそうになってきたぜ!」

手を打ち鳴らし、笑い転げるハンニバルに、マゴが問う。

「にいさ、いや、大将軍。今一体何が起きているのですか?」

「見ての通りあんにゃろのイカサマが炸裂したのさ」

指の背で目尻を吹きながら、ハンニバルは答える。

「・・・・・・」

まだ状況についていけていないマゴの為に、ハンニバルは人差し指を立てて得意げに種明かしをする。

「今ハスドルバルの部隊はフリーだろ? こいつ等が何をやらかすか、ローマの奴等は内心不安で仕方がなかった筈だぜ。いつ敵の騎兵部隊に後方を遮断されるかってな。あんにゃろはそこを突いたのさ」

「でも、どの様にして?」

ハンニバルの右手親指の上で、再びダイスが宙を舞う。

「先程ローマ軍歩兵部隊の内部を十数騎くらいの伝令兵が走り回っていたろう? 奴等は多分、あんにゃろが放った偽伝令兵さ。うちの伝令兵の中で、ローマ語が話せる奴等を使ってデマをばら撒かせたんだろう。「敵騎兵に後方が遮断されたぞー」ってな」

「な、なんて卑怯な。いくら勝つためとはいえ、そこまでするなんて」

マゴが思わずその場で天を仰ぎ、神の名を唱える。どこまでも常識人たろうとする弟を、ハンニバルは豪快に笑い飛ばす。

「殺し合いの場で輝くのは道徳じゃねぇ、狂気だ。さっさと狂っちまえよ、マゴ。こんな風にな」

そう言ってハンニバルは腰の剣を引き抜き、それを己の頭上に目掛けて放り投げる。あっ、と驚くマゴや幕僚達の視線の先で、天を衝いた刃が、その切っ先を下にしてハンニバルに迫る!危ない!と心の中で叫ぶマゴの目の前で、落ちて来た刃がハンニバルの頬を薄く薙ぎ、地に転がった。思わず安堵のため息を漏らすマゴと幕僚達を前に、ハンニバルは血で染まったその口角を僅かに綻ばせる。


「そうすりゃ楽になれる」



「よし! 敵は止まった! 第四、五、六部隊は後退! 敵が動揺している今のうちに、後詰の部隊と入れ替わるのだ!」

天もを揺るがさんばかりの彼の雷声が、戦場にまた新たな局面をもたらそうとしていた。

「第四、五、六部隊は後退だ!急げ!」

「後詰の部隊は前だ!急げ!もたもたするな!」

下士官達の指揮の下で、今まで最前線でローマ軍歩兵部隊を防いでいた第四、五、六隊が後方に回る。それらと入れ替わる様に、今まで彼等の後ろで詰めていた後詰の部隊が前に出る。

「第三隊と第七隊は最前線の部隊と歩調を合わせつつ、後退を開始せよ!」

「はっ!」

彼の命令を携えて、伝令兵が次々と駆けていく。

「第一、二隊、第八、九、十隊はその場で待機!合図があり次第、速やかに後退を開始せよ!」

彼はまるで戦場を上から見下ろしているかの様に、矢継ぎ早に的確な指示を飛ばす。彼の差配の下で、カルタゴ軍歩兵部隊は包囲網を維持しつつ、猛攻を受け疲弊していた中央部の最前列と、まだ余力を残している後列を入れ替える事に成功する。疲れている兵を後詰に回し、元気な兵を前線に配置する事で再び勢いを盛り返すカルタゴ軍歩兵部隊。


「もう何を見ても驚かないつもりだったのですが・・・・・・。戦闘中に、しかも敵を目前にして一瞬で部隊を入れ替えた。私が今まで積み上げてきた常識は、一体何だったのでしょうか?」

彼の離れ業を目の当たりにし、驚きを通り越して呆れているマゴ。他の幕僚達も口をポカンと開けて戦場を見ている。少し弛緩した空気の中、ハンニバルは立ち上がり、兵舎の方へと足を向ける。

「大将軍、どちらへ?」

「ちょっくら昼寝してくらぁ。後はおめぇ達で適当にやっとけや」

欠伸混じりの指示を残し、寝床へ向かうハンニバルを、マゴが慌てて呼び止める。

「大将軍、しっかりして下さい!まだ戦は終わっていませんよ!」

「もう終わってんだよ。戦は俺等の勝ちだ。結果の分かりきった勝負を見る程俺は暇じゃねぇよ」

マゴに背を向けたまま、足を止める事なく応えるハンニバル。もうこの戦場に興味をなくしたのか、その口調はどこか投げやりだった。



「誰が止まれと言った! セルウィルウスは何をやっている!」

ウァロが指揮杖を振り回しながら、今日一番の癇癪を爆発させる。幕僚達はとばっちりをくわない様に、ウァロの視界外へとさりげなく移動している。

「只今原因を調査中です。しばしお待ちを」

パウルスが落ち着いた口調でウァロを宥める。

彼はそれに応える事なく、ひたすら犬の様な唸り声をあげながら、手あたり次第周りの物に当たり散らしている。

インク入りの小さな壺が赤い絨毯の上に落ち、そこでじわじわと黒い花を咲かせ始めた。それを見た経理を担当する幕僚の口から、小さな悲鳴があがる。

(自分の思い通りに事が運ばないと逆上して喚き散らす。頭は良いのだが精神はまるで子供。大将の器ではないな)

ウァロの器量に見切りをつけつつも、それを口にはせず静かに伝令を待つパウルス。その時ようやく伝令兵陣幕の中駆け込んで来て、ウァロの前にひざまづく。

「申し上げます!」

「馬鹿者! 何故もっと早く報告を寄こさない! どれだけ待たされたと思っているんだ!」

罪のない伝令兵に八つ当たりするウァロに、幕僚達からの白い目が集中する。

「も、申し訳ございませぬ」

理不尽な怒りをぶつけられるも、怒る訳にもいかずただ謝る他ない伝令兵。そんな彼とウァロの間に、パウルスが素早く割って入る。

「総司令、今はそれどころではありませぬ。して、なんだ? 前線で何が起きているのだ?」

伝令兵は一瞬感謝の表情をパウルスに向け、戦況を伝える。

「はっ!申し上げます。只今歩兵部隊の間に、『わが軍はカルタゴ軍によって包囲されている』との情報が飛び交っております」

「何だと? 何故そんな情報が飛び交うのだ?」

伝令兵の報告を聞いたウァロが、歯をむき出しにして喚く。

「おそらく敵の流言でしょうな。常に背後を脅かされている、我らの怯えを突いてきたのでしょう」

報告から真相を喝破したパウルスが、淡々とした口調で言う。

「愚か者共め! こんな稚拙な手に騙されよってからに!」

暫くの間、ウァロは全軍の指揮をほっぽり出し、敵と自軍の兵を口汚く罵り散らす。首脳部に流れる重たい空気の中、頃合いを見てパウルスはウァロを静かに宥める。

「総司令、今はそれどころではございません。一刻も早く士気を回復させ、攻撃を再開するのが先決かと」

「んなぁ事は分かっておる!」

パウルスの献言に怒声で応じて、ウァロは指揮杖を振り上げた。

「全軍に伝達! わが軍は包囲などされてはおらぬ! 安心して攻撃を再開せよ。敵中央を突破し、ハンニバルめの首をあげるのだ!」

ウァロの指示を伝えるべく、三々五々と散っていく伝令兵。それを忌々し気に見届けたウァロは、まだ気分が収まらないらしく、今度は幕僚達に当たり散らし始めた。

ウァロの子供の様な振る舞いを見て、パウルスはふと、言いようのない不安に囚われる。

大局を見据えようとも見ようともせず、自身の軍功にしか頭にない小さな男。そんな男が今、ローマ軍七万人の命を握っている。


このままでいいのか? 


このままだと取り返しのつかない事になるのではないのか? 


今日の指揮官は自分ではない。だからと言ってこの状況を座視していていいのだろうか? 


自分に、いや、今自分にしか出来ない事が、自分がやらなければならない事が今、あるのではないのだろうか? 


左手が自然と剣の柄にかかる。その視線が向かう先はウァロの首筋。パウルスはしばし考え、そしてため息と共に柄から手を放す。

(いや、まだ負けると決まった訳ではない)

どこか言い訳する様に、自分に言い聞かせる様にパウルスは内心ひとりごちる。

(それに、部下が剣をもって上官の指揮権を奪う。そんな蛮行、由緒正しきローマ軍にあってはならなぬ)


良きローマ軍人である事。


己を己たらしめる、自らの存在意義そのものが、今、鎖となってパウルスを縛り付ける、

決して越えられない壁を前に、パウルスは、戦場の向こう側にいる男を思う。

(奴なら、ハンニバルなら、こういう時どうするのだろうか?)

斬るだろう、とパウルスは迷いなく断言する。自分の為ではなく、兵の為にだ。

奴と自分との差、この差がこの戦いの趨勢にどの様な形で現れる? 

それに思いが至った時、自然と表情が陰るのを感じる。


カンナエの戦いは終盤へと向かいつつある。


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