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第八幕

カルタゴ軍歩兵部隊 最前線。



ファランクス隊の猛攻を受け、盾の陰で怯える他ないガリア兵達。彼等は盾を破壊せんと凄まじい勢いで迫りくる槍ぶすまを、構えた盾で何とか受けるも、その衝撃までは受けきれずにただただ後退するより他ない。

「うわあっ!」

「大丈夫か!しっかりしろ!」

後ろに控える兵士が数人で、押しまくられている最前線の兵士を支える。それにより、崩れかけていたカルタゴ軍の前線が再び持ち直した。

思ったよりしぶとい敵に業を煮やしたのか、ローマ兵達は槍をおさめて、盾を使った体当たで目の前の壁を破ろうとする。

それに対してガリア兵達は、同じく盾を使った受け流しで何とか対抗する。

ゴーン! ゴーン! ゴーン! 

今まで経験した事ない様な凄まじい衝撃が、盾を通してガリア兵達の全身を襲う。

「だめだ! もう手が痺れて動かねぇ。ここ変わってくれよ!」

「無理だ! 今そんな事したら押し込まれる! 耐えろ! 耐えるんだ!」

「ずりぃぞ! お前らだけ安全なところにいて」

最前列の兵士が後列の兵士をなじる。言い争う兵士達を、前線の下士官達が叱りつける

「この状況じゃ前も後ろも大して変わらん!無駄口叩く暇があったら敵に集中しろ!」

「ひいぃぃぃぃぃぃ! こえぇよ! こええょ、母ちゃんおらぁまだ死にたくねぇよ」

ローマ兵が繰り出してくる体当たりの嵐の中、泣き言を言うガリア兵達。兵士にあるまじき振る舞いだが、それを咎める者は誰もいない。皆同じ思いだからだ。そんな中、最前線を担当する兵士のうちの一人が盾を捨てて逃げだした。下士官が直ぐ様駆け付け、彼を斬って捨てる。

「いいか! 隊列を乱すものは即座に斬り捨てるぞ!」

下士官が部下の血がついた剣を振りかざして、非情な命令を下す。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ! もう嫌だ! もう嫌だよ! 帰りてぇよ!」

兵士の内の一人が、盾の後ろで泣き喚く。そんな彼を、下士官が血走った目でどやしつける。

「逃げると確実に死ぬぞ! 命令に従え! その方が生き延びられる確率が高い。選択を間違えるな!」

耐えるも地獄、逃げるも地獄。ガリア兵達の頭には作戦の事などなく、ただ目の前のローマ軍をどうやり過ごして生き延びるか、ただそれだけであった。

しかし、その下手に戦おうとしない姿勢が功を奏したのであろう。押しまくられ後退するカルタゴ軍の陣形が、逆Uの字から少しずつUの形へと変化してゆき、ジワジワとローマ軍をその顎に捉え始めた。


小が大を呑み込もうとしていた。



カルタゴ軍歩兵部隊司令部。


「司令、味方が押されております」

幕僚の一人がへっぴり腰で彼に声をかけた。そんな部下に見向きもせず、彼は迷いのない口調で命令を下す。

「問題ない。第五部隊の後退速度を少し遅くしろ。第四、第六部隊も後退開始!後詰の部隊もそれに合わせて後退させろ!」

「畏まりました!」

そう言って幕僚は直ぐに伝令を走らせる。それを確認して、彼は天地を震わせる程の大声で号令を下す。

「敵の攻撃が今よりも激しくなるぞ! 各々気を引き締めて自己の責務を全うせよ!」



カルタゴ軍 左翼騎兵部隊。


「へあっ!」

ハスドルバルの闘気に応えるかの様に、疾走中の愛馬が嘶きをあげる。先程の勝利に気を高ぶらせているのか、気合十分。鞭など必要ないくらいだ。

そんな彼に続くカルタゴ軍騎兵隊約七千。目標は現在カルタゴ軍右翼部隊と交戦中のローマ軍左翼騎兵部隊。

このまま行けば敵の後背を突く形となる。所謂挟撃だ。勝利は疑いない。その間味方の中央歩兵部隊が持ちこたえてくれるならば、だが。

馬上でチラリと中央を見るハスドルバル。現状、歩兵同士の戦闘はローマ軍が押しまくっている。しかしそんな中でも、味方歩兵部隊は無様にだが何とか持ちこたえつつ、ローマ軍をその包囲網下におさめつつある。

(信じられん・・・・・・。これをあの羊飼いがやってのけているのか)

話だけなら決して信用しなかっただろう。だが、今の目前で実際に起こっているのだ。信じざるを得ない。

(ルーファンとか言ったな。奇跡でも間違いでもなんでもいい。とにかく後暫く、もう暫く時間を稼いでくれ)

手綱を操り、愛馬のスピードを上げるハスドルバル。

(俺達が敵左翼を蹴散らし、そちらに向かうまで)


ローマ軍本陣。


「総司令! 味方右翼が突破されました!」

「何だと?!味方が突破したの間違いではないのか!」

ウァロの剣幕に怯みつつも、伝令兵は何とか報告を繰り返す。

「復唱いたします! 味方右翼が突破されました」

「して敵左翼はどこに? 此方に向かっておるのか」

「いえ、それが」

一度軽く咳き込み、伝令兵は報告を続ける。

「戦場を迂回し、我が軍左翼へと向かいました」

一瞬絶句した後、爆笑するウァロ。

「うはははははは! ハンニバルは兵を知らぬ。そのまま我が歩兵部隊の側面か後背を突けば容易く勝利を手に出来たものを、自ら好機を投げ捨ておったわ!」

そう言って指揮杖を振り回しながら、ウァロは新たな命令を下す。

「歩兵部隊は今まで通り攻めて攻めて攻めまくれ! 敵左翼の事なぞ気にせずともよい。敵の中央を抜けばそれで勝ちなのだ! 我軍は今、圧倒的に有利な状況にあるのだぞ」

「総司令」

半ばはしゃいでいるウァロの前に、パウルスが進み出る。

「後にしろ! 今忙しい」

「総司令!」

浮ついているウァロに、パウルスは再度、強い口調で呼びかける。その迫力に押されたウァロは一瞬怯むも、それを誤魔化すかのように、苛立ったふりをして大声で応じる。

「何だ!」

「一旦軍を引きましょう」

「何だと?」

拍子抜けするウァロを前に、パウルスは淡々と語る。

「一旦軍を引き、野営地にいる後詰の軍と合流し態勢を立て直しましょう」

「何故そんなに迂遠な真似をする必要がある? 勝利は目前なのだぞ!」

ウァロが眼前の戦場を指差しながら喚く。彼の言う通り、歩兵同士の戦いでは、現状ローマ軍がカルタゴ軍を圧倒している。

パウルスはそれを興味無さ気に一瞥し、ウァロに向き直る。

「いえ、お言葉ですが総司令は思い違いをされていらっしゃいます」

カーン! かん高い音が陣幕内の空気を震わせた。癇癪を起したウァロが、再び指揮杖を机へと叩きつけたのだ。とばっちりを喰わない様、心持ちウァロから離れる幕僚達。物に当たって怒りが少しおさまったのか、ウァロがパウルスに向き直り、その心を問う。

「俺のどこが思い違っているというんだ!言ってみろ!」

怒りのあまり犬歯を剥き出しにするウァロ前に、パウルスは泰然とした振る舞いで己が意見を口にする。

「敵の左翼が我が歩兵部隊を無視したのはミスなどではなく戦術です」

「戦術だと?」

「はい。以前から申し上げている様に、おそらく奴等の目的は我軍の包囲殲滅。敵はまず我が軍の騎兵部隊を全滅させ、その後味方の歩兵と連動して我軍の包囲を計っているのです」

「そんな事は俺だって分かっている!だからその前に敵の中央を破ってしまえばいいではないか! 何度同じ事を言わせる気だ!」

「その前に破れなかったとしたらどうでしょうか?」

「何だと?」

眉と目尻を更に険しくするウァロに、パウルスがカルタゴ軍を指差して言う。

「意図的なのかどうなのかは分かりませんが、敵はわが軍の進軍に合わせる形で後退しています。結果、我が歩兵部隊は現状、敵の半包囲網下に陥りつつあります。確かに総司令の仰る通り、包囲される前に敵の中央を突破すれば勝ちです。ですが、敵は思った以上にしぶとい。攻撃を捨てて防御と後退、陣形の維持に徹しています。こうやって粘りつつ後退し、騎兵の到着を待っているのです」

ウァロを説得するパウルスの表情には、鬼気迫るものが浮かんでいる。ローマ軍七万人の命が今、岐路に立たされているのだ。引くわけにはいかない。何としてでも今ここで、この石頭を説得せねば!

「ならどうせよと言うのだ!」

ウァロの口調に僅かな迷いを感じ取ったパウルスは、ここぞとばかりに声を高める。

「先程申し上げました通り、一旦軍を引いて態勢を立て直しましょう。右翼を失ったとはいえ、失った兵数は二千五百。まだまだわが軍は優勢です」

「この状況で後退なぞできるものか! 敵の追撃を喰らってこちらが全滅するわ!」

この男にしては珍しくまともな事を言ったな、と内心思いつつも口には出さず、パウルスは続ける。

「わが軍の軽装歩兵を敵歩兵部隊の両側面に展開させ、投石や投げ槍で本隊の退却を援護させるのです。そうすれば安全に退却ができます」

パウルスの献言を受けたウァロは、顎に手を当て、己の考えに沈む。


パウルスの言う事にも一理ある事は忌々しいが認めざるをえない。ではどうする? パウルスの言う通り、一旦退却してから仕切り直すか? 確かに無難ではあるが・・・・・・。


それでいいのかウァロ。


心の奥底に巣くう『何か』の声がした。


ウァロよ、お前はこんなところで立ち止まってしまうのか?


母の死に顔を前にして誓った事を忘れたのか?


ウァロは最下層階級出身だ。

ゴミ溜めの様な貧民窟の中で、母親の手一つで育てられた。春を売りながら必死に自分を育ててくれた母。一日でも早く大人になって母に楽をさせてやりたい。子供心にそう誓ったウァロは、鉄くず拾いで小銭を稼ぐ合間、必死に勉強した。そんな彼に幸運が舞い降りる。

母の客の一人に、貧民街の安い女を好んで抱く性癖を持つ、大金持ちの変人がいた。ウァロはそんな彼の目に止まり、気まぐれで学費を援助してもらえる事となった。

学校に通える様になった彼を待っていたのは、孤独な日々だった。貴族や中産階級の子弟が通う学校で、貧民窟生まれの売春婦の息子がどの様な扱いを受けるのかは想像に難くない。

案の定、ウァロは他の生徒から陽に陰に陰湿ないじめの洗礼を受けた。だが彼は負けなかった。偉くなってこいつらに復讐してやる、その一念でウァロは必死に勉強した。彼が大学を首席で卒業し、公職を得た日に母は死んだ。

「母さん! 何で死んだんだ! これから親孝行しようと思っていたのに! これじゃあ何の為に頑張ったか分からないじゃないか!」

ウァロは母のどこか安心した様な、安らかな死に顔に取りすがって号泣した。

たった一人の身内を失い、天涯孤独となったウァロ。暫く放心した様に時を過ごしていたが、やがて彼は一つの思いに囚われる。


母の死を無駄にしてはならない。 


自分が下らない生き方をしたら、母の人生も下らないものとなってしまう。逆に、自分が偉大な男になれば、それを育てた母も偉大な人間という事になる。出世しなければ。偉大な男にならなければ。貧困と軽侮の中で、血ヘドを吐きながら自分を育ててくれた母の恩に報いる為に。

この国で誰よりも偉くなる事。それが母への供養になる。出世しなければ! 誰よりも! 誰よりも! 誰よりも! 

母への想いが妄執となり、それが心ごと彼を呑み込む。


母の死に顔が何故安らかだったのか、彼は終生にわたり、その理由に思い至る事はなかった。


悲しいまでに歪んだ誓いを胸に、ウァロは自ら魑魅魍魎の跋扈する権力への道へと足を踏み入れ、そして一歩ずつ確実に登って行った。

大勢の人を利用し、また同じくらい利用され、蹴落とし蹴落とされ、誰も信じず誰も愛さずただ頂点のみを見つめてひたすら駆け続けた。

その甲斐あって、五十前でローマの国政を担う執政官の地位を手にした。貧民窟生まれの売春婦の息子としては破格の出世と言っていい。文字通り位人臣を極めたウァロ、遂に手にした夢、果たされた母への誓い。だが、それらはウァロの飢えを満たすどころか、彼を更なる深みへと引きずり込んだ。

もっとだ! もっと、もっと上へ! 

ウァロが見据えているもの、それは共和制ローマにおける最高権力者、ローマの全てを取り仕切る『独裁官』。非常時のみの選出であり、その任期は六カ月だが、その権限は広汎にわたり、事実上の皇帝といっても過言ではない。任期は短いが、なに、そんなものなってしまえばどうにでもなる。法を変えて任期を終身にしてしまえばいいのだ。

この地位を手にするには、政治、行政、外交、軍事と国務全般において傑出した業績を積み上げねばならない。この四つの内、ウァロに足りないものは軍事的業績だった。それが今、手を伸ばせば届く位置ところにある。


ローマ最大の敵、ハンニバルの首をとる。誰にももなし得なかった圧倒的な業績。このチャンスは逃せない。例えどんな犠牲を払おうとも掴まねばならない。今パウルスの言う通り後退したら? 

成る程負けない手ではある。しかし戦とは水物だ。明日の状況はどうなっているか誰にも分からない。此方にとって悪い方に転がるかもしれない。

それに、明日になったらパウルスにこの指揮杖を渡さねばならない。その後、パウルスにハンニバルの首を取られたら? 

パウルスはきっと焦っているのだ。俺が大功を立てるのが我慢ならんのだ。慎重論を唱えるフリをして俺の仕事を妨害し、潰し、その後で武勲を独り占めする気なのだ。騙されてはならない。誰も信じるな。信じられるのは己のみ。


自身の被害妄想からくる思い込みを、合理的な判断だと勘違いするウァロ。彼は猜疑と隔意のないまざった目でパウルスを見つつ言った。

「成る程貴官の言い分にも一理ある事は認める。だが、やはり慎重に過ぎるのではなないか。石橋を叩くのはよろしいが、壊してしまったら元も子もない」

「石橋が壊れたらまた新たな橋をかければ宜しいではございませんか。敵はあの天才ハンニバルです。奴の軍事的才能は明らかに我らの上をいきます。そんな相手に猪突猛進などするべきではありません」

「勝利は目前なのだ。何故ここで慎重になる必要がある?」

「そうです。勝利は目前です。だから焦る事はございません。じっくりやりましょう」

「パウルス殿!」

「はっ」

突然声を高めるウァロに、思わず畏まるパウルス。

「本日の総司令は私か君か?」

「・・・・・・ウァロ閣下でございます」

「そうだ、今日の総司令は私だ。その私が進軍と言っているのだ。なら君の義務はなんだ? 私の反対をする事か?」

「・・・・・・畏まりました」

パウルスは唇を噛み、やむなく引き下がる。同僚の殊勝な態度に機嫌を直したウァロ。余裕を取り戻したのか、彼はまた以前の様な尊大な態度に戻っている。

「心配するな。貴官の忠言はしっかりと胸にとどめておく」

そう言って全軍に向き直り、ウァロが大号令を出す。

「引き続き攻撃だ! ファランクス隊の総力を持って敵の中央部を突破するのだ! 攻めて攻めて攻めまくれ! 勝利は目前だぞ!」


ウァロの号令一下、以前にも増して激しくカルタゴ軍を攻め立てるローマ軍歩兵部隊。その圧力は凄まじく、遂にカルタゴ軍歩兵部隊中央部にひづみが走る。徐々に崩れ行く前線部隊。カルタゴ軍の敗北は必至かと思われた。



カルタゴ軍 本陣。


「大将軍! 中央歩兵部隊はもう限界です!このままでは突破される!」

眼前で崩れ行く歩兵部隊を前に、副官のマゴが悲鳴混じりの声を上げた。恐慌をきたすカルタゴ軍首脳部の中で、ただ一人、地にどっかりと座り込んだハンニバルは腕組みをしてじっと戦況を見つめている。

「マゴ」

ハンニバルが、戦場から目を離さず弟に呼びかける。

「は、はい」

マゴが震える声で応えた。

「騒ぐな、兵が動揺するだろ」

「し、しかし」

マゴの視線の先には、今当にローマ軍に押し切られんとする中央歩兵部隊の姿があった。それを平静な表情で眺めつつ、兄として、軍司令官としてハンニバルは弟を諭す。

「大将ってのはな、マゴ。痩せ我慢が仕事だ。どんなに辛くても、部下を信じてどっしりと構えてなきゃならねぇ」

「しかし」

「マゴ」

「はっ」

「只の将で終わるな。『大きな』将になれ。ちょっとした戦の戦況ごときで動じない、本物の大きな将にな」

「か、畏まりました!」

恐怖を忘れ、思わず兄に敬礼するマゴ。それに頷きを返すハンニバルの顔に、微かな慄きが浮かぶ。

「心配するな。あんにゃろは横っ面をはたかれて黙っている様な男じゃねぇ。きっと今頃手にしているだろうさ」

そう言ってハンニバルは、愛用のダイスを親指で弾く。

「誰も切った事がない、最高の切り札を」

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