第九十九話 彼女の見た彼果てた世界
後方から無数のイクシードが追跡してくる。地面から次々に新たな氾濫が起こり、俺たちを狙ってくる。空を飛んでくるものはまだしも、新たに地から沸き起こってくるものに関しては予兆はほぼなし。ただ出現の際に聞こえる、ささやくような煉界人のうわ言だけが頼りだ。
それらをすべて、盗賊の反射神経と竜血の脚力でかわす!
頭上にはベルゼヴィータに加え、さっき俺を乗せようとしてくれた騎翅が一体はりついてきている。俺が案内役を見失わないよう、あるいは窮地にはいつでも駆けつけられるよう、見守ってくれているみたいだった。バックアップは万全だ。ありがたい……!
そうして山を駆ける最中でも、スノーカインは函を外に示し続けていた。やはり緑の光は氾濫化を癒すと同時に、彼らの追尾の目印にもなっている。
ここまでは目論見通り! ただワンミスが命取りだから、一瞬の油断も厳禁だ。
と。
不意に、腕の中の彼女の感触が変化する感覚があった。
さっき抱きかかえた時は、何か温かい光源を抱いているようなそんなあやふやな感触だった。
その温度が、温水のように俺の中にじわりと染み込んでくる。
彼女自身に何も変化はない。だがその時。
異様な景色が、侵食するように俺の脳裏に広がった。
※
そこは、空漠とした世界だった。
蓋をされたように暗い空は火山の火口のようにところどころが赤くひび割れ、地面には無窮の砂の海。
時折、黒い岩のような、あるいは何かの遺跡のような物体が突き出してはいるものの、景色の大半は砂に埋もれている。
(何だ……ここは……。俺は何を見ている……?)
さく、さく、と砂を割って歩く足が下に見えた。今にも折れそうな、むき出しの細い素足。
(この褐色の足……まさかスノーカイン?)
視点の位置がおかしい。ひどく低い……というか、俺が見下ろしたすぐ先に彼女のつま先がある。
これはひょっとして彼女の視点なのか……?
わけのわからないまま、俺は荒涼とした砂の世界を見せられる。
彼女の体を通じてか、素足が踏む砂がぼんやりと熱を持っていることがわかった。
ここが普通の砂漠ならば、その砂は焼けたフライパンと同義だ。しかしこの世界の空に太陽はなく、赤い亀裂から漏れる光が、おぼろげな明かりとなって地表を照らしているだけ。薄暗い……だが暑い。砂の熱のせいじゃない。空気そのものがだ。呼吸一つするのでさえ熱くて苦しい。ここにいたら内側から焼かれてしまう。
そこで気づく。
まさか、ここが煉界なのか。落ちてきた者を浄化しきるまで焼き尽くす、死の国なのか。
「姫巫女様」
「巫女様」
声がして視界が振り向いた。すぐ隣を白い靄のようなものが流れている。そこに人の顔のような形が浮かんだ。これは……煉界人たちだ。
「みんな、おはよう」
俺のいる場所と同じところから声がした。スノーカインの、か細く、囁くような声だ。やはり俺の意識は彼女の中に取り込まれている。あるいは記憶の中に?
「地上の者に復讐を」
「我らの怒りを緘黙の羊どもに」
彼女の挨拶に戻ってくるのは他愛のない返事ではなく、何度も聞かされた例のフレーズだった。死霊や悪霊が紡ぎだす呪詛や慟哭ではない。もっと澄み切った高潔な意志だ。けれどもそれはあまりにも研ぎ澄まされていて、一切のその人らしさを欠いているように思えた。
「うん……」
スノーカインの少し寂しげな声。
「今日も生きよう」
さく、さく、と砂を割って歩いていく。
それからも煉界人の霊魂はたびたび彼女のもとを訪れた。いずれも異なる声。異なる形。けれども内容はどれも似たり寄ったりで、それでもスノーカインは一人一人に「おはよう」と呼びかけ、そして時折あの函を掲げた。
ミアズマを吸って緑に光るあの函。すると近くにいる霊魂たちが力を増すのがわかった。少し曖昧だった声が鮮明になったり、意志を取り戻したようにも感じられる。
何度かそれを繰り返すと、わずかに函の光が弱まったのがわかった。
スノーカインは小さなため息つき、そして歩き続けた。
砂漠はどこまでも続いている。……熱い。苦しい。水が欲しい。
これは俺の感覚なのか、それともスノーカインが感じていることなのか。
けれどもこの世界には逃げ場すらない。自分の息ですら火傷しそうだ。せめてどこか、陰になっているところでもあれば……。
見回した俺はふと、風に混じって飛んでくる小さな何かに気づいた。
かすかに熱を帯びた、雪……? いやこれは灰だ! あの火口のような空から? 違う。煉界の言い伝えの通りなら――。
これは死者たちを焼いた灰だ……。
それが足元の砂と同じ色をしていることに気づき、俺は愕然となった。
この砂漠は死者たちの灰でできている。すべてを埋め尽くす、すべてを呑み込む灰の山。一体どれほどの死者がここで焼かれた? 考えるのもバカらしい。世界は、今生きている者より、死んでいった者たちの方がはるかに多いのだ。
さく、さく、とかつて死者だったものを踏んで歩いていく。
スノーカインはやがて、黒々とした石の遺跡へとたどり着いた。
これは何だろう。とてつもなく古く感じられる。スノーカインたちが作ったものでもなさそうだ。
ほとんどが灰で埋もれてしまった遺跡群を少し進み、石材と石材が組み合って、小さな洞窟のようなスペースを作っているところまで来た。洞窟といっても本当に犬小屋レベルの小さな穴だ。
スノーカインが身を屈めてその中に入ると、少しだけ熱が和らいだのが伝わった。よくわからない装置のようなものが壁に立てかけられている。見るからに人工物。この世界の機械的なものはだいたい錬金術か魔導錬金によって造られているから、その類か。
それは、この涸れ果てた死者の世界の中で、ひどく文明的で、ひどく場違いな、小さなランプを点滅させていた。
それを確認してから、スノーカインは洞穴の天井に向かって、指を差し出した。ちょうどその瞬間、きらめく何かがそこに落ちた。
それは……ああ、ああ、水だ! この熱砂の冥府で初めて見る水の雫だ。
奇跡のようだった。それがそこに存在してくれることが。
スノーカインは、指先に乗るほど小さなそのたった一雫を、大切そうに口に含んだ。何にもならない。唇の隅を湿らすことしかできない一滴。けれどそれを得ただけで、彼女はここまで歩いてきたすべての目的を果たしたようにそこを離れた。ランプの点滅は止まっていた。
まさかこれは給水所なのか。あの装置はこの世界に水を生む道具なのか。たった一滴……たった一滴の命を……。
何だこれは。何だこの生き方は。これが生きているといえるのか……。
さく、さく、と砂を割って歩いていく。
砂丘にはぽつんと一列の足跡。自分がつけた足跡をスノーカインはたどっていく。
しばらくして、彼女が進む先に異様なものを見た。
いや、正しくは“まとも”なものだ。
この干からびた地獄において、ようやく理解できる物体――だがそれは今にも崩れ落ちようとしていた。
船。巨大な船の――きっと箱舟の残骸。
もうマストも何も残っていない。神話からの長い長い時間の果てに破損したのか、それとも灰に埋まってしまったのか。ただ明らかにこの世界に存在しない、木材による建造物が、置き忘れられたようにしてそこに在った。
周囲には煉界人たちが多く漂っている。沈没船に群がる小魚みたいだ。
何かをしているのか。それとも単にここにいると安心するのか。
スノーカインが箱舟に近づくと、壁面に扉があった。彼女はそれを開けて中に入った。頼りない軋みが出迎えた。
そこは――人の、人が住む、小さな部屋だった。
小さな木のベッド。灰まみれで乾ききったシーツ。傾いた棚の上には、手作りと思しき小さなペンギンのぬいぐるみ。他にも古ぼけた本や小物が、ほんのささやかな数だけ置いてある。
生きている匂いがした。か細い生活の匂いがあった。
訳も分からず、俺は泣きたくなった。
他のものはどうしたのだろう。嵐の海に沈んだ時にはもっと色々なものがあったはずだ。大勢の人のものがあったはずだ。
きっと、だんだんと失くしてしまった。箱舟が壊れ、灰に埋もれていく過程で。少しずつ、少しずつ、手から零れ落ちていくように。
ここは、世界の果ての、世界の終わりにぽつんと残った、女の子の部屋。
もう、もう、ここだけなのだ。彼女に、彼女たちに残されている場所は。
この中で。彼女は、スノーカインは、生き続けてきたのだ。
※
「……!!」
その幻にどれほどの時間囚われていたのか、俺にはわからない。
反射的にイクシードの攻撃をかわした瞬間、意識は元の瑞々しい世界へと戻ってきた。
腕の中ではスノーカインが懸命に函を掲げ、その光が俺の視界の一部分に焼き付いていた。
「君は……」
言わずにはいられなかった。大切な雫の一滴が目からこぼれそうだった。
「最後の一人なのか。もう、君の仲間はいないのか」
「…………」
茫洋とした金の瞳が、驚いたように俺を見る。
「違う」
だがそれは一瞬だけ、微笑みに変わった気がした。
「みんな一緒」
そう答えて。
死の世界で生きていく。




