第九十八話 煉界の氾濫
突然赤紫に変色し、汚泥と化す地面。そこから沸き立つようにして現れた、亡者の群れのような何か。
異変はそれだけでは済まない。スノーカインの頭上を回遊していた煉界人の霊魂が不気味な発光を始める。
「グ、オ、ギ……」
歪んだ声帯から無理やり発しているような音は、みるみるうちに白い気流を地面と同じ赤紫へと変えていった。浮かび上がっていた巨大な人の顔が、もだえ苦しむ苦痛の相へと移り変わる。
――〈煉界の氾濫〉。
俺とスノーカインが揃って叫んだこの単語について少し説明する必要がある。
師やまとさんの教えによると、これは戦略シミュレーション『アルカナ・クロニクル』の最終盤面において出現する煉界戦力――その中でも最後の最後、すなわちゲーム中最後の敵として現れる存在だ。
それまでまがりなりにも煉界人という侵略者と戦っていたのに対し、これは兵というより“現象”に近く、武将イラストも虚ろのような穴だらけの顔の集合体として描かれている。
戦略シミュレーションのラスボスが、野望も立身出世欲もない単なる現象というのは少々締まらないが、扱いは破格だ。
なにせこいつだけが、合戦シーンにおいてまるでピンクの津波のような特別なグラフィックで表現されている。下手をすればラスボスの3Dモデルでさえモブ敵と大差ないことのある(添えられているイラストは神だが)煉界ゲー周辺において、極めて凝った表現と言える。
ただし本編内での明確な説明はなく、プレイヤーはこいつが何者でなぜ襲いかかってくるのかさっぱりわからない。氾濫という名称が何を意味するかもだ。
ただ、これを打ち破った後でとあるメッセージが表示される。
キャライラストも人名も明かされない会話ボックスにて、
「天の計、未だ成らず……」
という。
明らかにこの氾濫を仕組んだ者のセリフ。
意味はやはり不明で、本編を餓鬼のように貪ったやまとさんたちでも解明できず。けれども〈憤災戦争〉のそもそもの始まりは、〈反貴族連盟〉の長イカロスが、煉界から王政の数々の過ちと欺瞞を訴える死者たちの叫びを聞いた(と錯覚する)ことにある。同じ煉界という幽世を発端としている以上、この「天の計」の発言主がイカロスをそそのかした可能性は高い。
つまり、プレイヤーが乱世を治め、大陸の力を結集して抵抗したことにより、その天の計とやらは未然に阻止された、というのが『アルカナ・クロニクル』における共通ストーリーの結末というわけだ。
俺はこの「天の計」は煉界人の目論見だと思っていた。裏切られた第七人類が、地上を奪い返すための最終攻撃。それが氾濫という現象だと。そしてそれを指揮できるのはスノーカインなのだろうと。
けれども今、彼女は……。
※
「どうして、こんな……!」
スノーカインは明らかに狼狽し、驚愕し、そして戦慄していた。か細い声をさらにかすれさせ、定まらぬ体をふらふらと左右にやりながら、茫洋とした眼で凝然と氾濫を凝視していた。
これは、どういうことだ……? 彼女がこれを指揮しているのでは、ない?
「お父様、何ですのこれは!?」
理解の飛んだ頭の空白に、アークエンデの真の通った声が飛び込んでくる。その時ようやく気づいた。周囲が明るい。いつの間にか靄が晴れている。
アークエンデや仲間たちの姿もよく見える。それはつまり、彼女たちからもこの異常な景色が見えているということ。
「あれは〈煉界の氾濫〉だ! 誰も近づくな、攻撃を受けたらとんでもないことになるぞ!」
俺は大きく手を振って、駆け寄ろうとする仲間たちを牽制した。
あれは千の兵を数秒で削り切ってしまうほど攻撃的で破壊的な存在なのだ。どんな英傑だろうと個人で立ち向かっていい相手ではない。
「じゃあ、敵ってことね……!」
けれども俺の警告に臆するどころか、逆に意気込む者がいた。ベルゼヴィータ。
元より煉界と戦うために練り上げられてきた戦士。ひとたび平和的な接触が崩れれば、即座に攻撃に転じる心の準備はできていたのだろう。
彼女が広げた五指から、深族が特化的に有する魔導素養『風』の大出力が膨れ上がる。
見えもしない聞こえもしないの煉界人の霊魂と違い、あの赤紫の怪物は肉もあれば質量もある。ベルゼヴィータの攻撃が届かない理由は何もない――しかし。
「やめて……! みんなを攻撃しないで……!」
その必死な声は返り血のように俺の耳に飛び散った。あのスノーカインが叫んでいる。
それでもベルゼヴィータは魔力の収束をやめない。いや違う、彼女の声が聞こえていないのだ。認識できるのは怪物と化した霊魂の姿だけ。
「待てベルゼヴィータ! あれを攻撃するな、みんなと下がれ!」
「どうして!? これは明らかに敵の攻撃でしょ……!」
ベルゼヴィータの不服の声に答えられないまま、俺はスノーカインへと向き直る。
いつの間にか彼女は例の幾何学模様の函を掲げ、懸命とも呼べる必死さで、飛び回る赤紫の魂へと呼びかけていた。俺への敵対的な態度とはうってかわって穏やかに、訴えるように。
「みんな、落ち着いて。もうやめて。元に戻って」
函から緑の光がこぼれる。すると変色していた煉界人の体表面の一部が明滅し、本来の白い色へと戻っていく。
これは……! あれで氾濫を鎮めているのか? スノーカインにはそんな能力が……。だとしたら彼女がミアズマを集めていた理由ってまさか……!
「あっ……」
だがそれでも。醜い肉塊となった煉界人をすべて浄化するにはあまりにも足りなかった。さっきまで俺を狙っていた霊魂が、今度は彼女をかすめる。それだけで少女はボロきれのように吹き飛ばされた。
さっきも言ったがあれの攻撃力は異常だ。かすめただけでも、体の弱い者なら一撃で……。
「みんなは……。わたしが守るから……」
それでもなお彼女は立ち上がり、痛みに震える腕で懸命に函を掲げようとする。
おお……おおお……。鬼が泣いているように風が鳴る。
まだ変質していない煉界人の霊魂たちが嘆いているのか。
操霊機の巫女が指揮しなければ彼らには何もできない。もはやろくに身動きもできないスノーカインに、怪物と化した霊魂がとどめを刺しにかかる。
直撃すれば……もはや肉の一片だって残らない!
最後まで同胞を見据え、函を掲げ続ける彼女が、今度こそ真正面から消し飛ばされる。
その、直前で。
「くッ……ギリ……セーフ!」
俺はスノーカインを抱き上げてその場から避難していた。
真横を通過されただけで肌が引っかかれたように痛む。
常人には姿も見えないし声も聞こえない幽霊少女に“触れた”という事実に気づいたのは、後のことだった。
「おまえ……!?」
スノーカインのおぼろな瞳が、驚きの色を映しながら俺の顔を見上げる。
「おまえ、バカなの……!?」
ひどい言われようだ。せっかく助けてあげたのに。一撃もらえばアウトなのは俺も同じなのに。
けれどもどうやら、
「そうらしい」
彼女の言う通りなので笑うしかない。
俺たちの周囲で、泥の中で泡が弾けるようなくぐもった音が連続した。まわりの地面が次々と沸き立ち始めている。
〈煉界の氾濫〉が広がりつつあるのだ。這い出てこようとする細い腕と、苦悶に歪んだ人の顔らしきものの数々。溺れる者が藁をも掴む姿に似ている。
「……来る!」
俺はその場から大きく飛びすさった。直後、今いた地面が熟れるようにして氾濫化する。
そこから間欠泉のように噴き上がった地面は、肉塊のようなグロテスクな表皮をてからせながら、こちらに飛びかかってきた。今度は最初からスノーカイン狙い。
身を翻して大きく回避した直後、豪風と同時に多数の声が俺の耳元をかすめた。
「ヤめろ、やめロ」
「地上の者に復讐を」
「姫巫女様ヲ傷つケるな」
攻撃と否定が混濁した無数の叫び。“氾濫化”とでも呼べばいいのだろうか、煉界人たちは変質しつつも一部ではまだスノーカインを守ろうとする意志を保っているようだった。
「みんな……!」
そんな彼らの声に応えるように、決死の覚悟をみなぎらせてスノーカインが函を掲げる。
緑の光が、狂乱した声の数々を治癒する感覚が確かにあった。だが、あまりにも微弱……!
再びの強襲! 俺がかわした横を、巨大な蛇のように肉塊が跳ね飛んでいく。硬い地面が砂の山のように削り取られる。
「それを使えば、氾濫を止められるのか」
次の襲撃へと視線を周囲に飛ばしつつ、俺は聞いた。スノーカインはまだ不信の目を返しつつも、
「そう。みんなに入り込んだ汚染を取り除ける。でも、これじゃ足りない……」
「もっと多くのミアズマがいるってことでいいか?」
こくり、と首の返事。
やるべきことが定まる。
「ベルゼヴィータ! ここよりもっとミアズマの濃い場所はあるか!?」
俺の突然の呼びかけに、ベルゼヴィータが戸惑いの混じった答えを返してくる。
「あるわ! でも、何!? 突然そんなところに飛び込んで、いくらあなたのすることでも許せないことがあるわよ!」
そうだ。ベルゼヴィータにはスノーカインも函の光も見えていないのだ。わかるのは、俺が突然ピンチの中に突っ込んで、わけのわからない質問をしていることだけ。それでも――。
「お父様、そこに誰か……いますのね?」
アークエンデだけは、俺を見つめてそう言ってきた。俺の目を、俺の感覚を通じて、腕の中の誰かを視認するようにしながら。
「……ああ、いる。スノーカインという煉界の少女が」
仲間からざわめく空気。
「彼女は今起きている現象を食い止めようとしている。それには大量のミアズマが必要だっていうんだ。だから教えてくれベルゼヴィータ! ここよりももっと多くミアズマが出ているところを!」
「でもそいつは――煉界船と関係しているのよね?」
答えは冷たく、刺すように尖って俺の奥まで届いた。彼女がそうした理由は明白。これが何かの罠だと言いたいのだろう。そうでなくとも煉界への利敵行為となる。それだけは確か。
「……聞いてくれ。これが世界にとって正しい選択かはわからない。だが俺にとって何より大事なことなんだ。頼む、ベルゼヴィータ。助けてくれ。聞いてくれたら、お礼に君の言うことを何でも聞く……!」
この場において命と等価の沈黙を、彼女は数秒行使した。俺は額に脂汗を浮かばせながら、ベルゼヴィータを見つめた。
今、氾濫化した魂に狙われたらアウト。だが、この要望を拒否されてもそうだ。
彼女も優位から黙しているわけではない。かつてないほど真剣な眼差し、熟考と焦燥の走る目で俺を見返してくる。
命懸けの、ざっと、三秒。
彼女の唇から小さな吐息が流れた。
「……伯爵さんが自分のことを“俺”って言うときは、本当に本気の時よね。わかったわ。教えてあげる」
「ベルゼヴィータ! ありがとう、感謝するよ……!」
「どのみち、こんな不気味なことが一族の庭で起きてたら対処するしかないしね。ついてきて!」
そう叫ぶや否や、彼女は黒い風に飛び乗った。彼女に付き従う黒ハエの騎翅だ。俺の方にも一匹が迎えに来てくれる。
「いや、俺の方はいい!」
自らの足で駆け出しながら、俺は彼への騎乗を辞退した。
「どういうつもり? 下は危険よ!」
「イクシード……この変色した肉塊みたいなのは、見た限りスノーカインが持っている函を追いかけてきている!」
まるで味方のように名指しされ、腕の中の彼女が動じる気配がある。
「俺まで上に飛んでしまうと、地面に溜まってる連中が追いかけてこない可能性がある。しかし低空にとどまった場合、騎翅は敵の予兆を察知できずに攻撃を受けるかもしれない」
「あなたにはわかるっていうの?」
「ああ。なぜか、わかる。この肉塊――煉界人たちは確かにすごい攻撃性を持ってるんだが、単なる怨嗟や憎悪じゃない。何かもっと純粋な、信念や使命感みたいなものがあるんだ。俺にはさっきからそれが伝わってきてる……!」
ベルゼヴィータは一瞬複雑な苦い表情を浮かべた。憎むべき相手を尊重するような言い方をしたのが気に食わなかったのかもしれない。しかし俺にはどうしても、この霊魂たちを悪しざまに表現することができなかった。
「わかった。じゃあ死ぬ気で走ってついてきて。こっちよ!」
ベルゼヴィータを乗せた騎翅が高度を上げて安全を確保、移動を始める。俺はそれを見上げながら、地を蹴る脚にさらなる力を込める。
「おまえ、バカなの……」
スノーカインがまた俺に言ってくる。どこか少し、諦めたみたいに。今度は言い返してやる。
「ああ。バカはバカでも、親バカだがな」
「親……?」
「煉界の氾濫を鎮められるのなら俺の娘は助かる……! そのためなら、俺は何だってするんだ……!」
『アルカナ・クロニクル』ラストにおける煉界の氾濫はこんなものじゃない。千の兵を呑み込むほどの規模で巻き起こる。ならば今のこれは、まだまだ初期の段階なのだ。もしここで何か対策を立てられるのなら、〈憤災戦争〉そのものを予防できるかもしれない! そうすればアークエンデのラスボス化にも大きな歯止めがかけられる。だったらやるしかないだろ!
「いくぞスノーカイン、しっかり掴まれ!」
「……え、えっ……」
「仲間を助けたいんだろ! こうだ!」
俺はスノーカインの小さな体を抱きしめた。息を呑む気配があって、それから俺の服をつかむ細い指の感触がした。
ここからは、竜盗賊の全力でいく!
再開して早々、距離を縮める伯爵。それはそうと、ん? 今何でもするって……
※お知らせ
前回もお知らせした通り、次回投稿は1月26日となります。それ以降はいつものに戻ります。
なお、今回投稿にあたって削除された「投稿日お知らせ回」にいただいた感想は、「第〇〇回分感想」ではなく作品全体の感想という形で残りますので、消える心配はありません!




