第九十七話 エン“ド”カウント
「みんな聞いてくれ。……靄のむこうに煉界人がいる」
「えっ!?」
もはや自分一人では処理しきれず、今見えているもの、聞こえているものすべてを仲間に伝えた。
説明の最中にもまた光。だがそれを指摘しても、やはり仲間たちには見えていない。
こちらの異様な気配に気づいたのか、離れかけていたエクリーフたちもいつの間にか戻ってきている。
「船の生き残りってこと?」
もっとも剣呑な態度を見せたのは、やはりというかベルゼヴィータだった。
彼女にとって宿敵であり死神でもあった煉界船、そして煉界人。もしこの場に居残っている者があれば、それはそのまま追討対象になる。そんな怒気交じりの敵愾心が彼女の瞳で揺れるのを見返しつつ、
「かもしれないが、判断は待ってくれ。どうにも様子がおかしい」
俺は冷静さを促すように、努めて慎重にそう吐き出した。なぜそうしたのか自分でもよくわからない。
煉界は敵だ。少なくともそう見なして対処するしかない。だが何か、重要な選択肢が目の前に置かれている気がしたのだ。ここで攻撃を選んだらもう後戻りできない道を進まされるような、そんな致命的な分岐路――。
「光がちらつくたびに、浮き出た顔の数は増えてる。ただ、俺たちにブツブツ言ってはいるが、攻撃を仕掛けてくる様子はない」
「そう言えば、卿は以前も煉界の言葉を聞き分けていたな」とマスカレーダが思い出し、「何と言っている?」との問いかけ。
「“裏切り者”とか“緘黙の羊”とか、俺たちを罵倒してるらしい。煉界船の内部でもそうだった。だがあれはマスカレーダと共闘した時の死霊とはちょっと違う。あっちは本当に怨念とか怨霊とかそういう感じだったが、こっちはもっと……反応がライブというか、生きてる人っぽいんだ」
死者ではない……では生霊? 罵声はほぼ同じ言葉の繰り返しだ。それでも壊れたレコードとはどこか違う。それしか言葉を知らない人間が、一つの意志を示すため、同じことを何度も叫んでいるような、そんな気がするのだ。
「やつらは煉界船を失って、もう戦えないのかもしれない。だったら今こそ知るチャンスじゃないか。ヤツらの正体を」
不明の第七種。神話の時代に箱舟ごと沈められた地上最後の種族。
もちろん学術的な興味なんかじゃない。彼らが何を目的として地上に現れ、深族と戦い続けてきたのか。それがわかれば、こちらも場当たり的に迎撃するだけなく違った手段が取れるかもしれないのだ。
「そうね……。それはわたしも知りたいかも」
魔力を漲らせていたベルゼヴィータが、硬い表情のままその一声を俺に向けた。
深族は長い歴史を保持しつつ、この戦いについての情報はなぜかすっぽりと抜け落ちてしまっている。なぜ自分は命を賭けさせられたのか。その答えを希求しようとするベルゼヴィータの言葉は誰よりも重い。
アークエンデや他のみんなも、この考えを承諾するようにうなずいてみせる。
「靄の奥の光は次第に強くなってる。それに応じて煉界人たちも活性化しているように見える。オーメルン、ミアズマの量は?」
「まだ減ってる。もう残り半分くらい」
「ミアズマの減少とむこうの活性化……何か関係がありそうですわ」
「俺を先に行かせてくれないか。何かあったら速攻で逃げてくるから」
言葉がわかるのも姿が見えるのも俺だけ。なら適任者は俺しかいない。心配そうな視線がいくつも集まるも、最後にはそれを認める答えを返してきてくれた。
吹き荒れる靄の壁へと靴の先端を差し入れる。空気の割れる音さえしそうだった。
内部は一層濃密なガスが立ち込めていた。視界はほとんどゼロ。ホワイトアウトというやつか。雪山はもちろん、真夏の靄であってもこれに巻かれると遭難や滑落の危険がある。だが……。
「赦さん。おまえたちだけは……」
「我らを騙して船を沈めた」
「罪に緘黙し、咎から逃れるなど……」
今のこの場において、周囲は重々しい罵倒に満ちていた。
四方から飛び交う罵詈雑言。まるで大罪人の裁判だ。
事実そうなのかもしれない。彼ら七番目のヒト種族からしたら、あの嵐の日、他六種族の裏切りと結託により自分たちは洪水の海に沈められた。果たして本当にそうなのか……。
「あなた方は、何者だ」
俺は思い切って問いかけてみることにした。ここに集まっている“声”は、一方的に怨嗟をまき散らす死霊たちとは違う。言葉は通じている、そんな予感があった。しかし――。
「黙れ、裏切者」
「語ることなど何もない」
「咎めを受けろ。命でもって」
けんもほろろな返答だ。言葉が通じても気持ちまで通じ合うわけではない。言葉の端々にテコでも動かない強固な意志を感じる。もはやすべての議論を煮詰め尽くし、拒絶しか残らなかったかのように。
「お父様、ご無事ですか!?」
背後からアークエンデの声。「大丈夫だ。ちょっとボコベコに悪口を言われてるが傷ついてはいない」との返事をすると、
「そんな! お父様は世界一素敵な方ですわ!」
「そうよ。ちょっと目の下に不景気な徴があるだけよ」
「あと、すぐ余計なもんつれてくるけどさ! おおむね善人だろ!」
「ありがとよ」
多大な応援に後押しされつつ、俺は先へと進む。
目指す先はあの燐光。煉界人の影とは違う、もっとはっきりとした何者かがそこにいる。
「待て。立ち去れ」
「それ以上進むな」
「汚らわしい裏切者め。やめろ」
ある地点から声の質が変わった。一方的な悪罵から、俺を押しとどめる内容へと。
間違いない。何かを、いや誰かを守っている。思い当たるのは一人しかない。
あの船のコア室で、その人物は彼らに守られるようにして逃げていった。
「我らの姫巫女様」
「近づいてはならぬ」
「赦さぬ。許さぬ」
いくつも重なった声と靄の層を抜け――今までで一番強い燐光の瞬きを見た時。
薄衣のような霞一枚隔てた先に、彼女は、いた。
それまでさんざめくようだった煉界人たちの声が、急に遠くなった気がする。
処女雪のような純白の髪。染みついたような褐色の肌。金の瞳の片方には、白いレースの眼帯が巻かれている。年齢はアークエンデとそう変わらなく思える。
どこか聖職者を思わせる白い儀式装束に、樹根とも血管網ともつかない赤いラインの意匠。ただし太ももからつま先までは一糸まとわぬ裸足で、細い脚がひどく儚くそして神秘的に映った。
彼女は折りたたむように膝を抱え――まるで一人でぼんやりと線香花火でも見ているような様子で、そこにしゃがんでいた。
おぼろな視線の先にあるのは、手のひらサイズの小さな函。表面に幾何学的な模様が走っており、そこが何度もグリーンの瞬きを繰り返している。
ふと不可視の力が函に流れ込んでいるのを感じた。これは……ひょっとしてミアズマ?
煉界人たちが姫巫女様と呼んでいた少女の数メートル手前で、俺は足を止める。
地面を最後に蹴った音に反応し、彼女の茫洋とした目が一度だけこちらを向いた。が、すぐに興味を失ったように再び函へと向く。
俺が、いや人がここにいることなど眼中にないように。まったく交わらぬ世界の住人のように。
だが――。
「君は」
「!?」
明確な意思をもって呼びかけた声に、今度こそ驚愕に満ちた片目が俺へと向けられた。
「何者だ?」と繋げた俺の声に、さらなる驚きに膨れる瞳。――認識された。
「わたしはヴァンサンカン伯爵という。この土地の管理を任されている者だ。もちろん、わたしたちの国のルールの中では、だが」
今の距離を保ちながら続ける。お互いの安全圏から、まずは話す意思を示したかった。
「おまえ……」彼女の口が開いた。「わたしが見えているの?」
「見えているし、聞こえている」
ささやくような彼女のかすれ声に、俺は努めて平静に応じる。
「わたしたちは前に一度だけ会っている。ここに落ちた船がまだ上に浮いているとき、動力源のある部屋で」
「…………」
警戒と想起の瞳が、俺を見たままかすかに揺れている。
「覚えているわ」の返事。
よかった。俺は静寂に小さな吐息を紛れ込ませた。話はできる。
「君の名前を聞かせてほしい」
「…………スノーカイン」
「スノーカイン……。教えてくれてありがとう。綺麗な名前だ」
瞳の揺れ幅が少し広がり、すぐに元に戻る。
「君は……」
煉界人なのか? そう聞こうとして、強烈な忌避感が舌がもつれさせた。これはタブーだ。聞けばきっと不和をもたらす。
「……ここで何をしているんだ?」
咄嗟にそのように切り替える。言葉の一句が重い。均衡という名の綱渡り。
返事は長い沈黙だった。警戒されているのがありありとわかり、仕方なく続きは俺から述べる。
「わたしの予想が正しければ、君たちはミアズマ――森から出る魔力を集めに来ているんじゃないのか。もしそうなら――」
「おまえたちは、わたしたちを煉界へと突き落とした」
強固でもない。恨み節でもない。ただ本の一節を読み上げるように淡々と、彼女は俺を遮った。
一瞬にして空気の色が変わる。激しさこそないが、責め立てるような静かな怒り。
「生きたまま煉界へと引きずり込まれた者がどうなるか。わかる?」
「いや……」
想像もつかない。
「焼かれるの。風に。空気に。地面に。逃げ場なんてない。本来は肉体を捨てて訪れる場所。精錬と再生に不必要な肉は真っ先に焼き尽くされる。熱さと痛みを伴って」
「……!」
地獄を、俺は思い浮かべた。人々が熱波にもだえ苦しむ姿。その悲鳴。
「……箱舟から外に出ていたら、ね」
その阿鼻叫喚をにわかに和らげる、彼女からの条件付帯。俺はようやく息の仕方を思い出した心地で、話を合わせる一言を吐き出す。
「箱舟の中にいれば、安全だったのか」
「それでもいつかは出ていかなければいけない。閉じこもっていても助かるあてなんてない」
「それは……そうだ……」
ああ……俺たちはなんて話をしている。これは、生きた神話だ。
「だからみんな、自分たちの“形”を捨てた」
彼女が人差し指を立てた。途端、周囲の靄に変化が生じる。いや、これは靄ではない。人の顔が多数浮き出ている。これは煉界人たち……いや彼らの魂なのか?
「煉界に適応できる“形”。これならもう熱さや渇きに苦しむことはない」
「……! 肉体を捨てて、魂だけになったということか……! し、しかし、それは――」
死と言うのでは――。
「死ではない。みんないる。心はここにある」
俺の言葉を未然に拒絶しながら、唐突に彼女は立ち上がった。
「わたしは彼らを守る巫女。同時に統率し、保守し、管理する。操霊機の巫女」
直後。周囲に幕を張った靄から、かつてなく巨大な顔がいくつも俺を見下ろした。
「おまえたちに邪魔はさせない」
彼女が指を振り下ろすと同時に、明確な殺気が頭上から迫ってくる。
操霊。つまり、彼女はこの霊魂たちを使役できるのだ。ただ漂いながら罵倒してくるだけの幻に力を持たせ、攻撃に転じさせることも――。
「待て! 君と争うつもりはない!」
そう吐き出すのが精いっぱいだった。巨大な鉄槌のように落とされた霊魂が俺がさっきまでいた場所を粉砕する。長い尾を引きながら上空へと戻っていく白い気流の塊。それと連動して振られるのがスノーカインの指先だった。指揮しているのだ。将軍のように、あるいは音楽家のように。
「お父様!? 一体何が……!」
「伯爵さん!? 大丈夫なの!?」
後ろから安否を気遣う仲間たちの声。だが、
「まだだ。まだ時間をくれ!」
俺は救援を拒んだ。皆が駆けつければもはや戦う他なくなる。だが俺だけなら……。俺だけなら戦えない!
「俺たちはその時何があったのか何も知らない。知らなくなってしまった! だから、君が乗った船とも戦うことしかできなかった! 俺たちは知るべきじゃないのか。神話の時代に何があったのか! なぜそうなったのか!」
首だけの魔獣のように襲い来る霊魂をかわしつつ、俺は叫んだ。戦ってはいけない。その選択肢が致命的な分岐路のように脳裏に明滅している。
「そう。知るべきだ。知れ。思い知れッ。みんなに何をしたのか。みんながなぜこうなったのか。緘黙の咎めを受けろ。セルガイアにへつらう呪われた羊ども――」
か細かったスノーカインの声に初めて激情の発露が見えた、その瞬間だった。
ゴボッ。
濡れた音がして、地面が沸いた。
「――!?」
スノーカインの金の瞳が大きく見開かれる。
固形だった地面が突如として波打ち、そこから赤紫の腕が伸びた。一本どころではなく、何本も何十本も。
続いて無数の顔。泥のように溶け落ち、もはやどんな人相かもわからない。ただ、目と口の位置に空いた大きな虚ろが俺たちを見、そして何かを喚いている。まるで溺れているかのように。
こ、これは……!!
『氾濫!?』
俺とスノーカインの声は一つに重なっていた。
よし、よくわからんが伯爵、何とかしろ




