第九十二話 クッキーを焼きながら
教会の前には甘い匂いが立ち込めていた。
穏やかな晴れの日に相応しいバタークッキーの香りは風にデリバリーされ、まだ離れた位置にいる俺にまでその魅力をお届けしている。
今日は天が定めた安息日。教会でもたびたび催し事をする日だ。
「はい、どうぞサミュエル。はいっ、どうぞサラ」
白木のバスケットに入れたクッキーを、花咲くような笑顔で配っているのはシノホルンだ。彼女のまわりには自然と人が集まる。司祭という立場以上にその柔らかな気配から。
本日のメイン客層である子供たちが、クッキーを受け取った後も彼女のそばを離れようとしないことからもそれは明白だった。
「甘美なる白き誘惑は……時として黒キ者ドモを呼ぶ……永遠なる牙を研ぎ続けることを怠ってはいけない……」
「甘味は希少な自然の恵みだ。場所は他人に教えず、得られる好機は決して逃すな」
彼女の近くでお手伝いをしているのは、屋敷のミニスカメイド姿のソラとルーガ。
えーと、ソラは砂糖を取りすぎて永久歯が虫歯にならないよう気をつけろと言ってるのかな? ルーガの方は大自然の教えを説いてくれているらしい。二人とも育ちが独特すぎて子供には伝わりそうにないな……。つーか何でソラは闇に傾いてるんだ……。
ソラとルーガも町の子供たちにはすっかり顔馴染みらしく、二人が提げたバスケットの中身もよくはけていく。
今まで散々やらかして不気味がられていたヴァンサンカン伯爵の好感度がV字回復したのには、彼女ら屋敷のメンバーの活躍がある。
トメイトウやら黒シルクやらの特産品は、あくまで領政上の改善点に過ぎない。俺個人の人間としての評判は、共に暮らす彼女たちが町民に親切にしたり、いつも笑顔で楽しそうにしていたりといった間接的なコミュニケーションの影響が大きい。
そして、俺もまた教会のイベントはできる限り参加している。
それは貴族の仕事の一つであり、セルガイア教徒である町民たちの信頼度アップにも繋がる重要な行為。子供たちが間接的に領主の評判を上げてくれているのだから、俺も頑張らないと。
一歩一歩、良き領主、良き父となるのだ。
ところで、教会前にはもう一つ大きなグループが存在していた。
シノホルンのグループに集まっているのが女性や子供中心ならば、もう一方は圧倒的に男性。老いも若きも、まだ十にも満たない男児まで集結している。
もうおわかりだろう。シスター・マスカレーダとシスター・エクリーフだ。
「はい、ぼうや~。来てくれてありがとうね~」
ほわほわしたお礼を言いながら、エクリーフがクッキーを渡した少年の頭をナデナデしてやる。
「わ、わぁ……。大きい……」
「あら~、大きいクッキーだったのかしら。当りね~」
男は大きいと嬉しいからね。仕方ないね。
幼くして「大は小に勝つる」を知った彼は、ぽーっとした顔でその場を離れていく。児童でさえこの反応。より男の習性に自覚的な町の衆はと言うと、
「ほ、本当に美人シスターがいた……!」
「でかい(直球)」
「お、おれ、もう一回もらってこよ……」
などと全員が魅了の術にかかり済みだ。
ピケの教会はシノホルンをのぞいてだいたいがベテランのシスターだ。妙齢の美人シスターの噂が町でマッハを出さないわけもなく、二人のことはあっという間に知れ渡ったらしい。……道理で、今日に限って人が多いはずだ。
「……? 何だ、諸君ら。またクッキーをもらいに来たのか。それは構わんが、何だか体力が有り余っているようだな。そういう時は体を鍛えるといい。スクワットだ!」
突然そんなことを言い出したシスター・マスカレーダに、下心しかなかった男衆はたちまち当惑の表情を浮かべた。
「ス、スクワット……?」
「新手の野菜だべか?」
「そうか。諸君らはスクワットを知らんか。ではわたしが手本を見せよう。このようにするのだ」
言うが早いか、その場で本当にスクワットを始めるマスカレーダ。『アルカナ・クロニクル』において脳筋の部類に入る彼女にとって筋トレなんて日常のことなのだろうが、さすがにそれは……。
しかし、おお……と思わず漏れる男たちの感嘆の息。
ええとその、マスカレーダ隊長のスクワットはパワーに任せた非常にハイテンポなもので……つまり非常に素早く上下、たわわな部分もそれに連動ということで……。
「こ、こうでしょうかシスター!」
そのうち誰か一人が真似し始める。
「悪くないが、前かがみすぎる。上体はもう少し上げ、尻は後ろに出すのだ」
「シスターが目の前でお手本を見せてくれるのなら、何とかなりそうです」
「うむ。では一緒にやっていこう。1! 2!」
「!! お、おれも!」
「あっしも!」
一人目の男の目論見に気づいたらしく、次々にスクワットに加わっていく男たち。
ワンモアセッ! 隊長の美しい上下運動に合わせ、男衆も見本を強く見据えながら続いていく。
……いや何なんだこの集団は……?
「うっ!? いたたたた!」
ここで参加者の一人が悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
「あら~。いきなり強い運動をしたから、足がつってしまったみたいね~。足を延ばしてつま先を引き寄せて、と……。そうそう、その体勢を維持してね~。無茶はダメですよ~」
エクリーフの適切な処置により彼はダメージを最小限に抑えられた。というか、優しく「めっ」されてむしろ顔はニヤケている。それを目の当たりにした男たちから羨望の眼差しが殺到するのを俺は見た。
こ、これは……!
俺はこれらのシチュエーションを知っていた。保健だ。保健室の先生だ。そしてマスカレーダは健康的な女性体育教師。
ピケの町の人々にそんな概念は存在しないだろう。だが、男というのは集合的無意識から癖を引き出すものなのか、この二人の美人シスターに向ける眼差しは、確かに学生時代の俺が抱いた桃源郷を見据えるものそのものだった。何なら今でも余裕で!
「シ、シスター。実はおれもさっきから足の調子が……」
「つま先が痛いような……」
「靴ひもがほどけなくて……」
続々と現れる急患。これはひどい。何がひどいって、医療術なら確実にシノホルンの方が上なのにエクリーフが群がられているという点だ。だが、これはやむを得ないことなのだ。エクリーフが保健の先生になってしまった以上、シノホルンは保健委員の女の子くらいにしか見えなくなってしまったのだ……。
そんな意味不明な現場に、俺たちの足もようやく到着。
「甘い匂いがするでござるぅ! このような見え透いた罠に拙者は決して釣られんで……ネコーッ!」
「タマネ、伯爵様の顔に泥を塗るような真似は……って待てぇー!」
ついに匂いに耐えかねたか、タマネが一足先にクッキーの列に飛び込んでいく。慌てて姉を追いかけるタガネも、結局二人で並んでしまっているあたり、彼もお菓子の誘惑には勝てなかったようだ。
「こんにちは、シノホルン司祭。お勤めご苦労様です」
一方俺は、丁寧さと慇懃さを意識しつつ彼女に声をかける。町民の前では適切な距離を心がけるようにとうちの執事Zは常々言っている。変に馴れ馴れしいと、それはそれで民衆の反感を買うからとか。
「ザイゴール! 来てくれたんですね!」
そんな配慮をぶっ飛ばし、シノホルンさんは一オクターブ上がった声で俺たちを迎えてくれました!
その様子に、すぐさま周囲の子供たちが何かを言い始める。
「ザイゴールって?」
「しっ。領主様の名前よ。司祭様は人がいない時、領主様のことをそう呼んで独り言を言ってるの。あたし知ってるんだから!」
「ファーストネームっていうんだよ。貴族の人をそう呼ぶのは、仲が良い証拠なんだ」
全然ひそひそ声になってない密談は、周囲の保護者たちにもたちまち伝播した。好奇心に満ちた顔で何やらこそこそ話し始めている。ま、まずい!
「あの、シノホルン司祭? ここはファーバニス島ではないのですから、その呼び方はちょっと……」
「あっ……ごめんなさい。誰もいない丘の上、ひとつ屋根の下で暮らしたあの時の癖で、つい……」
それを聞いたさっきの子供たち。
「ひとつ屋根の下って?」
「しっ。ひとつ屋根の下で大人の男の人と女の人が暮らすと、赤ちゃんができるのよ。あたし知ってるんだから!」
「夜のプロレスごっこっていうんだよ。その闘魂を感じ取ってリングの外からコウノトリが赤ちゃんを運んでくるんだ」
このふざけた会話によって大人たちはさらにざわめきを強くした。
「領主様と司祭様が……!?」
「こりゃあめでたい!」
「土地と教会の結びつきが強まれば、盟主様の恩恵もより大きくなる。ヴァンサンカン、万歳!」
これはひどい。俺とシノホルンの二度のやり取りだけで話題がゴールしてしまった。いつの間にかシノホルンも町民側に参加しており、「いえ、そんな……」とか「まだ先の話で……」とか、ニヤケ顔で両手を頬に当てながら記者会見を開いてしまっている。何だこれは。まるで司祭の罠では……!
「ハッ!?」
すぐ後ろから世界の破滅の足音がした。慌てて振り向くとそこには、
「…………<煉>v<〇>」
暗黒微笑を浮かべたまま、秘宝〈闇の心臓〉を取り出すアークエンデの姿。
コオオオオオオオオ……!
「やめようアークエンデ! パワーを石に注入するのは! コオオオオって言ってる! コオオオオと!」
今の時点で彼女の力は名無しの魔王相当なのだ。このままではラスボスを超えてクリア後の裏ボスにまで至ってしまう!
と。
「ヴァンサンカン伯爵、卿も来たか。待っていたぞ」
「伯爵様、ごきげんよう~。お待ちしてましたわ~」
ここに、さっきの集団スクワットとクッキー配布を終えたマスカレーダ姉妹が合流しに来た。後ろに大勢の男衆たちを引き連れて。
ただ、彼らは俺を見るなり衝撃を受けたように立ちすくんだ。
「伯爵がなぜここに!? ……ハッ、まさか、またなのか!」
「おかしいと思ったんだ! 町にいきなり美人シスターが二人もやってくるなんて!」
「どこまで豊かさを独占する気だ……! 富の分配を求める!」
こっちもこっちで暗黒のオーラを立ち上げ始めた!? 何だ!? 教会前がいきなり曇ってきたぞ!?
「ちょっとあんたら! なにいやらしい想像してんだい! 領主様は司祭様と、って、たった今決まったんだ。余計なこと言うんじゃないよ!」
男衆のざわめきを聞き咎めてシノホルン派の気の強い女性が啖呵を切りつける。け、ケンカはやめて……。
「いや、伯爵様はその程度でおさまるタマじゃねえ! トメイトウもでっけえ方が喜んで買ってくださる! それも何十個もだ!」
「そうだそうだ! 伯爵は男のロマンの体現者なんだ、羨ま許せねえけど!」
おいマジでやめろ! 俺の評判が下がりまくるだろ!
『ぐぬぬぬぬ……!』
平和だったはずの安息日は、たちまち民衆を二分するバーニングファイト会場と化してしまう。
のぼせたシノホルンはニヤケ顔でウネウネ動いているだけで事態を収拾してくれそうもなく、マスカレーダとエクリーフは新参ゆえに話についていけてない模様。
このままでは後の歴史書に〈血のクッキー事件〉とか呼ばれるとんでもない乱闘騒ぎに発展してしまいそうな予感が――!
「落ち着きましょう、皆さん」
その時だ。
凪ぎの湖面のような静かな声が、場に吹き込まれた。
荒ぶる獣さえも一時怒りを忘れてそちらを向いてしまいそうな、静謐で厳かな一声。
その場の誰もが、はっと心を揺らされた顔でそちらに振り向いた。
そこには――。
ドッゴオオオオオオ……!!!!
背中から『煉』属性の業火にも似た双翼を生やしたアークエンデが、地上からわずかに浮き上がりながら俺たちを超然と見下ろしていた!
『だ、誰よりも荒ぶっているううううう……!!』
二つに分かれていた人心は、今一つになった。
「お父様が誰と番うかは我がヴァンサンカン領の未来を占う重要な決定。このような諍いの中で決めていいことではありません……」
全員が即座にこくこくとうなずく。一言一句その通りでしかないことに加え、逆らったら一瞬で消し飛ばされるという明確な未来が見えていた。
「わかっていただけて幸いですわ」
アークエンデは背中から轟々と炎の翼を迸らせつつ、満足げにうなずく。世界の終焉が一ミリだけ後退したのを、俺たちはきっと一緒に感じた。
「……そもそも! この議論自体が成り立たないのですわ。お父様はわたくしのもの。わたくしはお父様のもの。愛し合う二人の間には、すでに誓いの証が――ふにゅっ!」
あっ、オーメルンが後ろから飛びかかってアークエンデの口を塞いだッ!
「ちょっとオーメルン、人の話の最中に何をしますの!? 無礼ですわよ!」
「これ以上話をややこしくしてどーすんだよ! 伯爵のためを思うなら黙ってろって!」
オ、オーメルンおまえ……!? この状態のアークエンデにそういうことするの!?
「黙ってろですって! オーメルンあなた……いえ、おまえね、最近図々しく接しすぎでしてよ。おまえはお父様が決めたわたくしの付き人なのだから、恭しくしつつも常にわたくしの味方をなさい!」
「やだね! 悪い方にいかねーようにするのも付き人の務めって性悪執事から言われてんだよ! 父さ……伯爵だってそれを望んでる!」
彼の重みに負けてか、謎に浮かんでいたアークエンデがへろへろと地面に降りてくる。
オーメルン……おまえは勇者だ……。何を考えてあれに飛びつこうなんて思える? 背中から業火出てんだぞ。おまえが卑屈な腰巾着になる未来なんてもう欠片も残ってない。元勇者だけど悪役令嬢の付き人になりましたとかそういうのやれるよ……。
ぎゃーぎゃー言い争う二人は、もうただの子供になっていた。あのゴッド・ファイナル・アークエンデみたいな荒々しさ神々しさは微塵もない。そしてそんな子供らしい姿を見て、大人たちも我に返ったようだった。
「お嬢様は伯爵様を本当に愛しておられるのだな」
「まだまだ甘えたいお年頃なのね」
「わしらがあれこれ言って悲しませてしまっては可哀想じゃのう……」
ショック療法とでもいうのか。あの業火を見せられて怒りを持続できるはずもないのか。対決ムードにあった二派は、引き潮のように後ずさっていった。
こうして……美人シスター二名の来訪がもたらした小さな騒動は、小さな魔王と小さな勇者によって完全に沈静化したのである。
こ、これでまとまるのか、この町は……。
「クッキーおいしい」
本物の勇者の方はクッキーを食べて呑気に光属性に戻り、
「式はどこでいたしますかザイゴール。それでその夜のことは……にへへへへ……」
ウネウネしている司祭様はしばらく戻ってこなかったが……。
ア・LOVEる。
再開してすぐに読みに来てくれてどうもありがとうございます!!




