第七十二話 ダーウィンが逃げた!(前編)
久しぶりにたどり着いた我が家のベッドは、雲の上を思わせる寝心地でこれまでの疲労をすべて吸い取ってくれるような気がした。
目を閉じて息を吸った一秒後、そこから先の記憶はもうない。
まぶたを優しく押す光に、窓を抜けて聞こえてくる鳥のさえずり。卑劣な手段で睡眠を妨害してくるスマホのアラームよりも快適で完璧な目覚めを俺だけに提供してくれる。
朝だ。
目を開けた。いつも賑やかなヴァンサンカン屋敷は、俺に気を遣ってくれているかのように静かで、シーツの上をゆっくりと這う朝日の音さえ聞こえてきそうだった。
と――。
「ヴァ、ヴァンサンカン……」
小さな鈴虫が鳴くような声をかけられ、俺は開いたばかりの目を扉の方へと向けた。
「ヴェ!?」
そこにいたのは、年の頃十二、三くらい。少し癖はあるが艶やかな灰色の髪、健康的な赤銅色の肌に、片目が髪で隠されてなお愛らしいと一発でわかる顔立ちの、メイド服の少女。
彼女は顔を赤くし、全身をもじもじとさせながら上目遣いに俺を見て言った。
「お、おはよう、ございます……ゴシュジンサマ」
「…………だ……」
誰だおまえは!?
※
これはつい昨日の出来事になる。
物資船がヴァンサンカン領の港に到着し、馬車を走らせることさらに二日。そうして俺たちは屋敷へと戻ってきた。
『おかえりなさいませ、ご主人様』
すでに到着の報せを受けていたメイドさんたちが、エントランスに並べた頭を一斉に垂れる。島での簡素な暮らしを思うと隔世の感があるが、これがヴァンサンカン伯爵本来の待遇。
「おかりなさいませ、旦那様」
「おかえり伯爵。無事で何よりだ」
整列して動かないメイド見習いたちの脇から、執事のバスティーユとメイド長のユングレリオ陛下が姿を現した。
事の経緯に関しては早馬で連絡済みだ。バスティーユはマリスミシェルに向けた災害復旧の陳情書をすでにしたためてくれているだろうし、ユングレリオは“彼女”が暮らす準備を整えてくれているはず。
「二人とも留守をよく守ってくれた。ありがとう。早速だが、屋敷の新しいメンバーを紹介する。ここにいる――」
そう言いつつ、俺は隣に引きつれてきたルーガの背中に軽く手を添えようとした。
スカッ。
「へ?」
腕が空気を掻く。はっとして見れば、さっきまで――本当にさっきまで横にいたはずのルーガの姿がない。一体どこに……。
「きゃっ……!」
突然、メイドさんの隊列から悲鳴が上がった。
何事かと目を向けると、彼女たちの中に野生児が一人紛れ込んで、匂いを嗅いだりスカートを撫でたりしている。言うまでもなくルーガだった。
「ヴァンサンカン……! みんな白くて、ピカピカで、綺麗だ……すごい!」
彼女はそう言いながら物凄い早さでメイドの列を駆け巡り、
「お尻もシノホルンよりだらしなくない。これなら山歩きもできるな」
「わ、わたしはだらしなくありません! ザイゴール、確かめてください!」
「シノホルン司祭、ここはもう我が領地ですので軽はずみな行動は……」
顔を真っ赤にしたシノホルンが尻を向けてくる奇行を窘めつつ、俺はルーガが帰って来るのを待った。つーか追いかけられないし。
「なるほど。噂に違わぬ野生児ぶりだな」
ユングレリオはそんな彼女を鷹揚に迎えた。
「……! ヴァンサンカン。この人、一番綺麗だ。誰だ……?」
戻ってきたルーガが目を丸くする。讃えられたユングレリオは、一瞬面食らったような顔をしたもののすぐに得意げな笑みを浮かべてみせ、
「ボクはメイド長のユングレリオだ。親しみと尊敬と愛らしさを込めてメイド長と呼ぶといい。さて、そなたの留学とその目的についてはすでに手紙で知らされている。早速だが、メイドの服に興味があるのならどうだ、一度着てみないか?」
そう言って彼はピラッと一着のメイドを服を取り出してみせた。
ルーガは綺麗で手触りのいい服が好きだ。ヴァンサンカン・スタイルのメイド服は素材、デザイン共に大人気の逸品で、当然一も二もなく飛びつくかと思いきや……彼女は突然、小動物のように俺の後ろに身を隠してしまった。
顔を赤くし、どこか悲しそうに言う。
「それは……ダメだ。わたしは……みんなみたいに綺麗じゃない。それじゃあ服が可哀想だ……」
おや、これは……?
※
と、そんなことがあったんだけど回想中に扉がバーン!
「おわあ!?」
「どうだ伯爵。見違えたであろう!」
もじもじしているルーガの隣に現れたのは、いつも以上に得意満面のユングレリオ陛下だった。
「陛下……。この子はルーガなんですか?」
「陛下じゃない! だがいかにも、彼女はルーガだ」
驚いた。元々顔立ちはいい方だと思っていたが、ボサボサの髪をまとめ、服装を整えただけでここまで純正な美少女になるとは……。何より、肩をすぼめてもじもじしているところが最高に庇護欲を誘う。いやこの発想はちょっとイカンか……。
「髪は長年放っておかれたせいでだいぶ傷んでいたが、彼女は若い。昨日、よく洗った後にイルスターから取り寄せた椿油で手入れしてやったので、これを欠かさず続けていればすぐにキューティクルが回復するはずだ」
「さ、さすがだぁ……」
ヴァンサンカン屋敷のメイドたちがどんどん綺麗になっているという話を、俺は町に出た時に聞いたことがあった。すべてはユングレリオの王様流美容術の賜物であったか。まあ会った時から、性別はどうあれとんでもなく可愛かったからなこの人……。
「それは大変結構なのですが、この態度は一体……?」
一番の謎がそれだった。あの野性の極北、適者生存をその身に宿していたルーガがシャイなお嬢さんみたいになっている。
「フフフ……。ルーガはな、憧れに足らぬ自分を恥じているのだ」
「なにっ」
ユングレリオはすでにその理由もお見通しのようだ。
「感性よわよわな伯爵にもわかるよう教えよう。オシャレとは単に豪華に着飾るだけで手に入るものではない。それに相応しい中身もまた必要なのだ。衣服に負けぬ品格、知性、立ち居振る舞い……。いかに高級ブランドで身を固めようとも、中身が伴っていなければみすぼらしいだけだ」
そう言って、彼はルーガの肩にそっと手を添える。
「この娘には、衣服への憧れと敬意がある。自分がそれと対等になれていないことを気にしているのだ。これは大切なことだぞ伯爵。高級品を身につければ自分も高級になったと思い込む輩の何と多いことか。服は人を隠すものではない。人の中身をさらに引き出すものなのだ。この感性が、服屋を開きたいという彼女にとっていかに大事か、少し考えればわかるな?」
俺はうなずき、改めてルーガを見つめ直した。
「ううう……」
彼女は首をすくめさらに縮こまる。今までは自分の外側にあったもの。憧れ、敬意を払い続けてきた“綺麗”を身に着けることになって、確かに彼女は委縮している。
端的に言えば、「自信がない」。そんな女の子らしい悩みに、ここに来て初めて気づいたのだ。
屋敷に着いたらソラ並みに暴れるかと思っていたが、これは思わぬ展開だ……。
「これから毎日、ルーガには色々な格好をしてもらう。商売のノウハウよりもまずは着る楽しみを知ることからだ」
「頼みます陛下」
「おねがい、シマス……ヘイカ」
「だから陛下じゃない! ボクは伯爵の可愛いメイド長!」
※
それからのルーガの生活は、島とは異世界級の別物となった。
日替わりで様々なコスプレ……いや被服体験をする。
ある時は簡素な町娘。またある時はアークエンデとベルゼヴィータに混じってハイソな令嬢へ。中には、剣の素振りをするソラの横でトレーニングウェアなんてことも。
ファーバニス島には祭事の際の礼服すら存在せず、作業着と普段着を着分けていたらスゴいという有様だった。見たこともない服の数々を着せられる彼女は緊張し、恐縮し、けれどどこかで未知の感覚を楽しんでいるようにも見えた。
その一方で、彼女は行儀作法の一環としてメイドとしても働いていた。
元々自立心が強く、ただ面倒を見てもらう一方の生活を嫌ったというのもある。
とにかく力仕事をゴリラ級の腕力で楽々こなしてしまうため、メイド実習生たちからはとてもありがたがられた。しかし、彼女が皆に愛された理由はもう一つ……いやむしろそっちがメイン。
「きゃーっ、これ、これぇッ……!」
「やばいやばいやばい……!」
それはサスペンダー付きのズボンにシャツという貴族の男の子がよくしている格好だった。オーメルンなんかもそうだ。
ユングレリオによると、どうやらメイドの一人がこのコス……いや服装を提案したらしい。とにかく何でもいいから新しい服を着せろという命が出ていたので、男装というアイデアでもすぐに採用されたわけだが――。
男の子の格好をしたルーガは、絵に描いたような美少年だった。
元々顔は中性寄りであり、目つきも凛々しい。そして今回用にポニテに回した色素の薄い髪と、長年の日焼けが染み込んだ濃い色の肌が、彼女を神秘的でミステリアスな少年へと仕立て上げたのだ。
「こ、困ったことがあったらお姉さんに何でも言ってね」
「ルーガ君、さっき作ったおやつの残りいる?」
「も……もうすぐ休憩時間だから、一緒にお庭をお散歩しない?」
効果は絶大だ! つーかメイドさんたちがルーガを包囲して仕事をしなくなった!
さすがのルーガもこれにはどう対応していいかわからず、たまたまそこに居合わせた俺の方へ逃げてきた。そして、髪で半分隠れた顔を赤くしながら、おずおずとこんなことを聞いてくる。
「ヴァンサンカン、わたし、可愛い……のか?」
そのいじらしくもいたいけな様子は何とも、何とも……。
「あ、ああ……。とても可愛いよ……」
「そ、そうか……」
ルーガが恥ずかしそうにうつむき、きゅっと俺のシャツの端を握った。メイドさんたちがさらなる歓声――いや奇声を上げる。
あの……今の俺の対応、間違ってないよね? あくまでルーガは女の子だから可愛いと言ったのであって、中性的な男の子に対して可愛いとか言ったんじゃないよ? だってホラ、一連のコスプレ大会は、彼女に自信をつけさせるためでもあるし……!
「おい、伯爵……。何やってんだよアンタ……」
「何でおまえが機嫌悪いんだよオーメルン……」
こんなふうに、野生のど真ん中にいたはずのルーガは、どんどん都会の新しい色に染まっていった。自然の均衡というのは繊細なガラス細工のように脆い。しかし、ルーガはその変化を楽しんでくれているようでもあった。新しい世界。そして新しい自分を見つめて。
そんな中だった。彼女があくまで山の娘であることを示す、ある事件が起こったのは――。
ヴァンサンカン屋敷の性癖はもうボロボロ




