第六十八話 灰は灰に、塵も灰に
「水だ、水を持ってこい!」
「消せ、消せーっ!」
「だめだ逃げろ、逃げろ!」
すべてが燃えていた。
バニス村の民家も、教会も、共同炊事場も、農具を仕舞う納屋も備蓄庫も。
子供を抱いて避難する者、我が家についた火にバケツで必死に水をかける者、ただうろたえ泣き叫ぶ者……誰もが恐怖に突き動かされている。規律立った動きなどできない。
当たり前だ。一軒の火事ならまだしも、こんな大規模火災は想像も予想もできなかった。
煙が村を丸ごと覆い尽くしている。朝にもかかわらず村の中央は夜のように暗い。
「この火は無理だ! 全員避難しろ! とにかく生き延びろ!」
俺の頭もパニック寸前だった。村人たちにそう呼びかけるしか思いつけない。ひとまず生きてさえいれば。それだけだ。
きっと、ルーガもそうだった。たった一つのことが頭のすべてを占めている。
俺の前を彼女が一心不乱に走っていた。ついていくのがやっとの全速力。
向かう先はただ一つ、バニス村の先にある流人村。
だがどれだけ急いでも、より火の手が回るのが早かった流人村にたどり着くには、あまりにも遅かった。
「あ……」
俺たちは、それを見た。
ここまで絶え間なく動いていた足が、自然と力をなくしていく。
枯れ木も同然の流人村の家屋は、バニス村よりもはるかに激しく燃えていた。
その端っこにある、小さな、小さな家。
まるでそれ自身が薪だったかのように、一つの火柱となって空を焦がしていた。
「あーっ! わああああーっ!」
ルーガが獣の叫びにも似た声を上げ、再び走り出そうとする。
俺は咄嗟に、彼女を後ろから抱きしめていた。
「ダメだ、ルーガ!」
「離せ! わたしの、お店が……! わたしの……ああああああ!」
もがき、わめき、彼女は前に進もうとする。俺はきつく目を閉じ、腕も固く閉じて、必死に彼女を押さえつけた。
「たくさん……集めたんだ……! 綺麗な花も、石も……! お店に飾るから……! 服も……頑張って交換したんだ……! 森から色んなもの集めて……お店……やりたくて……」
「そうだ……! わかってる。わかってるよルーガ……!」
俺の腕の中で彼女の声がどんどん嗚咽に沈んでいく。前に出ようとする一歩一歩が、悲しいくらい弱々しくなっていく。
炎の中に、吊るされた衣服らしき影が見えた。真っ先に燃え尽きた花も、焼け焦げる石も、もう何もわからない。クソッ……! クソッ、クソッ、クソオオオオオオ!!!!
「全部、燃える。全部、なくなっちゃう……」
「大丈夫だ。大丈夫だルーガ……」
何が……大丈夫なものか。
彼女は一生懸命だった。たとえ子供じみた夢だったとしても、この島に不似合いな夢だったとしても、彼女は自分ができることを精一杯やった。一つ一つ、丁寧に積み上げた。
服は、俺がまた用意できる。綺麗な石も花も、俺が買ってやれる。でも夢は! この子が見た夢だけは! あげられねえんだよおおおおお……!!!!!!!!
「頼む。行かないでくれルーガ。ここにとどまってくれ……」
何もできない。俺には、何も……。
いつの間にか、腕の中のルーガは動かなくなっていた。ただ俺の腕を弱々しく掴み、猛火の中に消えていく夢を見つめていた。
「ザイゴール、ルーガ……!」
遅れて駆けつけたシノホルンが俺たちを見つけ、そして視線の先にあるものに息を呑んだ。
「ルーガ、ああ、そんな……」
彼女は俺の腕の上からルーガをそっと抱きしめた。シノホルンの目からも涙がとめどなくあふれていた。
どうして、こんなことになった。
ついさっきまで平穏な朝だったじゃないか。この先の生活に希望すら見出せていた。それなのに。
何もかも燃えて消えてしまう。昨日まで集めたすべてを失ってしまう。
俺が絶望に濡れた目で、村をなめる赤々とした炎を見つめ直した、その時だった。
――ゴガアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!
大地が怒り狂ったのかと思うほどの大咆哮が、総身を震わせた。
ズン! と地面を鳴らして降り立ったのは、長い頭髪を持った身の丈二メートル超の巨人――。
「ルーガのお母さん!?」
彼女の双眸は、火の照り返しとは明確に違う激しい光を帯びていた。
憤怒。大事な娘を、そして娘が建てた店を傷つけられた怒り。また人間がだ。一族の先祖が山へと捨てられたように、娘もまた同じく痛みを与えられた。
――グワアアアアアアアアア!!
怒号と共に、彼女は肩に背負っていた丸太をぶん投げた。
それはもっとも近くにあったルーガの店をぶち抜き、その後も直線上にあるすべての家屋を紙屑のように吹き飛ばした。
「……!?」
これは……! 一見、怒りのままにぶつけられた破壊行為のように思えたが……違う。
吹っ飛ばされた家はどれも、その勢いで火が掻き消されている。
ば、爆風消火……!!
山の長は怒りのまま暴れに来たのではない。煙を見て、ただ娘を助けに来たのだ。
――ゴオオオオオオオオオオ!!!
さらに無数の咆哮が湧き上がる。山を下りてきたのは彼女だけではなかった。他にも何体も、そして漏れなく肩に丸太を担いでいる。
乱れ飛ぶ丸太の飛翔体。そのたびに火柱が一つ、また一つと消えていく。
彼らはものの数秒で荒々しい鎮火を終えると、そのままバニス村の方へも飛び跳ねていった。――突然の襲来に、肝を潰された人々の新たな悲鳴が上がる。轟音。だが消火……。
なんてことだ。山の一族が平地の人々を助けてくれている……!
「ルーガのお母さん……」
ルーガの母親はその場に一人残っていた。俺とシノホルンは二人で抱きしめていたルーガを、そっと彼女へと渡した。母親は痛ましい表情で、人間一人分の大きさはある腕で娘をそっと抱いた。ルーガもまた母の体に顔を埋めた。途切れていた嗚咽が再び聞こえてくる。
「……シノホルン。ここをお願いしていいですか。できればルーガたちから離れないで。俺は村の状態を確かめてきます……」
俺はやるせない気持ちのまま、二つの村を見て回った。
山の者たちの消火活動は圧倒的で、そして的確だった。すべて焼き尽くされるくらいなら、丸太の砲弾でぶっ飛ばされる方がまだ何か残る。それでも人々が受けた被害は甚大だった。
絶え間なく風に混じる火の粉。焼け焦げた家屋から剥がれ、空へと舞っていく灰。鼻孔を焼く熱気がいまだ居座る中、少し離れた場所で力なく座り込む人々の姿ばかりが目に焼き付く。
この火事は何だ?
失火なんかじゃない。すべての家が一斉に燃え上がったみたいだ。まるで意図したように……。そうだ。これは放火だ。それも複数人による。そんなことをする人間がいるとしたら――。
「ヨハンはどこだァ!」
「探せ、近くまで来ているはずだ!」
「そうでなくてもここと港を押さえりゃヤツは逃げられねえ!」
突然、悲愴な村の空気に蛮声が響き渡る。
そうして姿を現したのは、武器を手にしたゴロツキ――いやヨハンを狙いにきた殺し屋たちだ。
このタイミング。偶然であるはずもない。こいつらだ。村に火を放ったのは。ルーガの店を燃やしたのは……!
そう言えば、騒ぎを起こし、それに乗じて暗殺を実行するメイヘムという殺し屋がいるんだった。港へはこの村を通ってしか行けない。村が燃えていてはヨハンたちも近づけないし、足を止めさせてそこで仕留めるつもりだったか……!?
突然現れた無頼漢たちに村人も黙ってはいなかった。若い男たちを中心にあちこちで揉み合いが始まる。俺も思わずそこに飛び込んでいこうとした、その矢先――。
ふらりと、しかし妙に存在感のある足取りで、俺の前に立った人影がある。
右手に火のついた松明。メイヘムか、と瞬時に走った予想を、男の容姿は一瞬で否定してきた。
年のころは三十代後半。顔立ちは無駄肉もなく精悍で、七三に分けて後ろになでつけた、紳士らしいヘアスタイル。よく手入れされた口髭が似合っており、いささか垢じみてはいるが白いシャツと革のズボンも高級品だ。
最後に腰に吊るされているものに目が行った。宝石かと思うほど煌びやかな……軍刀!
「――貴族……?」
「貴様か……。村に来ているという運のない代官は……」
歳相応に落ち着いた声が俺の耳に当たる。
「どのようにしたのかは知らんが、鮮やかな消火の手際だった。おかげで私が立てた暗殺計画が大きく狂ってしまったよ……だが……!」
男は腕を広げ、拳を強く握ってみせた。
「消えたぞ! 今まで私を散々苦しませてきた、忌々しいこの村が! ついに! ついに消してやった!」
「な……!?」
その宣言に俺は目を丸くした。
火事を起こしたのは殺し屋ではなかったのか? それにこの口振りはまさか……!
「ああッ……清々しい! かつての私はどうしてこんな単純なことができなかったのだ? 罪人と、土地にへばりつく無能ばかりが暮らす、掃き溜めのような村! いつ死に絶えるかもわからない連中に、なぜ毎日エサをやらねばならぬ! いっそ消えてなくなれと何度願ったことか……!!」
この男はキュドサック卿だ!
島に来ているどころか、自ら村に火をつけて回ったのか!?
だが……その姿は俺の予想を大きく裏切るものだった。
イカれていると思った。今の行動から見てもそうだ。ヨハンの言葉に心を掻き乱され、正気を失っていると思った。
だが彼の目には、不気味なくらい深遠で理性的な光が宿っていた。
高ぶってはいるが口調も整然としている。どの歯車も狂っていない。すべて正常に機能し――その上で村を燃やした。
「あんたは……自分が何をしたかわかっているのか……!?」
「ああ……私は恐れていた。今の君のような誰かからの誹りを。良心の呵責を。だが実際に行動してみて……やはり私は正しかったと確信できた! 何も感じない。何も痛まない! そうだ、これで良かったのだ! このようなクズどもは、最初からすべて灰にすべきだったのだ!」
「クズだとっ……!」
俺は村の残骸へと腕を振り払った。
「あんたは見ていなかったのか! あそこには夢が! 希望があったんだぞ!」
「ない! そんなものはずっとない!」
「あったんだ! 小さいけど……とても大切な……大事な……!」
「どうせ枯れる! いつのもように! ここのヤツらには何もできない!」
キュドサック卿はどこまでも澄んだ目で、昂りを抑えるように小さく息を吐いた。
「私も悩んでいたんだよ代官。何か重要なものを見逃していないか。この島の窮乏は私の不手際のせいなのではないかと。……違うんだ。私のせいじゃなかったんだよ。こいつらのせいだったんだ……! だから、ほら、今こんなにもせいせいした気分だ。私は彼らの間違いを正してあげた。存在すべきではなかったと……!」
「キュドサック卿……!」
「そんなイカレたものを見る目で私を見るな。間違っているのは君だ。私は正しいことをしている。正しさの中にいるのは気分がいいぞ。迷いも、悩みもないのだ。人間、悪いことをしたら心のどこかが痛まんかね。それがないということは正義の証明なのだ」
キュドサック卿に一切の迷いは感じられなかった。
静かな眼差し。落ち着いて淀みない口調。ともすれば、正論を述べていると勘違いしてしまうほどに。だが……!
「何が正義だ! 大勢を傷つけて、あんな健気な子の夢を壊しておいて……!」
のどが痛むほどに俺は感情を吐き出した。腕の中でだんだんと萎んでいった彼女の叫びが忘れられない。
「あの子は……頑張っていた。努力して、必死に考えて、純粋に夢をかなえようとしていた……! 俺にはそれが……とても大切なことに思えた……!」
「それがどうした? 子供の夢など放っておいてもどうせ崩れる。大義の前には何の価値もない」
「違うだろ! そういうのを大事にするのが! 大切にするのが、人の正しさだろ……!」
「若いな。いや幼い。自分の狭量でしかものを見られん。それはな、君の勘違いなんだよ。少しも正義ではないんだ」
こ、ここまで……! ここまで話が通じないのか……!
こんな穏やかな目をしておきながら……!
「ヨハン……! あんたはとんでもないバケモノを作った……!」
思わずうめくと、彼は初めて俺の言葉に同意するように、眉を上機嫌に持ち上げた。
「ヨハン。そう、あの男だ。出会った時から何もかもが合わなかった……が、ヤツと話すことで私は変わった。おっと、勘違いするなよ。私は操られているわけではないし、こうしろとそそのかされたのでもない。ただ目覚めたんだよ。自分がどれだけ窮屈なものの見方をしていたか。今の私の視座は、塵芥漂う人界を超え、星界へと向かう高みにある」
「それも違う……。あんたは階段を踏み外して落ちている最中だ。人が幸せへと向かう階段から……!」
キュドサック卿は憐憫の表情さえ浮かべた。
「人の幸せか。残念だよ代官。ヨハンと会っておきながらその程度とは。正義の中にいる私と違い、君は未だ悩みや苦しみの痛みに囚われているようだ」
俺は歯を食いしばり、拳を握った。
「今、一つわかったキュドサック卿……! 正しさは無痛の中にあるんじゃない。努力や、苦悩の中に、時折きらめくものなんだ。あの子がそうしているように! 迷いも悩みもしない正義なんて、狂気と何も変わらない!」
「……なるほど。低俗さもそこまでいくと、ある意味見上げたものかもしれん」
乾いた音が地面を跳ねた。松明が投げ捨てられた音だ。
「そんなことよりヨハンはどこにいる? この近くで見失った報告は受けている。このゴミの山を焼くのはあくまでヤツの足止めが目的……ついでだ」
「どこまで遠くに……行っちまったんだあんたは……!」
「目覚めた今だからこそわかる。ヤツだけは生かしておけない。あれはこの国を……いや世界を滅ぼす巨大な害虫だ。それにいち早く気づいた私こそがヤツを殺さねばならん。絶対に、絶対に、必ず仕留める……!」
理性とは、何だったのだろう。
この男の目に宿る光は、狂人や性格破綻者のものとは一線を画している。
彼の中に強固な正義が生まれたというのなら、そうなのかもしれない。
だが……本当にそうか?
この男の内面に人ならざる何かが巣食っているような気がしてならない。皮膚をめくれば、そこからとてつもない怪物が出てくるような……。
ヨハン。おまえの力は本当に、相手の中に正義を生み出すものなのか?
刃が鞘の口を滑る音がし、雪のように白く輝く刀身が現れた。キュドサック卿が軍刀を抜き放ったのだ。盗賊の鑑定眼が即座に語る。――業物。
「さあ、ヤツの居場所を言うのだ代官! それとも向こう傷の一つもないと男が立たないか」
軍刀を握る決闘の構えも歪みなく。彼がかつては堂々たる貴族の男であったことを物語る。瞳には理知の光。でももう何もわかり合えない。
「……いくらあんたを倒したところで、失われたものが戻ってこないのはわかってる……」
「もう勝った気でいるのか? 愚かな……。来ないのならば、こちらから行くぞ!」
鋭い踏み込みから高速の突きが繰り出された。
しかし怪物の放つ一撃にしては、それはあまりにも人間すぎた。人間風情、すぎた……。
身構える必要すらなく、体を横にずらしてかわす。
指先を相手へとかざす。剣の切っ先から手首、そこから波及して腕、肩、首と胴体、そして足の先まで一気に糸で絡み取って――引き寄せる!
「このバカ野郎がっ……!!」
振りかぶった渾身の拳が、キュドサック卿の頬を捉えた。
柔らかい層を抜いて、硬い層へと到達する手応え。
構わず思い切り振り抜いた次の瞬間、キュドサック卿は受け身も何も取れないまま地面に叩きつけられた。
ただの人間が、地面を転がった。
迷いながら行こう。
※お知らせ
なんと諸事情のスケジュールが決まらなかったので次回も投稿ありまぁす!




