第六十七話 穏やかな朝の幻
娯楽ホールのこじゃれた置時計が夜の終わりを指した時、暴力の余韻が漂う屋内には俺たち三人しかいなかった。
脱出までの残り日数はゼロ。――いよいよ今日だ。
「怪盗君、村へ戻って船の様子を見て来てもらえるかい」
きめ細かな肌に睡眠不足の陰をこびりつかせながら、ヨハンがそう提案する。
「予定通りに船が来たなら、こいつで狼煙を上げろ。オレぁヨハンとここで待つ」
妙な臭いのする丸薬を渡してきたアンサーの顔にも疲労の色が見て取れた。
昨夜の刺客たちは、こちらを休ませない狡猾なリズムで攻撃を仕掛けてきていた。ヨハン曰く、この教科書通りの消耗戦はキュドサック卿の指揮だろうとのこと。
当然俺も疲弊している。いつも不健康そうなツラだから目立たないだろうが。
だがそれも今日で終わりだ。船が予定通り来てくれれば。
「わかった。待っていてくれ」
俺は一人砦を抜け出し、明け方の靄にかすむ森を抜けて村へと戻った。
※
バニス村は少し早い朝餉の時間を迎えていた。
支度の煙が広場から上がっている。
刺客たちとの血生臭い乱戦を終えた後では、ここが何の問題もない平和で豊かな村に思えた。少なくとも俺はこちらの世界に棲み処がある。そう思えるだけで安心できる自分がいた。
そんな風景を尻目に屋敷に戻ると、ドタバタと音を立ててシノホルンがすっ飛んできた。
「ザイゴール! おかえりなさい!」
「ただいま、シノホルン」
玄関で出迎えてくれた彼女の顔には、喜びと安堵が溢れるほど輝いていた。帰ってきたという実感が、それまで忘れていた疲労を身の内に充満させる。
「あっ、ザイゴール……!」
思わずよろけそうになった俺を、シノホルンが体でぶつかるようにして受け止めてくれた。柔らかな感触が、体を強張らせていた毒素を抜いていくような錯覚。ハッ、これはいかん……!
「こんなに疲れて……。さあゆっくり休んでください。すぐに朝食の用意をしますから」
「い、いや、もうひと頑張りです。今日はアークエンデたちの物資船が来るはずでしたよね」
無線なんてないこの世界だ。一端沖へ出てしまえば船は孤立無援、音信不通となる。だが俺を運んでくれた船長曰く、この時期のファーバニス島航路は風も波も素直で、まともな船員さえいれば到着予定のズレはそう起こらないという。
「はい……。村長さんも船は予定通りに来られるだろうと」
シノホルンが残念そうな素振りを見せるのは、別に俺と二人きりの時間がどうとかいう乙女ハートの事情からでは決してない。
今日来る船は積み荷を降ろし、代わりに俺たちを乗せて帰路に就く。
この島と、お別れの時なのだ。
元より短期間の滞在。マリスミシェルは臨時代官の俺に島の生活改善までを求めたわけではなく、その窮乏を直視しとけという程度のものでしかない。ましてや、彼女の本当の目的はヨハンの救出。こちらが最優先される。
「ザイゴール、ひどくお疲れなのは承知しています。でも、島を出る前に……」
シノホルンが言いにくそうに切り出す内容を、俺はすぐに察した。
「ああ、ルーガのお店ですよね。見に行きましょう」
「あっ……はい! あの、とても綺麗になったんですよ。彼女もすごく満足していて……!」
一端は翳りかけた彼女の顔が、温かな光を取り戻す。人の幸せを自分の幸せのように語れる少女だ。ここで不義理を働くわけにはいかない。
「シノホルン、いるか!」
突然、屋敷の外から元気な声がした。この声は――。
「ルーガか?」
「ええ。朝ご飯を食べにきたのでしょう」
「えっ、ルーガが?」
きょとんとする俺に、訳知り顔の笑みを返したシノホルンが玄関の扉を開ける。
「おはようシノホルン。果物取ってきた」
「まあ、ありがとうルーガ。後で一緒に食べましょう」
驚いた。本当にあのルーガだ。ボロ布服の裾をめくって、そこを器に何かの実を溜め込んでいる。
このシノホルンの慣れた対応、昨日今日始まったわけでもないらしい。店の支度を手伝う過程で自然とそうなったのか、それとも郷土料理で胃袋を掴んだか。
いやそもそも、彼女は子供にとても好かれやすい。ピケの町の子供たちは言わずもがな、我が家の自由人ソラでさえ、シノホルンの言いつけは守る。ある程度は。
準備よく玄関に置かれていた器にブドウのような木の実を移し替える彼女の姿は、幼な妻、そして若い母の雰囲気を醸し出していた。
「あっ、ヴァンサンカン」
「やあルーガ。おはよう」
「用事は済んだのか。それともシノホルンのメシを食べに来たのか?」
……何だろう。一瞬、仕事で家を空けがちな父親になった気がした。
シノホルンが母親で、ルーガが娘。俺と娘は生活のサイクルが合わず、顔を合わせるのは休日くらい。いつの間にかお父さんと呼ぶことにも抵抗ができて――いやこれは相当疲れてる。
「おまえたちは今日帰ると、シノホルンから聞いた」
何事も率直に言う彼女の顔が、少しだけ寂しそうに見えたのは俺の勘違いか。
「ああ、そのつもりだけど、その前に君のお店を見せてもらいたいな」
「……! ああ、そうしろ。よし、じゃあ今日からお店を開くぞ。おまえをお客さん一号にしてやる」
三人揃って食卓へ向かいながら、ルーガは待ちきれないといった様子でこれまでのことを話してくれた。
シノホルンに言われて店を飾り付けたこと。
崖にしか生えていない花を採り、森の川で綺麗な石を探したこと。
配置にいまいち納得がいかず、何度も置き直したこと。服の位置も何度も調整したこと。
まるで小さな子供のお遊戯会の話。けれどもルーガは本当に一生懸命で、俺はそれを何度も相槌を打ちながら聞いた。
……何だろうな……。この島からすぐにでも脱出しないといけないのに。最初からそういう予定だったのに。
どうしてか、明日、自分がもうここにいないことが想像できない。
島民たちは特産品の開発に取りかかって。
ルーガのお店は繁盛して。
山の奥地には彼女の一族が暮らしていて。
そこに俺やアークエンデたちも加わって……。
不思議だ。ここは本当に世界の果てだったのだろうか。夢も希望もない、孤独な流刑地だったろうか。俺は本当に、今日、ここを出ていくのだろうか……。
そんな不思議な感傷のまま朝食を終えた頃、
「そういえばヴァンサンカン。さっきここに来る途中、海の向こうに船が見えた」
「えっ!? それは本当かい?」
「ああ。うっすらとだけど。あれがおまえたちの船か?」
俺たちは急いで屋敷を出て、水平線が見渡せる場所まで来た。
「何も見えませんね……」とシノホルンは眉間にしわを寄せながら言ったが、
「いや、見える……!」
盗賊の遠目は、直線で引かれた空と海の境界線上に、小さな影が張り付いているのを捉えた。このタイミングで現れる船なんてアークエンデが指揮するそれ以外考えられない。
「来たか……!」
さっきまで頭を弛緩させていた靄を振り払い、俺は自分がやるべき仕事へと意識を向け直した。
二人を一旦屋敷へと帰し、離れたところで火を起こす。
「これを投げ込めって話だったな……」
アンサーから受け取った丸薬を中に放り込むと、立ち上っていた煙に、淡いピンク色が加わる。なるほど、これなら遠くからも発見できるはず。
ヨハンたちはすぐに行動を開始するだろう。
船には屈強な船乗りたちが大勢おり、その中で暗殺なんてのはまず無理な話。さらにキュドサック陣営は知らないだろうが、我が屋敷のとんでもない精鋭も同乗している。彼女たちが要る限り、あそこは巨大な要塞だ。
このまま……このまま終わってくれ。昨晩で万策尽きたはずだ。もう諦めてくれキュドサック卿。
ヨハンが気に食わないのはわかるが、もし本当に暗殺なんてしてしまったら、一族郎党処刑されてしまうかもしれない。ここで終わりにしてくれ……。
そんなことを願いながらしばらく煙を眺めていると、
「ヴァンサンカン。何をしてるんだ? そろそろお店を開くぞ」
家で待っていられなくなったか、ルーガが俺を探しに来てくれた。
「そうか。すまない。では行こうか。シノホルンも一緒に」
「ああ。あいつはいい人だ。お店を綺麗にする手伝いをしてくれた。まだお尻がだらしないけど、ちゃんと歩いていればすぐに立派なお尻になる」
「それはあんまり本人の前では言わないようにな……ふぅ、はぁ……」
「何だ? 疲れてるのかヴァンサンカン。動きがへろへろだぞ」
「いや、大丈夫だ。急ごうか」
少し早めに歩いて、気合を入れ直す。
砦を出てから港に来るまでが、ヨハンにとって一番危険な時間帯だ。だからアンサーが彼を担いで一気に山を駆け下りる手はずになっていた。この手の任務には慣れているだろうから、想像以上に早いはずだ。うかうかしていたら、ルーガの店を見られなくなってしまう。
シノホルンを誘うため家に戻る、その途中で。
どこか、遠く。幾重にも重なる悲鳴を聞いた気がした。
島風とは明らかに違う異音。ルーガも気づいたか、俺たちは揃って音の鳴る方へ顔を向ける。
「!!」
バニス村から煙が上がっていた。
一つや、二つではなく。いくつも。いくつも。
煙の根元から橙の輝きがちらちらと見え隠れする。
朝食の準備じゃない。
逃げ惑う人々の声がはっきりと聞こえてきた。
火――火事だ!
「あ……」
ルーガからかすれた声が漏れた。
煙は、流人村の方からも激しく上がっていた。
※お知らせ
お話の途中ですが、近々またしばらく投稿間隔が空きそうです。
だいたいのスケジュールは明後日には決まっていると思うので、次回投稿の際にご連絡いたしとうございます。




