第六十六話 彼は話して、離して、放した
「ついに出てきたか彼の本音が。僕を殺したい。なるほど明快だ!」
膝を叩き、腹を抱え、これまで常に纏ってきた退屈の鬱憤を晴らすような勢いで、ヨハンは笑い続けた。
侵入した刺客が、砦の位置も隠し通路の位置も把握していた。この両方を知るのは砦を管理し、警護の人間まで回していた前領主アランドラ・キュドサックのみ――。だがしかし、
「何がおかしいんだ……?」
ゲラゲラ笑い続けるヨハンに、俺はどうしようもない異物を胸に感じながらそう問いかけた。暗闇を渡ってきたアンサーでさえ、怪訝な眼差しを彼へと注いでいる。
「いや、失敬」と彼は涙目を拭いながら一言詫びた。
「あのどうしようもないほど生真面目な彼の中にこんな魔物が潜んでいたなんてね。それを解き放ってくれたことが嬉しくて嬉しくてたまらないのさ。やっとまともな対話ができた気分だよ」
まともな対話……? これがか?
「わたしの知る限り、キュドサック卿は領主の職務を放棄して姿を消したというが……」
「ああ、そうだよ。ある日突然、何も言わずに部下と共にいなくなった。おかげでここは警備の一人もいない丸裸同然の要塞となったわけさ」
「人が突然変わるなんてことはない。何が理由があって、徐々に変わっていく」
俺はヨハンの説明に短く反論し、彼の目を見据えた。
「へえ……。何だか実感のこもった言い方だね。身に覚えがあるらしい」
「キュドサック卿に、本当は何があった?」
よくよく考えれば最初から奇妙な話だったのだ。
アルバイトのバックレとは訳が違う。臣従礼までやってからの職務放棄は国王との忠節を違える――つまり叛逆にも等しい行為。下手をすれば一族郎党に処罰の手が及ぶ。
以前のヨハンの評ではキュドサック卿は冗談も言わない真面目な性格だったらしい。ファーバニス島の管理に頭を悩ませていたことは確実だろうが、他の所領もあったろうにすべてを手放す逐電は、あまりにも飛躍しすぎている。
「何があった、か」
ヨハンは壁際の秘密通路から体半分を出して死んでいる刺客を見やりつつ、繰り返した。
「彼の中で何があったかは神と本人のみぞ知るところだ。ただ結果として言えば、現れたんだよ。彼の中に本当の自分が。そして解放されたんだ」
「……何から」
「罪悪感から」
「……!」
ニタリと笑ったヨハンの顔が、俺に堪える一言をわざわざチョイスしたことを告げていた。
「気を悪くしないでくれ怪盗。初対面の君の言葉、実はかなり気に入ってるんだ。罪悪感。そう、大抵の者がそれに人生を支配される。法、倫理、道徳、それらは結局のところ大多数に罪悪感を植え付けるためだけに存在する。罰を受けることよりも先に芽生える不快感、忌避感。それが社会の実質的なストッパーだ。だけどね、それを超越する価値観が世界には存在する。何だかわかるかい?」
「……愛とか?」
「プーッ、アハハ、そりゃいい。そりゃまいった。こっちの考えと違っても反論したくないな。君は詩人か哲学者向きだ」
「――正義だろ」
鉄よりも冷たい声で回答を割り込ませたのは、壁に背を預けて俺たちのやり取りを静観していたアンサーだった。
「さすがだ、兵隊」ヨハンの目には酷薄で、ものを見抜く冷徹な光が宿っていた。
「もっと言えば大義というやつだ。大いなる正義のためにこの行為は容認される。その思考が今まで培ってきた罪悪感を克服する。そうだな、兵隊?」
「ああ。兵士になって最初にすることが、社会で禁じられてきた他者への暴力性を解放することだ。いざという時に敵にトドメを刺せねえ兵士なんて役に立たねえからな。兵士の中にやたら態度が悪いヤツとか、タガが外れたようなヤツがいるのは大抵これが原因だ」
「キュドサック君は本来の姿を取り戻したんだよ。大いなる正義に包まれてね」
仮にアンサーからの同意を得ずとも、ヨハンの確信に満ちた穏やかさに変化はなかったはずだ。それくらい、彼は自分の行為に疑問を抱いていなかった。
「彼に異能の力を使ったな……。なぜそんなことをした」
ゴルゴンパイク家の異能。俺もアンサーも普段とは違う行動を取らされた。それは誘導尋問や催眠術の類ではなかった。自分の意志で、ごく自然にそれを行ったのだ。
俺たちは大したことにはならなかった。だがキュドサック卿は違う。
彼には立場があった。この島の管理者として砦の機密さえ握っていた。国に信頼されてもいたのだろう。そんな人物が軽挙妄動に走れば、その結果は甚大なものとなる。
ヨハンだってわかっていたはずだ。
果たして彼は、珍しく直視を避けるように顔を傾け、壁に微笑みかけながらつぶやいた。
「別に……ただ、見たかっただけさ。――どうなるか」
「なに?」
返事はない。つまりその一言が、彼の動機のすべてだった。
骨の芯まで震えるような不快感が俺の体内を駆け抜けた。
どうなるか、見たかった。
この男はただの興味本位で、一人の人間の人生を、気に入らない劇の脚本を書き換えるようにして変えてしまったのだ。
いや一人どころじゃない。豹変したキュドサック卿に家族はいた? 子供は? 部下だってこれに巻き込まれている。その家族もだ。これだけの大規模な変容を起こしておいてヨハンが得たものは、さっきの高笑い一つ? まるで釣り合っていない。被害に……!
「……それで命を狙われてるんじゃ、世話ねぇがな……」
アンサーの軽口が、冷え切った空間の温度をわずかに上げた。彼も元レンジャー兵だからわかっているはずだ。ヨハンが国の秩序にどれほど有害で脅威か。
彼は人の中に新たな“正義”を生み出してしまう……!
「それはその通り。だからここで殺されても僕は恨み言は言わないよ。抵抗はするけど」
彼の優雅な微笑みに強がりは見えない。本当にそう思い、体現するのだ。
自分の命さえ、生み出した悲喜劇の見物料にしてみせる。これでは他者の人生など顧みるはずもない。
恐ろしいのは、こう語るヨハンの貌が、いつもにも増して端正に輝いて見えるということだった。
……いる。その薄皮一枚下に、神の作り損なった怪物が……。
正気かマリスミシェル。
こんな危険人物を、本当に本土に連れ帰るのか?
※
「死ねッ、ゴルゴンパイクのヨハン!」
「オレのためにくたばれェ!」
あれから一日。今夜も正義の味方たちが砦に襲い来る。
いや、顔つきも言葉遣いも動機も全然ヒーロー向きではないし、子供もサインをねだって並びもしないわけだが、しかしその行為自体はとても秩序寄りだ。
「怪盗君、もしかして手を抜いたりしてないかい? 僕に死んでほしくて?」
「い、いや、そんなつもりは……」
すぐ後ろにいるヨハンからの指摘に、俺は言葉を濁す。
足元には不可視の糸で繭にされた刺客たちがゴロゴロと転がっている。だが中には何とかもがいて逃げ出す者もおり、手加減をしていると疑われても仕方ない状態だった。
だがこれにはちゃんとした理由がある。
「有象無象のクズどもが! 死体を片付けるのも面倒くせぇんだよ! とっとと失せろ!」
隣で戦うアンサーも、いつからか必殺を避けて相手の戦意を奪うやり方に切り替えていた。折れた歯や、時には耳や指なんてものまで床にばら撒かれるが、でかい死体が一つ居座るよりはいい。
昨日。俺たちがキュドサック卿の主犯を看破するのを見越したようなタイミングで、刺客の数は一気に膨れ上がった。
レベルは低いの一言。ただし数で押してくるので、迎え撃つ俺とアンサーも雑にならざるを得ない。
そうして激闘すること数十分。
本日の殺し屋WAVEは無事終了した。
「こいつぁ殺し屋なんて上等なもんじゃねえな。金と悪名欲しさに雇われたただのチンピラだ。オレが島で見かけたヤツとは明らかに毛色が違うぜ」
「しかしこれだけの数は普通じゃない。船ごとどこかから送り込まれてるな。砦に物資を運び込むための秘密の港があるのか。キュドサック卿ならそれも当然知っている……」
「やれやれ、キュドサック君はこんな質の悪い連中に頼ってでも僕を亡き者にしたいのか。せめて、僕がこれまでかけた食費くらいは高い剣で刺してもらいたいんだけど」
ようやく殺気の薄れた娯楽ホールで、俺たちは疲労の息と共に今の心情を吐き出した。
セーフルームの位置もバレている時点で、もはやこの砦に安全地帯などない。昼も夜も危険だ。結果、俺はシノホルンのところに帰れなくなっていた。一応、その旨は伝えられたので必要以上の心配はしないだろうが……村の様子も、ルーガのお店のこともわからない。
「……まあ、そう悲観したもんでもねえが」
そう言って、アンサーがヨハンが右手を突き出した。巻かれた包帯の上に、赤く滲む線が走っている。
「油断かい?」
「クズの中に本物が混ざってた。“メイヘム”というあだ名の殺し屋だ。昼間だろうと騒ぎを起こして暗殺を仕掛けてくるヤツでな、盾が足りなくなったら即座に退散した」
「手当てしよう。小さな傷は小さなミスを生む」
ヨハンはどこからか小瓶を取り出し、その中身をアンサーの傷口に振りかけた。草の匂いとわずかな湯気が立ち上がる。アンサーは具合を確かめるように右手を動かした。
「いい薬を持ってるな。ありがとよ」
「なに、これくらいは魔導錬金の初歩だ」
これでこっちの損害はゼロ。しかし、ゴロツキの中に本物の殺し屋か。いきなり持久戦となったこの状況をさらに悪くするのにうってつけの人物。偶然ではあるまい。
「むこうも制限時間があることくらいは察してるだろ。近々総攻撃を仕掛けてくるはずだ」
アンサーが周囲を見回す。血痕や人体の一部が散らばる殺伐としたホールが、この砦にまつわる不穏で優雅な物語の終わりを示唆しているようだった。
明日の夜を抜ければ、アークエンデの船がこの島にやって来る。
ヨハンをそこに放り込めば、秘密の任務も終わりだ。
本土に復帰したヨハンの先は気になったものの、今はそれを考える余裕もない。
それでも……何とかなりそうだという予感が俺にはあった。
アンサーは仕事に関しては至って真面目だし、ヨハンも指示にはすぐ従う。
この防御陣は砦のように堅固だ。
……いける。あと一夜ならなんとか耐えられる。
そう思ってしまった俺は、いや元凶であるヨハンでさえ見誤っていたのだろう。
その男が形にした悪意の総量を。
アランドラ・ヨセフ・キュドサック侯爵が解き放った怪物を。
本当の決戦は二日後。船の到来と共にあった――。
女の子成分が足りない? 素晴らしい。では次回をご覧ください!




