第六十四話 融和と誘惑の優人
以前遭遇した時と同じだ。
狩猟民族風の衣装。鮮やかなブルーのヘアバンド。流人村で倒れていた時の服装ではない、彼の狩りのスタイル。
両目が一つの瞳の中で青と赤に分かれているという強烈な個性は、兵士という画一化された集団の中でさぞ浮いていたであろうに、この時もアンサーなる元レンジャー兵は、たやすく風景に溶け込んで俺たちの喉元まで接近していた。
目の前に姿を現した今にしても……まるで蜃気楼のように気配も臭いもない。異様なまでの隠形。
「驚いたねぇ……。あんな変人種とは二度と会うことはねぇと思っていたが、まさか本人と出くわすとは。しかも、また仕事中ときてる」
「アンサー……! 流刑人の村で死んだはずじゃ……」
「ほぉ、よく知ってんじゃねえか。ありゃ擬態だ。今、この島に来るには囚人の護送船に乗るしかねえが、入ったら入ったで今度は囚人同士が互いを監視してる。だから、死体のフリして一抜けする必要があったのさ」
下手に姿を消せば仲間グループから村長に伝えられ、情報は瞬く間に拡散される。だが死者ならすぐに忘れられよう。遺体も海。それがこの島のルール。
あくまでひっそりと行動し、退場。囚人たちも相手が生きていればすぐに気づくだろうから、何らかの方法で擬態を徹底したに違いない。相変わらず太々しい態度とは裏腹の慎重で実直な仕事ぶりだ。
「まさかと思うがよ、オレと同じ獲物を狙いに来たんじゃねえよなぁ?」
獲物を狙う蛇のように身を屈めながら、ねっとりと問いかけてくるアンサー。
裏稼業に手を染めているこいつがここに来たということは、目的は一つしかない。
「ヨハンを殺しに来る殺し屋が、おまえか……」
「まだ殺ってねえところを見るに、てめぇの仕事は逆らしいな。つくづく面白ぇヤツだ。なあ、兄キ――」
つい口癖のように言いかけて、アンサーの声は途中でぶつりと切れた。
包帯が巻かれた右腕を見つめ、やがて彼の瞳の中にどす黒い炎が浮き上がる。
「ああ、もう何も聞こえねえ。サイレンスの野郎にやられて以来、兄貴は死んじまった……!」
声が今までにないヒステリックな響きを帯びる。
そうだった。奇妙なことに、アンサーは自分の右腕のことを兄と呼んでいるのだ。しかしその親指と人差し指をサイレンスに切り落とされ、卓越したレンジャーの技術もそこで死んだ。
元より命のやり取りをゲームのように愉しむ異常な性格ではあったが、大事なものを失った今、その歪みはさらに破滅的になったように思える。この男が刺客というのは、あまりにも危険だ。
「そういや、あん時もおめぇがいたんだったな怪盗貴族。おめぇに恨みがねえが……あれからオレぁ、ドブネズミのように下水臭ぇ仕事ばかりするはめになった。その鬱憤だけでも晴らさせてもらうぜ……!」
「仕返しならサイレンスにしてほしいな」
「今いねえんだからしょうがねぇだろ!」
アンサーが床を蹴った。か、どうかすらわからない。音がないのだ。とにかく接近、左手のナイフで襲ってくる!
「く!」
俺は咄嗟に指を振り、不可視の糸で鋭い斬撃を跳ね返した。強い弾力性を持つ糸が、迫ってきたのと同等のエネルギーでもって刃を遠ざける。
後退しながら続けて二発三発と受け切る。状況、体勢共に盤石。
これは……!
アンサーの動きがよく見える。身体能力や技術が向上したというより、体の芯が定まっている感じだ。ひょっとして煉界船戦なんていう大戦を経て、俺の心が戦い向けに成長したのだろうか。盗賊だけでなく、もう一人の俺の方の心も。よし、これなら油断さえしなければ……。
――そんな一瞬の自信さえ、目の前の猟兵には隙に映ったのかもしれない。
アンサーの右腕が閃いた。
針のように光が伸びて走る。狙いは俺じゃない!
「うっ……!」
離れた位置でヨハンのうめく声。しまった、直接狙われた!!
咄嗟に安否を探る目の先で、彼が頸動脈あたりを押さえてよろめいたのがわかった。すぐ背後の壁に投擲物が刺さる音。しかしその時点で、無事だという確証が生まれた。あそこを切られたら、手で押さえる程度ではどうにもならない量の噴水が上がるのだ。
――って、しまった! 今度は俺の方の防御がおろそかに!
「チィィィ……!」
しかし、ナイフの代わりに俺の腹にねじ込まれたのは、あまりにも怨念のこもったアンサーの舌打ちだった。
「しくじった! このオレが! このオレの技が!」
彼は自分の右手首に左手で掴みかかりながら、仇でも見るようにそれをにらみつけた。
「無様なもんだぜ……! 兄貴が生きてりゃ、たとえこの手だろうと狙いははずさなかった。足りなくなっちまった。何もかも……!」
人差し指と親指を欠いた手で暗器を投じたのでも十分達人芸だが、彼はそれで確実に当てる気でいたらしい。
俺は素早くアンサーとヨハンの直線上に回り込んだ。二度同じヘマはしたくない。しかし当のアンサーはそれどころではないようだった。
「クソッ、このオレがここで終わんのか。ゲームに参加するどころか、その資格さえなくして……こんなつまんねェ終わり方を……! サイレンスウウウウウッ……!!」
怒りと憎悪と自分への嫌悪が混濁した声が吐き散らされる。明らかに狂態。かつての冷静さの面影もない。
サイレンスはアンサーのことを“苦労して育てた後輩”と呼んでいた。もし彼が、この結末を引き出すために敢えて指二本で彼を逃がしたのだとしたら、あまりにも後輩のことを熟知していたと言える。
アンサーは満身のプライドを削り下ろされながら、悪の栄光から転げ落ちたのだ。それは指の恨みよりもはるかに深く彼を切り裂いた。
「ヨハン、下がって……」
俺は小さな声でそう囁いた。
ここは待つべきだと、俺の盗賊の直感が告げていた。
この男はじきにガラクタも同然になる。サイレンスが仕掛けた遅効性の毒によって。
けれど今、迂闊に手を出せば、渦巻く憎悪がすべてこちらへと向き直る。そうなった時、この男は死ぬまで退かなくなる。ここは何もせず放っておくべきだ――。
「ねえ、君」
そんな破裂寸前の風船に、いともたやすく手を伸ばした人物がいる。
ヨハンだった。
「あぁ……!?」
案の定、行き場を失った怒気が音を立てて噴きこぼれる。
しかし逆上した彼の攻勢より一瞬早く、次のヨハンの言葉がむこうに届いていた。
「僕ならその手を治してあげられる」
……!?
破裂寸前だった部屋の空気が、空間自体が戸惑ったように止まった。
「ヨハン、何を言っているんだ!」
「てめぇ今何て言った……?」
俺とアンサー二人分の強い視線を向けられても、彼は飄然とした態度を毛筋ほども崩さずに切り返した。
「君のその右手のケガを元通りにしてあげると言ったんだ。聞いたところ、そのせいで散々な目にあっているんだろう? 治したいと思わないか?」
「何言ってんだヨハン、こいつは敵だぞ!」
「適当なことほざいてると喉笛噛み切るぞこのボケ!」
「無論、タダではやらない。命をもらおう。僕の命をね。ちなみに指の再生は現代の最先端魔導錬金なら可能だ。ウソじゃない」
ぴたりと、アンサーから無尽蔵に放散されていた怒気が止んだ。
「本当か……?」
彼の声は最大級の疑いを含んでいた。だがそれは、真であってほしいと縋るようにも聞こえた。
「貴族に二言はない。と言いたいところだが、条件はもう一つある。ここにはちゃんとした錬金道具がない。僕をこの島から無事連れ出してもらう必要がある。そこの怪盗と協力してね」
お、おいおい……!
俺は驚いてアンサーを見た。彼はヨハンを始末しに来た殺し屋だ。この提案は実質その任務の失敗を意味する。それどころか裏切りだ。そんな条件をこいつが呑むわけ――。
「……いいだろう」
「なに!?」
本気か、どっちも!?
「結構だ殺し屋。ただ、この場で一つ聞かせてくれないか。魔導錬金術は、術者の心理状態が結果に大きく出る。君のことを知れば知るほど、良い結果を出せるようになる。つまり……君と、君のお兄さんについてを」
さらなる要求に俺はぎょっとせずにはいられなかった。ヨハンはアンサーに物理的に歩み寄ろうと歩きだしていた。いくらなんでも不用心すぎる。首には皮膚一枚めくれた傷跡。アンサーの気が変わったら、暗殺完了まで半秒もいらない。
「よせ、ヨハン……」と、俺が遮る声と、
「オレと兄貴は」と、語り始める声は、ほぼ同時にその場で生まれ、打ち消し合った。
「――双子だった」
なに普通に話してんだ、こいつ……!?
正気を疑ってアンサーを見たが、どこか様子がおかしい。生まれつきのような狂暴で歪んだ好戦性がなりをひそめ、神父に罪を告白するような神妙な顔つきになっている。
これは、何だ……?
「そうか双子だったのか。しかし、右腕を兄と呼んでいるのはなぜだい?」
ヨハンはさらに歩み寄る。もう首に手がかかる距離。
しかしアンサーの告白は淀みなく続いた。
「これは兄貴の腕だからだ。
――オレと兄貴は双子だった。おふくろの腹の中にいる時から、近所の司祭も産婆もそうに違いないと言った。それくらい母親の腹がでかかったんだ。
だが実際に生まれた時……。出てきたのはオレだけだった。死産とかじゃねえ。二人いるとみんな思っていたのに、一人しかいなかったんだ。
その時、オレを取り上げたバアさんが奇妙なことに気づいた。オレの右腕だけ、ちょっと大きかったんだそうだ。こんなことは初めてらしい。
オレんちには奇妙な事情があった。
オレの親父は生まれつき右腕がなかった。爺さんもそうだったらしい。そういう家系なんだ。
だがオレが生まれた時はあった。
その話を聞いた時、オレは思った。これは、オレと一緒に生まれてくるはずだった兄弟だって。
ちょっとでけぇのは、それが兄チャンだからだ。
双子は何もかも同じだなんて、当時のオレは知らなかったからな。
だが、わかったところで何も変わりはしねえ。オレは、オレのために右腕になってくれた兄貴に感謝してる。聞こえるんだよ。腕の中の神経や血管を通じて兄貴の声が。オレにはわかる。オレたちはいつも一緒だ……!」
アンサーはぐっと右手を握った。悪党とは思えない、真っ直ぐな言葉だった。
「……そうだったのか。話してくれてありがとう。君に強い興味が湧いた。その家族愛と不思議な友情にも。この感情を使えば、その手は完全に復活するだろう。請け負ってもいい」
ヨハンは疑い一つ見せず、すべてを聞き届けた。
にわかには信じられない話。双子の片方が消失する? バニシングツインとかいう――妊娠初期なら珍しくないことらしいが、お腹が大きくなるほど育ってからなんて、あるのか?
そして……いくらアンサーが右腕の復活を渇望していたとしても……ここまで赤裸々に過去を語るのは不可解だ。
そういえば、似たようなことがあった。
俺が初めてヨハンと会った時、家族にも話したことのない盗賊の心情を仄めかしかけたのだ。
あの時俺は……心が休まるような、そんな気がしていた。
罪の告白をして楽になるとか、そういうよくある話とは違う。もっと何か、得体のしれない、大いなるものに包み込まれたような安息を。
ゴルゴンパイク家は異能を輩出する。王太后マリスミシェルが国王の親衛隊まで掌握してみせたように。
ではこれが、ヨハンの持つ力なのか……?
「ベネット!? 死んだはずじゃ……」
「残念だったな。人違いだよ」




