第六十三話 二重生活の日常
特別な地位、そして特別な能力を持った囚人のための、御殿のような監獄要塞。
あのバスティーユでさえこのことに言及しなかったのだから、これは恐らく王国内でも秘中の秘、最高機密に属するものだろう。……いや、そう言えばユングレリオも別に何も言ってはいなかった。もしかしてこれは、王国でも裏を知るごく一部の者だけが取得を許される、極級の秘密なのでは……?
どうして俺にそんなこと教えんだよあの女!
あるいはこれは、「暗殺阻止は得意分野だろう?」という彼女からの皮肉たっぷりフルーツパフェなのかもしれない。酸っぱいですよこいつは……。
ひとまず砦の壊れていた鎧戸を修理し、俺は一旦屋敷へと戻ることにした。
ヨハンは典型的な夜型人間で、日中はセーフルームに隠れているという。その間は安全だ。
夕暮れ時よりもよほど暗い明け方の森を抜け、俺は屋敷へと帰還した。
別にそうする必要もないのだが、何となく気分で二階の窓から入る。少しだけでも寝ておこう。徹夜して働くのは自慢にはならない……。
「ぺえい!?」
主人を待ちわびるベッドを見やった瞬間、俺はその場で飛び上がった。
そこでスヤスヤと寝息を立てているのは……シノホルンさんだった。
肩まで露わになった薄い寝間着。普段の司祭服の露出度を考えると、それだけでも大胆に思えるほどだ。これは断じて聖職者の寝間着なんかではない。このエロ可愛さは……ユングレリオ陛下の趣味!(わかる俺もどうかしてるが)
一瞬部屋を間違えたかと慌てたが、室内に置かれた荷物は俺のもの。シノホルンが勝手に入って勝手に寝ているのだ。こんなエッッッな寝間着で。
やたらお行儀よく寝ている彼女の胸元で、シーツを押し上げる大きな膨らみが寝息と共に上下していた。普段はおさげにしている髪は解かれ、何度かの寝返りのためか、少し乱れてベッドの上に広がっていた。白い首筋に、繊細そうな鎖骨。滴るような甘い果実の匂い……。
お、落ち着け伯爵。ここで迂闊な行動を取ってはならない!
判断を誤れば、後日やって来る物資船は強襲揚陸艦へと変貌する。中に搭載されているのは煉界の軍船をたった二人で轟沈させた最終兵器……! 彼女たちだけは目覚めさせてはならない!
俺はシノホルンの横を通り過ぎ、その足で一階へと降りた。ソファーすらない小さな居間で、一人掛けの椅子を二つ繋げ、そこで朝までの短い仮眠を取る。
絶対に寝にくい姿勢なのだが、残念ながら、過去に職場で何度も経験していれば人は慣れてしまう。慣れない人生の方が良いものであることは、言うまでもない……。
…………。…………。…………。
「ザイゴール、ザイゴール……」
「ううーん、むにゃむにゃ……やったぁ生配信に間に合ったぞ……」
誰かが肩を揺すっている。猫が踏み踏みするくらいの優しい力だ。
まぶたの裏が光を捉え、俺は目を開けた。
「おはようございます、ザイゴール……」
「天使……?」
まぶしいほどに愛らしい微笑みがそこにあった。
「あっ、シノホルン司祭。失礼しました……」
「いいんです。星界の夢でも見ていたのですか? 天使だなんて……」
「いえ、あなたが天使のように可愛らしかったので……」
「ええっ!?(嬉)」
「ハッ!? す、すいません、司祭に立て続けに失礼なことを……」
「いっ、いいんですいいんです。こんな普段着の時まで司祭なんて呼ばないでください、ザイゴール……」
両手を頬に当て、ほわほわと浮かれまくった赤ら顔を向けてくるシノホルン。うう……なぜこの人はアホみたいな姿でもこんなに可愛いのか。
「起きて朝餉の準備をしようと思ったら、ザイゴールがそんな姿勢で寝ていたのでびっくりしました」
「あ、ああ。昨日は遅くに帰ってきたので、二階に上がるのも億劫だったんです」
「まあ。部屋に戻れば温かいベッドでゆっくり休めましたのに……。無理はしないでくださいね」
「ええ、ありがとう」
おい何だ? このハートフルなやり取りは……。涙が出てきたぞ。久しぶりにあんな姿勢で寝たせいだろうか。もしあの時の自分にこんな安息の空間があったなら……。
いや、すべては過去のことだ。あれは終わった。そうだろ盗賊。
「それで、お仕事の方はいかがでしたか?」
シノホルンが台所へと向かいながら聞いてくる。
「仕事?」
「はい……。その……。夜の方の」
少し声を潜めて。どこか秘密めいた顔で。
夜の方……そうか怪盗か。
彼女は俺が怪盗としてまた何か活躍してきたと思っているのだ。秘密の共有はワクワクするものだ……が、聖職者がそれはちょっとまずいのでは。
「大きな問題はなく……。でも、今夜もまた出ていくことになりそうです」
「えっ、そうですか……」と少し残念そうした彼女は、すぐに「ではしっかりお昼寝をしてくださいね。準備はしておきますから」との献身的な言葉に切り替えてくれた。
本当にさぁ……。どうしてこんな聖人が禁呪を暴いたラスボスにまで悪化するんだ? 彼女を悲しませるヤツが地上に存在するなんて信じられねえよまったく……。
それから俺たちは二人で食事を済ませ、揃ってバニス村へと出た。
最初の船で持ち込んだ物資は、本隊が来るまでの繋ぎとしては十分だ。
村人たちはしっかりと朝食を取った後、イモを栽培しているという畑に出ていく。
イモは痩せた土地でも育つ野菜だが、それでも島民が餓えずに暮らすのは難しいらしい。すぐそばまで迫る森のせいで畑を広げられないからだ。かといって本土から食料を買い付ける金なんてないし、行商人もこんな何のうま味もない島に来るはずがない……。
何とかできないか。そう考えていた俺は、朝の炊き出しに使われていた食器が、どれもボロボロであったことをふと思い出した。
木でできた粗末なお椀だ。縁は欠け、ヒビ割れてスープがこぼれてしまうものもあった。
木の……器か。
「代官様、司祭様、我々はそろそろ流人の村へと行こうと思います」
「では、わたしたちも是非ご一緒に」
村長たちに続いて今日も罪人たちの村へ。
「ザイゴール、どうしました?」
入り口にさしかかったところで、シノホルンが呼びかけてきた。いつの間にか立ち止まっていた俺を心配してだ。
「いや、何でもない……」
昨日アンサーがいた場所に、もう彼はいなかった。三人一組という仲間によってどこかに運ばれたのだろう。
流人たちは埋葬すらされず、遺体は海に流される。体を包む布でさえ貴重品なので、森の大きな葉っぱで代用されるという。墓は立てられるが石を積んだだけの簡素な墓標だそうだ。
村の真ん中の共同炊事場で、俺たちは炊き出しの準備に入る。
ふらふらと集まってきた罪人たちに、今日が初めての参加となるシノホルンは少し怯んだ様子ではあったが、健気に笑顔を振りまいて食材を用意していた。
そして俺はと言うと――。
チャカポコとヒョウタンを叩いている。
シノホルンも罪人も村長たちも、何事かと俺を見た。しかし、何も言わず叩き続ける。
これは昨晩、お近づきの印にとヨハンがくれたものだ。
彼は言っていた。
――音楽はいつでもそこにあるべきだ。音をなくした人間は、飢えよりも荒んだ生活を送る――。
俺に、それに賛同する色彩豊かな感性があったわけではない。普通に音楽より食い物の方が大事だと思う。だが、昨日来てわかった。この村はあまりにも音に乏しかった。
まず人同士が話をしない。普通は囚人同士でもっと仲良くするものらしい。だがここは、明日すら定かではない最終流刑所。平時から食料は奪い合いで、助け合って共倒れするより、出し抜いてでも一人生き延びるのが先決。特に今はこんな状況だ。お互い敵も同然……。
そこに鳴り出した、チャカポコというすっとぼけた音。ヨハンが叩いていたリズムを真似ただけの簡単な演奏だが、誰もうるさいとは言わなかった。
「代官様、ちょっといいですかい?」
やがて意を決したように一人の流人が俺に話しかけてきた。彼が手のひらをこちらに向けるので、持っていたバチを渡す。
すると彼は、棒一本で軽快なリズムを生み出してみせた。
チャカポコには違いないのだが、リズムや強弱で、俺とは比べ物にならないほど多彩な音を作っていく。
「うめえもんだな。どうしたんだ、そりゃ?」
近くで聞いていた流人が問うのに対し、彼は照れくさそうに笑いながら、
「昔、短い間だったけど町の音楽団にいたんだ。そこで女を巡って団長と大ゲンカして、ボコボコにしてやったらこのザマよ。まさかあのデブが地元の貴族様と繋がってたとはな……」
「ハハハ……なんだおまえもデブにやられたか。おれが最後に財布をスッた相手もデブの貴族だったぜ……」
なんと、自然と会話が生まれていた。チャカポコに合わせて身を揺すっている者もいる。さっきまでは皆、飢えてぎらついた目をしていたが、今だけはそれが消えて失せ、人の貌に戻ったような気がする。
「いつも本当にありがとうよ」
「おれが生きてられるのは、あんたらのおかげだ」
配給に並ぶ流人たちの声は、昨日よりも柔らかだった。
食料が行き届いて余裕が出てきたのもあるかもしれない。だが俺は、このヒョウタンの――音楽の力が役に立ったような気がした。ノーミュージック、ノーライフ、か……。
俺の中で、一つの考えが形になろうとしていた。
「あらっ、ザイゴール。あの子は……」
食事が終わり、流人たちが畑の手伝いに出ようというところで、シノホルンが村のはずれに目を向ける。あれは……。
「ルーガだ」
野生化した老人たちの末裔。どっちかと言うとヨハンより彼女の方がよっぽど稀有な存在ではあったが、何をしているんだ?
流人たちの掘っ立て小屋をのぞき込んでは、何かを探している。
「おい、何だ? そこはオレんちだ」
そのうち流人の一人が彼女に話しかける。ルーガはまったく悪びれた様子もなく、
「誰も使ってない家はないのか」
「ああ? あっちは誰も住んでねえはずだが。どうすんだ?」
「お店を開くんだ」
店? 流人たちが途端にざわざわし始める。
「あっ、ヴァンサンカン。それから、だらしない尻のわりに結構やる女」
「だらしなくありません! ザイゴール!」
「シノホルン司祭、説明ゼロでわたしにお尻を向けるのはやめなさい……」
ルーガの方も俺たちに気づき、そこで事情を聞くことに。
「あっちの村は空き家がないから、ここからお店を始めることにする。たくさん服が売れて儲かったら、もっと大きなお店に引っ越すんだ」
妙に堅実な展望を語る彼女。服屋というルーガのあどけない夢を知らなかった島の人々は、これに戸惑うような顔を見合わせた。
「服ったって、そんなもんあるのかよ」
「あるぞ、ほら」
そう言って、ルーガは背負っていたカゴから箱を取り出してみせる。
そこには、バニス村や俺と交換した彼女の全財産とも呼べる衣類が入っていた。
「おまえら服ぼろぼろだから、新しいのほしいだろ」
「そりゃ、ほしいけどよ……。金なんか誰も持ってねえぞ」
「じゃあ、何か代わりになるものを持ってこい」
「おい、この上等なシャツは何だよ。すげえぞ。貴族でも着るのか」
「あっ、こら勝手に触るな。それは一番高い服だ。ちょっとやそっとじゃ交換しない」
言うまでもなく俺が渡したやつだ。いつ洗濯したかもわからない一張羅の人々の中では、輝くような白さを放っている。
「ルーガのことは皆、知っているのか?」
俺は囚人の一人にたずねてみた。
「へい。だいぶ前、この村を仕切ろうとする荒っぽい男がいたんですが……。そいつがその鬼っ子に、その、手を出そうとしたら、片手で捻り潰されたんでさぁ」
そりゃあ……。見た目はこうでもあの怪獣の娘だからな……。
「で、ビビったそいつは、こんな島にいられるかっつって海に飛び込んで、それきりです。ここいらは漁にもそう出れねぇほど海流が荒っぽいんで……」
当たり前だが、泳いで本土にたどり着けるような安い場所なら最終流刑所には選ばれない。自業自得とは言え、溺れて死ぬのはイヤだな……。
「ヴァンサンカン、島でほしいものが何でもあったら言え。また服と交換してやる」
ルーガが嬉々として言ってきた。彼女の基本的な仕入れ先は、俺だ。
「そうだな……」と俺は少し考え、「今はまだ未確定だが、今度大きな仕事を頼むかもしれない。その時はよろしくお願いする」
「……ああ! 任せろ!」
彼女は薄い胸をどんと叩いてみせた。
※
夜になった。
夜鳥たちがあちこちで鳴き声を交換し合うのを耳にしながら、俺は再びヨハンの砦を訪れていた。
「やあ、時間通りに来てくれたね」
ヨハンから教わった方法で窓から侵入し、彼をセーフルームから引っ張り出す。
ちなみに砦内部は一応確認済み。昼の内に殺し屋が忍び込み、ヨハンが出てくるのを待ち構えている可能性はゼロではない。
「ヨハン、君に一つ頼みごとがある」
「おや、この囚人から何か得られるものがあるかな?」
ホールのサロンルームにて、くつろぎの時間。俺は彼に昼間のことを打ち明けた。
「昨日もらったヒョウタンの楽器、流刑人たちに評判がよかった」
「へえ。まあ彼らの生活に音楽は無縁だろうからね。だいぶ耳も潤ったろう」
「あれは他にもあるだろうか」
「唸るほどあるよ。ほしければいくらでも持っていきたまえ。ここにあっても一人では楽団もできないしね」
「それから、他にもヒョウタンを使った道具があったりしないだろうか」
「ふむ、なかなか鼻が利くな。伊達に怪盗は名乗ってないか。手作りの器がある。そこにあるのがそうだ」
彼はあごで、サロンの隅っこに山積みされている器を指した。
「ずいぶんたくさん種類があるな」
「色んなヒョウタンが流れつくと言っただろう? 大きさによって用途を変えられる。あっちは酒、こっちはシチュー皿、そっちは水筒にいい」
「どれも綺麗な模様が入ってる。元からこうなのか?」
「まさか。僕が塗ったんだよ。異国情緒があっていいだろ? 僕もここの本で初めて知ったんだが、古い南方の文化らしい」
それを聞いて、俺は確証を得た気になった。
「ヨハン。その作り方、島の人たちに教えられないだろうか。流刑人たちにも」
「はあ……。僕はイヤだが、人の頭をしてれば覚えることは難しくなかったよ。教えたいなら、君がやりたまえ」
「そうする。わたしは世間にそう詳しい方じゃないが、こうした器は見たことがない。……売れそうな気がしないか?」
「へえ……。特産品にでもしようってのかい、代官」
ヨハンはニヤリと笑った。
「そうだ、ヒョウタンの工芸品を作る。材料を集めてこられる人物を知ってる。後は作り方さえ覚えられれば、本土で買ってもらえるかもしれない。島での自給自足が厳しいなら、あっちと取引するしかない。ちょうど最近、物好きで裕福な知り合いが大勢できた」
「面白い話だ。好きにすればいいさ。製法が書かれた本もあげよう。恐らくここの図書室に収められて以来、僕しか読んでないような寂しいやつだ。手垢にまみれてこそ本の本懐というものだろう」
「ありがとう、ヨハン」
「ただし、これは成功報酬だ。ケチくさいようだがとにかく僕を生き残らせてくれ。しくじったら、あの本の山の中からアホみたいに君一人で探せ」
彼はからからと笑った。その様子は好青年そのもので、ここにたった一人収監される危険人物とは思えなかった。しかしこれで、わずかながら見えた。島の生活を安定させる方法――。
砦のどこかで乾いた木の音が鳴ったのは、そんなタイミングだった。
鳴子の仕掛けが反応した。続けてホールの燭台の火が次々に消えていく。何者の姿も見えないのに。
「ただ者じゃないぞ、これは」
ヨハンがこんな状況でもソファーに寝そべったまま言う。パニックを起こさないのはありがたいが……襲撃者のこの気配の無さは一体……!?
「おいおい……」
その声はまるで、闇から降ってきたように俺の耳に届いた。
「どっかで見たことある変人がいると思ったが、本当におまえか?」
この、声……! まさか……!
タッという小さな足音は、あえて鳴らしたものだとわかった。
なぜならこいつは、まるで蛇のように音もなく相手に忍び寄り、気を抜くと目の前にいてもそれと気づかないほど異様な隠形の技を得意とする。
目の前の薄闇に、禍々しいシルエットが一つ、着地の際の低姿勢から立ち上がる。蛇が首をもたげた。
腕が長い。右腕だけが、手、一つ分。
「こんなところでまた会うとはなァ……怪盗貴族……!」
「バカな……」
アンサー……!
イチャイチャを入れると話が長くなるってそれ一番言われてるから




