第六十話 見知らぬ指令書
「ひぃぃ、痛い、痛い……」
翌朝、なかなか起きてこないシノホルンを見に行くと、ベッドの中で涙目でそううめいていた。
理由はただ一つ。
筋肉痛である。
昨日は夕方過ぎになってやっとバニス村まで到達。通常の登山であればギリギリアウトなタイムスケジュールだ。日中に行って帰ってこられない計画は組むべきではない。
それから屋敷に戻るなり泥のように眠ってしまった彼女だが、体力は若さで回復しても筋肉は絶賛、痛みと共に修復中だった。
首無しセルガイア像と戦った時も一緒に森に入っていたものの、昨日の山歩きはそれ以上にハードだった。これはさすがに仕方がないと思い、適当なスープを作って持ち込みのパンで看病してやる。
腕を動かすだけでも痛がるので、まさかの「あーん」で。
「あーん。モグモグ……ああ、幸せです……。盟主よ、筋肉の痛みを感謝します」
さすがの盟主も筋肉痛までは司っていないだろうよ。
さて、ベッドからかまってほしそうに見つめてくるシノホルンの視線を引き剥がし、俺の方は昨日に続いて村の視察だ。バスティーユから島の問題点をまるっと押さえてくるように言われている。王太后マリスミシェルに何かを問われた時のための予防線だが、俺はわりと本気でこの島の改善に取り組む気でいた。
準備のために一旦自室に戻ったところで――。
「あれ……?」
古びた簡素な机の上に、まぶしいほどに真っ白い封筒を見つける。
この島では木々の緑以外の色はどれもくすんでいる。昨日、俺たちを送ってくれた船長か誰かが置いていったものだろうか? どうして今朝気づかなかったのだろうと首を傾げつつ中を改めてみると、内容はたった一文。
『島でヨハンを探せ ――蛇より』
何だこれは? ヨハン? それに蛇だと……?
いや……! 蛇だけは何となくわかる。瞬間的に悪寒が走ったからだ。
その顔を想像すらしたくないが……王太后マリスミシェル。以前会った時に、蛇に気づくのもまた蛇とか、そんな不穏なことを言ってきていた。
その王太后からの手紙? ということは、これはまさか勅令状というやつでは……?
島に速攻で出発させられただけでなく、さらなる指示まで出されるのか。いや待て。もしかしてこっちが本命なんじゃないのか? そのためにわざわざ名指しで先に送り込まれた。
このあまりにも断片的な書き方。差し出し人の正体共々、他人には知られたくない意図がビンビンに感じられる。
俺は手紙を見つめたまま凍りついた。
え……えらいこっちゃ。これは秘密の任務というやつだ。無視は当然許されない。
ただ、この一文だけではどうしようもないのも確か。
探してどうしろとも書いてない。探すこと自体が目的? 遭難でもしてるとか?
あれこれ考えている内に、部屋の窓から見えていた村の朝餉の煙も消えた。そろそろ頃合いだ。悩んでいてもわかることなど何もない。俺は一旦手紙を机に仕舞い、村を訪ねることにした。
「ああ、御代官様! ようこそいらっしゃいました!」
村長以下、村の女性や子供たちがこぞって俺にお礼を言いに来た。男の姿がないのは、この時間帯はもう皆畑に出ているからだろう。さっき、道具を持って村の反対側から出ていく彼らの姿を見た。
昨日の村人たちは本当に悲愴な顔をしていた。だが今は、やつれてはいるものの表情は明るい。船長たちが置いていってくれた食料のおかげだ。やはり飢えはすべてに勝る人の悪だ。
「代官様、司祭様は……?」
ふと、手作りらしき聖印を握った信心深そうな女性が聞いてきた。支援物資と共に現れた彼女は、早くもここに聖女の印象を根づかせたようだ。
「昨日の山歩きが少し堪えたようで、屋敷で休んでいます。ただの筋肉痛なのでご心配なく」
俺の回答に人々からは「お可哀想に」とか「お労しい」などの同情的な言葉が行き交う。まあ本人は、めちゃくちゃ幸せそうにパンを食べてたがね……。
「代官様も無理をなさらぬよう……。船旅での疲れと合わせてか、眼にひどいクマができておるようです」
「いやこれは。これが普通で……」
「ご冗談を。我々でもそんなクマはありませんぞ」
「きっとおれらを気遣って……。なんていい人なんだ……」
無駄に誉めそやされる俺。反感を抱かれぬよう簡素な格好までしてきたのに、この顔が一番共感を得たぞバスティーユ。
「やはり鬼の子などについていくべきではなかったのだ」
そんな中、ふと棘のある言葉を聞いて、俺は思わず言い返してしまった。
「いえ、ルーガは非常に親切でした」
村人たちの表情が戸惑いへと変じる。
「よそ者のわたしが言えることではないでしょうが、彼女は純粋です。島の歴史に色々あったことは知っていますが、どうかあの子とは仲良くしてやってほしい」
困ったように顔を見合わせる村長たち。かつて村が追いだした人々の子孫。そしてその親というか一族は、確かに鬼と呼ぶに相応しいゴリラと化している。壁を除くのは容易ではない。
それでも……彼女が村に降りてきて小さな服屋を始めた時のことを思うと、どうしても仲を取り持っておきたかった。誰もが恐れて近づけないなんて、きっと彼女は悲しむだろう……。
「村長、準備ができた」
何とも言えない空気が滞留した場所に、野太い声が放り込まれてきた。
カゴを背負った大柄の男が二人。村の入り口側で手を振っている。
「何か始まるのですか?」と俺がたずねると、村長は「流刑人たちへの炊き出しです」との返答。その場にいた女性たち数名も手伝いに向かうそうで、代官としてご一緒させてもらうことにする。
ヨハンという名前について聞きたかったが……まあ今日はいくらでも時間があるし、後でもいいだろう。
※
山に向かって少し歩いたところにある“流人村”は、バニス村よりもさらに貧しい土地だった。
ルーガのツリーハウスをそのまま地面に下ろしたようなもの。いや、もっとひどいかもしれない。屋根も藁束を乗せているだけ。しかも交換のタイミングなんかとっくに過ぎてボロボロだ。
王国で流刑となる人間は、極刑には及ばないが同じ社会には置いておけない者ばかりとなる。理念としては死刑と大差ない。この世からオサラバさせるか、共同体からオサラバさせるかの違い。
彼らからしても、ここは世界の果てなのだろう。
流人村には諦めというか無情というか、一切の活力が失われた、淀んだ静けさが蔓延していた。
「ありがてぇ……」
「助かったぜ……」
薄汚れた器を持って集まった流刑人たちは、かすれるような声で感謝を口にした。髪もヒゲも伸び放題で、遭難者と大差ない者ばかり。着ているものも昨日のルーガと大差ない。
「あんた、新しい代官か?」
配膳台に立ってスープを配る中、流刑人は俺によくそうたずねてきた。そして決まって付け加えるのが「何でも言ってくれ。手伝うぜ」の一言。
村長曰く、これは俺に気に入られて、あわよくば本土へ連れ帰ってもらいたいという彼らの最後の希望だという。
この島に送られてきたばかりの頃はまだ壮健で太々しく振る舞っていた彼らも、一月も生き延びれば、人間の弱さ、己の立場の弱さを理解し、こうなっていくのだそうだ。
わざわざ船に乗せられ島流しという大袈裟な罰を下される以上、囚人たちはそれなりに発展した土地の出身だ。手を伸ばせば何かしらある町の暮らしと違って、島にはモノそのものがない。
豊かな自然もすべてが恵みになるわけではない。安易な一口が容易く毒になる。孤立、断絶、叩き潰された蚊と同じくらいしかない命の儚さ、そうして誰も生きることに無気力になっていく。
「女性はいないのですか?」
俺は配給を手伝いながら、気づいたことを村長にたずねていた。
見える範囲にいる流刑人は皆、男だ。
「今はおりませんが、いたとしたら我らの村での預かりとなります。ここに女性がいたらどうなるかわかりませんし、もし若ければ島の者とも結婚できますしな」
なるほど、そういう扱いになるか。もし違う歴史のアークエンデが島流しにされていたとしても、この最悪の環境だけは免れたか……。
飢えと無気力に支配された村を改めて見回した俺は、ふと、壁にもたれるようにして座っている人物に目を留めた。
「……? あれは?」
彼は手足を投げ出し、全然動いていないように見える。配給の呼びかけはしっかり村中にしたはずだが……。
「ああ……では刑期を終えた者でしょう」
事情を察した村長の口振りには、それまでとは違う、どこか厳かで憐れむような態度があった。
流刑人の刑期は、特別な恩赦がない限り無期だ。その終わりということはつまり……。
「我々が手を出すことはございません。流人村では三人一組のグループで生活しており、他二人がそれに対処します。ああしかし、折を見てお祈りだけでも司祭様にお願いできますでしょうか。せめて最後だけは人として葬ってやらないと。それと、名簿にも記録しておかないと……」
「名簿?」
と、ここで脳裏に例の指令書が急浮上した。
「名簿があるのですか? 囚人の分も?」
「ございます。人の変動については、領主様が国にお伝えしなければなりませんので。我々はその手伝いです」
特に嫌味もなく響いたのは、彼が、俺を極めて瞬間的な臨時の代官だと知っていたからだろう。こんな基本的な業務を知らなくても無理はないと。しかし、それよりも今は。
「だったらヨハンという者がこの島にいませんか? 村人でも囚人でもいいのですが」
「ヨハン? はて……」
村長は首を傾げ、配給係の村人たちにも同じ質問を配った。だが、皆一様に首を否定に振る。村人でも流刑人でもない。いくらなんでもルーガの一族ってことはあるまい。さすがの王太后様でもアレの存在を知ったらたまげると思うよ。
だがこれで、あの指令は完全に遂行不能になってしまった。
この島にヨハンはいない。
扱いの悪い流刑人たちでさえ、この場所にとどまるしか生きる道はないのだ。他の場所にいるとは思えない。
ヨハンはいない。それが任務の結論……でいいのか?
※
役目を終え、俺たちはバニス村へと戻ることになった。
配給は日に二回。夕方また来るという。その時も同行しようか、どうか。そう考えつつ、あの刑期を終えた流刑人のそばを通った時だった。
「……!?!?!?」
俺はその事実に気づいて、危うく声を上げそうになった。
その男は、他の流刑人と変わらないみすぼらしい格好をしていた。
それ自体が終の棲家のようなフード付きの外套。ボロのシャツとズボン。だが、俺の目が釘で打ち付けられたみたいに固定されたのは――男の右腕だ。
長い。左腕よりも明らかに。
そして親指と人差し指が欠損していた。包帯が巻かれていて全体像は見えないが、形でわかる。ない。
こ、こいつ……!?
アンサーか!?
俺はかつてウエンジット鋼騎士領で、公女二人を誘拐した元レンジャー兵のことを即座に思い出していた。
鋭い眼差しに、二色に別れた奇妙な瞳。一兵士と呼ぶにはあまりにも特徴的で異質だったその男は、裏切り者を追ってきたもう一人のレンジャー兵サイレンスによって、工作員としての機能を完全に殺された……。
そのアンサーがここで死んでいる……。そんなことがあるのだろうか。
……あるのかも、しれない……。イヤな敵だったが、悪の華でもあった。誘拐犯一味に一目置かれ、その手際も鮮やかの一言だった。それが敗北を契機に転落し、追放され、こんなところでみすぼらしく死ぬ……! そんな無慈悲な急転直下がこの世界にはきっと溢れてる。アークエンデが破滅に転げ落ちていったように……!
「どうかなさいましたか、代官様」
知らず立ち尽くしていた俺に、村長が気遣うようにたずねてくる。
「あまりお気になさいませんよう。ここではよくあることですから……」
「あ、ありがとう。大丈夫です。行きましょう……」
……俺には関わりのないことだ。
ましてや敵だった男。憐れむ必要さえない。だがここで会えたことだけは、覚えていられるうちは覚えておいてやろうと思う。それが死者へ唯一できる手向けだと思った。
そうしてバニス村に戻ってくると、村の真ん中であぐらをかいている人物がいた。周囲には、遠巻きに困り果てた視線を向ける人々の姿。
「ヴァンサンカン、待ってた」
俺を見るなり嬉しそうに声をかけてきたのは、鬼の子ルーガだ。
地面に置いたカゴには、昨日と同じく薪や山で仕留めた獲物が入っている。
「服、交換しよう」
そんなことを言ってくる。
「あの娘と約束を?」と村長が小声で聞いてくるのに対し、つい「いや、そういうわけでは……」と本音を漏らしてしまったものの、彼女との良好な関係を築くためには有効な一歩かもしれない。夢にも協力したかったし、悪くない。
「わかった、交換しようルーガ。今日はズボンでいいかな。カゴの中のそれは村人たちに渡してあげてくれ」
彼女の属するコミュニティは、島の半分以上を占める山を自由に駆け回れる。島民が近づけないような場所も余裕だ。バニス村の環境改善のヒントもきっとそこにある。
俺が適当なズボンを持ってくると、ルーガはそれに頬ずりして喜んだ。
「あれ? そういえば昨日渡した服はどうした?」
今のルーガは、前ほどではないが粗末な服装に戻っている。べ、別に野性少女の裸ワイシャツが見たかったわけじゃない。ただ気になっただけ。
で、彼女からの答えだが「あれはお店の服だから、汚れないように仕舞った」とのこと。ツリーハウスで見せてくれた、あの大事そうにしていた箱の中だろう。彼女の宝物に加えられたみたいで少し嬉しかった。
「あの、だらしない尻だけど頑張るヤツはどうした?」
「シノホルン司祭は筋肉痛で寝ているよ。まあそれ自体は健康な証だ」
「ははっ、じゃあまた村に遊びにこれるな。ああ、そうだヴァンサンカン。昨日の帰り道、おまえが見ていたあの大きな建物」
「うん? あの放棄された砦か?」
「うん。あそこな、わたしが村に帰る時、明かりがついてたぞ」
…………なに?
問題しか起こらない中、シノホルンさんは幸せを噛みしめていた……!




