第五十話 騎翅の志
乾坤一擲の奇襲の道がある。先頭を飛ぶベルゼヴィータがそのことにわずかな笑みを浮かべた直後、警戒していた少数の楔がこちらに向かって急遽飛来してきた。
「邪魔よ!!」
ベルゼヴィータが吠えて手をかざす。
「“さんざめけ蟋蟀の羽! その名にし負う『激昂音壊!』”」
突き出した腕を振り払った直後、空間が変形するのを俺は直視した。
数体の楔が一斉に爆砕する。わずかに肌へとかぶさる不可解な微震。
振動――これはグノーが使っているのと同じ力だ。
「伯爵!!」
オーメルンの声が飛んだ。はっとなって視野を広げれば、こちらに向かって楔が飛んできている。単体のハエ叩き如きどうということはないと、十分な余裕をもって騎翅がそれをかわしてくれる。
「この野郎……! やれるか!?」
飛び去る楔めがけ、俺は腕をめいっぱい伸ばして不可視の糸を飛ばした。
糸は凄まじい勢いで楔を巻き取り、躊躇なき直進をわずかに揺らがせるに至る。これは、いける!
「どおっ……りゃああああ!」
俺は気合を込めて腕を振った。騎翅もそれに合わせて飛行角度を変えてくれる。
豪快な煉界の楔一本釣り! さらにそれを振り回し、別の楔へと激突させる。
成功だ。これぞ一石二鳥!
「やった……俺も成長したもんだ」
囮としてついてきたようなものだが、これなら護衛の役も最後まで務められそうだ。
「よっ、ほっ、それ!」
そんな俺の小さな自画自賛の横を、小さな影が通り抜けていく。
ソラだ。
なんと彼女は、俺たちの騎翅と楔を交互に飛び移りながら、次々に敵を切り落としていっている。
「ハゲ言ってたよ! 鳥を踏めば、人も空で戦えるって!」
そのハゲも実践するソラももう何者なんだよ! 将来出会うであろう『3』の眼鏡主人公ちゃんは震えて待て!
だがさすがに危なっかしい。オーメルンが騎翅を操ってフォローしてやっているが、いつ空を踏み外すかと気が気ではない。
「命綱を巻く! これを使え!」
俺はソラと騎翅を糸で結んでやった。彼女は喜んで、もっとひどい動きをし始めた。
どうしてそういうことするの。
こうして俺たちは、わずかに残っていた護衛の楔も蹴散らして進んでいった。
だが……おかしい。奇襲への道のりを半分ほど消化したところで俺はそれに気づいた。
倒しても倒しても、数が減らないどころか逆に増えている気すらする。
小細工の俺はともかく、ベルゼヴィータとアークエンデの二台巨砲が、相当の数を撃ち落としているはずなのに。
「……みんな……!」
ベルゼヴィータが歯を食いしばって空の高みへと視線を投げた時、俺はその理由を知った。
囮となったベルゼブブ本隊が押されている。
負傷して激戦域から離れていくハエたちがたくさんいる。そして本隊が縮小した分、護衛の楔がこちらに向かってきているという寸法だ。
やがてもっとも恐れていたことが起こった。
煉界船の砲撃が、俺たちにも向き始めたのだ。
俺たちにあてがわれた騎翅たちは、軍勢の中でも特に俊敏な駿馬。やすやすと撃たれはしない。しかし、避けた先には楔が待ち構えていて……。やむなく前進を一時滞らせる。まずい、前に進めなくなってきている……!
しかもこちらの不穏な動きに気づいたか、煉界船が回頭を始めた。こちらにケツを向け、目指す船首左船底が遠ざかっていく。
「小癪な真似を……!!」
このまま時間を稼がれれば、俺たちは完全に包囲される。
「ベルゼヴィータ! どうする、撤退か!?」
思わずそう叫んでいた。逃げれば次があると思って。だが。
「ダメよ! 網で逃げ道は塞がれてる! それにギリギリまで下がったところで立て直す余裕はない!」
軍勢もグノーもボロボロだ。ここで踏ん張らなければ先はない。
だが、彼女がそう叫んだ直後。煉界船からの薙ぎ払う光線が、虚空を焼き切りながら彼女とアークエンデを乗せた騎翅へと迫った。
周囲は楔に囲まれている。逃げ場がない!
「しまった!! アークエンデ――」
俺が絶叫しかけた、その時。
黒い風が吹き抜け、二人の前に壁を作った。
「!!」
盾となって光の刃で切り裂かれたのは……傷だらけのハエたちだった。
負傷して一旦後退したはずの。
「みんな……どうして!?」
ベルゼヴィータが悲痛な叫び声を上げる間にも、続く二撃目が来る。しかしそれも騎翅たちが総身で受ける。羽がちぎれ、脚が飛ぶ。体液が血煙となって大気と混じり合う――。
「やめて、みんな! 生きていれば自由になれるのよ! すぐそこに、自由が……!」
隠れてさえいれば。仲間が勝ってくれるのを信じて待っていれば。
しかし、彼らはそうしなかった。
ベルゼヴィータの前に次々に飛来し、我が身で攻撃を受けた。
楔に貫かれ、煉界船の刃に切り刻まれて。そうして落ちていく。
すべてを使い果たして。
なぜ、そうした。
死の使命はもうない。これは生き残るための戦場なのに。
わかっている。そこにベルゼヴィータがいるからだ。
彼女を守っている。共に生き、共に死ぬと誓った彼女を。
これは命令ではない。彼らの志。
もはや自分たちに戦う力はない。だが体を盾にすることはできる。そうして務めを果たす。――いや、信念をだ。
そして――。
ヴォオオオオオオオオオオオオ…………!!!!
特大の轟音が来た。
「グノー!!」
グノーも……満身創痍だった。
翅はズタボロ。巨大な複眼には膨大な数の楔が突き刺さっていて、どこまで見えているかもわからない。胴体からは体液が滝のように溢れている。まさに悲壮……!
「ああ、やめて……グノー!」
主人の懇願を、王は最後に無視した。
ゆっくりと、あえて姿を見せつけるように、煉界船へと向かっていく。
すべての楔、すべての火線が、彼に集中した。一瞬にして傷のない場所などどこにもなくなった。
それでもなお彼は進み続けた。
俺たちの道を押し開きながら。
そして――。
ずん、と、世界中の空を揺るがすような轟雷の音を立てて、煉界船に激突する。
煉界船自体が激しく傾き、震えた。
その衝撃たるや、船から絶え間なく放たれていた光線の刃が一時途絶えたほどだ。
しかしその一撃の代償は大きかった。
グノーが……沈む……!!
もはや飛ぶ力さえなく、巨大なハエの王が空の底へと沈んでいく。あの偉大な者が。壮大な戦士が。
だがその時にさえ、彼への攻撃は止まなかった。動くこともままならない巨躯に、楔が次々に突き刺さっていく。ありとあらゆる破壊が、彼にトドメを刺しにかかっている。
そう。最後の最後に……彼はすべての敵を引き連れていった。
空は晴れ渡っている。真昼の星まで見通せそうなほどに。
「……エンデ……!」
ベルゼヴィータが友の名を呼んだ。唇は噛み破れて血を流し、その目は涙に濡れていた。
「ベルゼ!」
アークエンデも涙を拭ってそれに応えた。
「これで決める。力を貸して!」
「もちろんですわ!」
二人を乗せた騎翅が、箱舟の下腹へと突入する。
砲撃も船の真下までは届かない。完全に死角に入った!
「“震撼せよ蟷螂の刃! 我が前に立ちふさがるすべてを斬れ! その名にし負う『百花両断』”!」
「“なれば罪を洗う一筋の刃となろう。しかして血と共にすべてを流せ。赦されし汝の名は『深煉一刀裁!』”」
二人は肩を寄せ合い、高々と手を掲げた。
そこから生まれる赤と緑の魔力の剣。それらは螺旋を描きながら混ざり合い、伝説をも切り裂く巨大な刃へと姿を変える。
『いっけええええええええ!!』
俺たちは叫んだ。とにかく、叫んだ。
二人を乗せた騎翅が空を駆ける。
太陽の黄色と化した巨剣が、煉界船の底に触れた。
砕け散る木材。ぼろぼろと剥がれ落ちていく死者たちの爪。
悲鳴、憤怒、悲哀、それら絶叫をすべて怒りと悲しみで焼き尽くしながら、二人は船首へと至る道を切り開いた。
もはや、神話の光景だった。
巨神と見まごうハエの王すら沈む戦場で、たった二人の少女が箱船を切り裂くのだ。
そしてその二人の剣は、ついに船首までを斬り抜けた。
ここまで来たら、もう弱点とかそういうレベルじゃない。左舷側の船底に大穴が空いたのだ。海の上ならば即座に轟沈している。
……だが、様子がおかしい。
何も起こらないのだ。
過去の戦闘記録によれば、初見の者でも手応えありとわかるほどの劇的な反応があった。
それがない。
まさか、すでに弱点を克服して……?
しかし、今さらその程度で動じる魔王二人ではなかった。
すぐさま騎首を返すと、自分たちの手で切り開いた穴へと突入していく。一瞬の躊躇いもなし。あの動き、完全に敵の息の根を止めるつもりだ……。
「俺たちも行くぞオーメルン! ソラ!」
「おうよ!」
「行こう!」
俺たちも彼女らを追って煉界船内部へと侵入した――。




