第四十三話 闇の羽音が止んだ
最後の、挨拶?
ベルゼヴィータの言葉の内容を掴むより早く、俺は彼女の姿を目で探していた。
いた。闇夜を切り取ったように真っ黒な影の上に、座る彼女を見つける。
彼女はまるで宙に浮く玉座のような椅子に腰かけ、俺を見下ろしていた。
――そこでまた思考が止まった。
彼女の下にいるのはハエだった。民家の大きさにも匹敵する超巨大なハエ。
その頭部、王冠にも似た玉座の上に、ベルゼヴィータは悠然と座していたのだ。
赤い月と見間違えた巨大な球体はこのハエの複眼だった。そして周囲を取り巻く赤い星々も、すべてハエの目だ。
見たこともないモンスターの軍勢と、ヴァンサンカン屋敷は対峙している――。
「ベルゼヴィータ、これは一体……!?」
羽音による轟音と暴風の中、張り上げた声は、なぜか彼女には届いたらしい。
「お昼ぶりね、伯爵さん。エンデはいるかしら?」
「アークエンデは……」と答えかけて一瞬ためらう。だがすぐに正直に伝えることにした。彼女のどことなく寂しげな声に、こちらに危害を加えるような気配は一切感じられなかったのだ。
「家の者たちと町の教会へ手伝いに行っている。今夜はあちらに泊まっているはずだ。でなければ、この騒ぎに真っ先に飛び出してきているだろう」
「そう……」
雲霞の如きハエたちが生み出す闇の中、彼女が消沈したように目を伏せる。
「教えてくれベルゼヴィータ、これは一体何の騒ぎなんだ? お別れとは?」
「そのまま、これで最後ということよ。伯爵さん」
「最後……?」
「これより我らベルゼブブの軍勢、山の北西部に現れた“煉界船”への特攻をかける。誰一人、生きて帰ることはないでしょう」
「なっ……なんだと……!?」
特攻? 煉界船? 生きて帰ることはない!!?
俺の頭は混乱の上塗りだった。
「ま、待ってくれ、そんな……突然すぎる! 子供たちと昼間に再会したばかりじゃないか……!」
「お別れのつもりだったの。わたしがこの世界でした、たった一つの人助けだったから。こうしてまた来てしまったのは、我ながら未練がましいと思うけれど」
ベルゼヴィータは自嘲しつつも、その表情にはすでに一つの覚悟が見て取れた。行き止まりの、悲壮な。
「気に病むことはないわ。これはずっと前から決まってきたこと。わたしたちは今日死ぬために今まで生きてきたのだから」
わたしたち。それはこのハエの軍勢を指しているのか。これが……全滅する? 一つの領くらい平らげてしまいそうな、この戦力が? それほどの戦いが、これから起こるのか……?
「そんな、それは……」
よく回る盗賊の口ですら言葉が続かない。あまりにも、超常的な現象すぎる。
北の山には魔竜ニーズヘッグだけでなく、深族とこんなハエの大群が潜んでいて……さらには煉界船? そんな訳のわからない存在まで隠れていた?
これを即座に理解するには、俺はあまりにも……物語の外側すぎた。
人間のまったくあずかり知らぬところで、彼女たちの物語はずっと進行していた。そう思わせる重みが目の前の光景と、ベルゼヴィータにはある。
今日死ぬために生きてきた、覚悟を秘めた眼差し。そのクライマックス直前に現れた人間のモブに、今さら何が言える……。
「どうか晴れやかに見送って。第466代〈死食の女王〉ベルゼヴィータの最初で最後の出陣よ。この戦いが“無事”終われば、この名も誰かに継承されることでしょう……」
……………………なに?
「……誰かとは、誰だ?」
俺は自分でも驚くほどすんなりとその質問を口にしていた。
それが意外な問いかけだったのか、ベルゼヴィータは小首を傾げ、
「さあ? 特別力の強い者が選ばれると思うわ。何の前触れもなく、運命のように唐突に。わたしのように――」
「――絶対ダメだあっ!!」
どこから出たかもわからない大声で、俺は叫んでいた。
「ダメだダメだダメだ、絶対征くな、ベルゼヴィータ!!」
「……何? いきなりどうしたの?」
目をぱちくりさせるベルゼヴィータ。
「生きて帰れる見込みもない戦いに、君を向かわせるわけにはいかない! お願いだ、行かないでくれベルゼヴィータ! 俺には君が必要なんだ!」
「何を唐突に……わたしと初めて会ったのはついさっきよ?」
「時間なんか関係ない! いや、あの瞬間から、俺の運命は決まったようなものなんだ! 君を! 絶対に失わせない! 俺はそのために生まれてきた!」
「! こ、困るわ。そんな急に……」
困るのはこっちだ!!
もしもこのままベルゼヴィータが命を落としたら、現時点で恐らく人類最高峰の魔力を持つアークエンデに〈死食の女王〉が継承されかねない。種族が違うのにアリなの? と思うだろうが、正史で継承してるんだから「あった」とか言いようがない!
そして、何を物分かりのいいモブのフリをしてる。忘れてはいけない。なによりも彼女は俺たち一家の命の恩人じゃないか。誰か一人のではなく、全員のだ。その恩人が死にに行くのに、たとえ無意味だろうと止めないヤツがあるか!
「頼む、ベルゼ! ここに残ってくれ! その戦い、何か別の方法を考えよう! 俺も協力するから!」
「……!」
彼女の表情が、何かの感情に触れたことを表していた。
俺は咄嗟に、地雷を踏んだと思った。凛然とした声が返る。
「いいえ。あなたを巻き込むわけにはいかないわ、伯爵さん。せっかく助かった命、あの子たちのために使ってあげて。あなたにもしものことがあれば、わたしが為したたった一つの善行も無意味になる」
この期に及んでアークエンデとオーメルンを気遣うのか……!
ベルゼヴィータにとって、あの二人はそれほどに大切なのだ。
深い交流があったのではないかもしれない。だが……そう時間なんて関係ない。
今日戦って死ぬために生きてきた彼女に、あの子たちは友達として映っている。それを最後まで守ろうとしてくれている。こんなんじゃ……なおさら行かせられねえだろ、人として。あの子たちの親として!
「聞いてくれベルゼ! 俺は……知っているかもしれない!」
「何を……?」
すでに彼女の興味関心は俺から離れかけている。この先、何を言われても心揺れることはない。そういう目つきをしている。しかしこれは無視できない、なぜなら、
「煉界船との戦い方を!」
「!!」
ベルゼヴィータの紅い目が、今度こそはっきりと見開かれた。
「そんなはずはないわ。煉界船と長い間戦い続けてきたわたしたち一族でさえ、その正体はわかっていない。ただ古くからの言い伝えがあるだけ。記録を書き残すためだけについていった者たちも、誰一人として帰ってこなかった……」
そうだ。俺も知らない。しかし、俺には強い味方がいる。煉界症候群のやまとさん。彼女だ。
煉界船なんて名前からしてむしろ彼女がクルーの疑いまである!
思い出せ、絶対どっかで説明してたはずだ! だいたい、何となく聞いたことがあったんだよ煉界船って! りんかい線に名前似てるしさぁ!
「山奥で暮らす深族より、人間は広い範囲で暮らしてる。その分、手がかりもたくさんあるはずなんだ。ちょっと待ってくれ、今思い出す……」
記憶のファイルを辿るのだ、盗賊の明晰な頭脳!
こいつは俺より圧倒的に物覚えがいいので、ちょっと考えればすぐ思い出せるはず……!
あれはパート7? いや19? 33か? 船の話、船の話……。
『そういえば、この領地のダンジョンには隠しイベントの船の話が出てくるんですよねー』
ヒットオオオオオオ! 一件! これしかない!
これをもっと掘るんだ。シークバーセット、再生開始!
『でもこのイベント、フラグ立てに死ぬほど時間かかっちゃうので、今はやりませんねー。ストーリー進めまーす』
おいィィィィィィイイイイイイイイ!?
やまとさん? やまとお姉さん!? え、ウソ、やってなかった!?
ここでちょっと触れただけ? 俺が知ってると思ったのここまで?
「…………」
ベルゼヴィータとハエの軍勢が、じっと俺を見つめてくる。
俺は冷や汗をダラダラ流す。
星もまたたかない時間だけが過ぎていく。
「どうやら……ウソみたいね……」
落胆したような、侮蔑するような、そんな声。
ちっ、違う……。言い返したいが、どの道、ちゃんとした答えはあげられない。
本当にここまでのか? 俺が知っているのは……!
何か。他にないのか盗賊の記憶力! 検索0件。うるせえ! お願いだから何か思い出してくれ。頼むよお!!
「最後に……そうやって呼び止めてくれた人がいたことだけは、覚えておくわ」
「待て、待ってくれ……もう少しで思い出しそうだから……」
ダメだ、時間稼ぎもできない。俺の持つ情報は依然としてこれ一つ。
『そういえば、この領地のダンジョンには隠しイベントの船の話が出てくるんですよねー』
このセリフだけ。
ん……?
……ま、待てよ! ちょ待てよ!?
“この領地”“ダンジョン”……! そうだ、これは『クロニクル』をアルカナ勢力で進めている時のやまとさんのセリフだったはず!
つまりどこかの領地のダンジョンに、船に関する手がかりはある。
だとしたら思い出すのはやまとさんの言葉ではない。その時の配信画面だ!
思い出せ思い出せ。やまとさんのレイアウトは、左上の大枠がメイン画面、右にコメント欄。左下にやまとさんのキャラアバターがあって、下に本日のタイトル……。
あの時……あの画面では確か、仲間の武将がまだ少なくて……他勢力から引き抜いた不忠者ばかりを集めた……『アルカナと七人の裏切り者』みたいな地獄の集団で、みんなで盛り上がっていて……。
そうだ。序盤だから、画面も首都からそう遠くなくて。
右側に、アルカナ勢力と同盟を結ぶクレインハルトの〈ユングラード正統王国軍〉があって、ハイライトさているポイントに書かれていた文字は……!
!!!!!!!!!!!!!!!!
「――っ地下……図書館だっ!!」
たどり着いた。たどり着いたぞ、ウオオオオオオオオ!!!
わたしはやったんだああああああ!!!!
「地下図書館……?」
ベルゼヴィータが眉をひそめてたずねてくる。
思い出した。そしてあの時、画面に映ってた説明文も。
「この国のある場所に、一般には立ち入れない地下図書館がある。そこには“ある船”との戦いを書き記した資料も収められているんだ」
「……ウソよ。生還者は誰もいない。記録官ですら」
「ああ。でもその記録を、他の人に託せた人はいたのかもしれない。それがたまたま人間族で……だから深族には伝わらなかった。そういうこともあるかもしれないだろう?」
「…………」
ベルゼヴィータは迷いを見せた。
じっと俺を見つめながらも、赤い瞳の裏側に様々な思惑が駆け巡っているのがわかる。
俺は心からの言葉を投げかけた。
「頼む、ベルゼヴィータ。俺だけじゃない。アークエンデもオーメルンも、君に、この世界に生きていてほしいと思っている。また昼間のように、楽しくおしゃべりをしたいと思っている……! だからチャンスをくれ、俺たちに……! 君と一緒に生きる、チャンスを……!」
ぶわっ、と、突風が吹きつけた。
俺は部屋の中ほどまで押し戻される。咄嗟に、突き飛ばされたような気になった。その隙に彼女が去ってしまうような。
けれど次の瞬間、窓から黒い優美な風が、部屋の中へと舞い込んできた。
メリー・ポピンズみたいに黒い傘で宙を舞ってきたのは――。
「少しくらい攻撃を遅らせる猶予はあるでしょう。あの子たちの寂しそうな顔が最後の思い出なのは、ちょっと残念だしね。……お話を聞かせてくださる? 伯爵さん」
黒の令嬢。ベルゼヴィータ。
「ああ……。是非くつろいでいってくれ。歓迎するよ、お嬢さん」
体中から力が抜けつつ俺はどうにかそう言い、扉の方を見やった。
半開きになった扉の隙間からは、ホウキやフライパンで武装した寝間着姿のメイドさんたちが、恐る恐る顔をのぞかせている。
「その前に、お茶をいれてもらおうか。特別濃いやつを……」
これから、長い夜になりそうだから。
ヴァンサンカン伯爵、猛アタックに成功!




