第四十話 光の柱、迸り
「すっ、すごいですわ……!」
「まるで風みたいです」
公女二人を体の前と後ろにぶら下げて、ヴァンマーニュの黄色い屋根の連なりを駆け抜ける。
すでに無人地区を抜け人目も多い。当然、地上の方では大騒ぎだが、今は気にしていられない。
時間がだいぶかかってしまった。模擬テストはどうなった。パンネッタとカグヨの分を後回しにしてもらえているといいが、それでも終了時間より先は待ってもらえないだろう。
「そうですわ怪盗貴族様、首のおケガは?」
俺に抱きついているパンネッタがはっとした様子で言う。
「あら……? 傷がない……」
え? ない? そう言えば、途中から全然気にならなくなってた。アドレナリンやら何やらのせいかと思ったが、まさかこの短時間で治った? これも竜の血の効果か?
「ひょっとして、あの傷も敵を欺くためのフェイクでしたの?」
「さすがです!」
そんなふうに前と後ろから褒めちぎられつつも、
「しかし、怪盗貴族様には申し訳ないのですけれど、テストにはきっと間に合いませんわ……」
急にトーンを落とした声でパンネッタは言う。
「あたくしが迂闊だったのです。学校でお父様の姿を見た気がして……。それで、のこのことヤツらの手に」
アンサーが仕掛けた幻覚の香だ。やはりあれで誘い出されたか。
「お父様がこんなところに来るはずがないのに」
「君のお父上は、人狼公だったか」
「はい。お父様は公明正大なお方で、家族であったとしても特別扱いはしてくれません。当然のことです。上に立つ者は、すべての者を等しく看なければならない。領主は普通の人間ではないのです。太陽のように皆を照らし、稲妻のように悪を裁かなければ……」
「わらわも同じ幻を見せられました。お父上の……」
カグヨもしょげた声で重ねる。
あの香は嗅いだ人間の大切な過去を思い起こさせる効果があった。二人は尊敬する父親の姿を、この勝負の場で見出したのだ。直に見てほしかったのだろう。そして応援してほしかった。そこに付け込むとは卑劣な手口だ。そんな計画、頓挫して当然だ……。
何とか学校の近くまで帰ってきた。
正面から堂々と行くのは目立ちすぎるので、裏門で二人を降ろす。
「それでは、健闘を祈るよ。さらば!」
俺はシュバッと飛び去った。
「あっ、お待ちになって! ああ、行ってしまいましたわ……」
「そんなぁ……。名前も聞いていませんのに」
「二人とも、探したぞ!」
そしてシュバッと帰ってきた。
「伯爵様!?」
「はぁ、何で伯爵様がわらわたちを探してるんですか……?」
よし、バレてはいない。いないが……落差ひどいな。特にカグヨ。
「模擬テストはどうなりまして!?」
「わからない。とにかくグラウンドへ!」
校舎内を通り、三人で会場へと向かう。しかし、
「あっ……! しまったです……!」
廊下の途中でいきなりカグヨがそう叫び、立ち止まってしまった。
彼女が掴んでいるのは、自分の首に回されている魔封じの首輪だ。パンネッタもはっとして、
「これがあったらどのみちテストは受けられませんわ!」
「くっ、やっぱり外れないです!」
三人で悪戦苦闘するも、やはり無意味。ナイフで切るのは……危険だ。彼女たちを傷つける可能性がある。ここは一度会場のスタッフに相談して……どうしてこんなものをつけているか聞かれたら、回答には相当困るだろうが……。
そんな時だった。
何の変哲もない校舎内の空気が、なぜか一瞬でひりついた。
……!?
俺は廊下の先を見やった。
そこから一つの大きな影がやってきている。
普通に歩いているだけなのに、その一歩は廊下を沈ませるほどに重々しく、時間そのものに重圧がかかっているかのように、ゆっくりと見えた。
細かな刺繍の入った瀟洒なサーコート。防具というわけではないが、それでも堅牢に見えたのは、着込んでいる人間の分厚さそのもののせいだったと思う。
身長は190を超え、横幅もがっちりとした、岩のような偉丈夫。
しかし何より異質なのは……勇ましくも不気味な狼の仮面……!
「お父……様……?」
パンネッタがかすれた声を漏らした。
「なに……?」
あれが、人狼公……!?
パンネッタが目を擦る。だが俺にもカグヨにも見えている。今度は幻ではない……!
ゆったりと、しかし決して遅くはなく俺たちのところまで来ると、彼は静かに片膝をついた。山が身を屈めたようであった。
「お、お父様、あた、あたくしは……」
パンネッタが口ごもる。何かの釈明か。テストを抜け出したことへの? それともまんまと敵に誘拐されたこと? 騎士の世界で弱さは罪。パンネッタの唇が、言葉を失って結ばれる。
人狼公の手がそっと伸び、彼女は思わず首をすくめた。
しかし彼の手は、その頬をわずかに撫でると、魔封じの首輪へと向かった。
指先が首輪の一部を複雑になぞる。すると、その筆跡に合うように不思議な文様が浮かび上がり、そして首輪の拘束は一瞬で解けた。
「!」
続けてカグヨの首輪も取り除く。
これが、魔封じの首輪の正式な除去方法だったのか。そんなものまで知っているとは、さすがはウエンジットの長。この異形の見た目とは裏腹のスマートさだ……!
それから彼は、パンネッタが胸に差していた花をそっと抜き取った。
見れば、人狼公もまた彼女と同じところに同じ花を差していた。もしかするとパンネッタは、ずっと父親の真似をしていたのかもしれない。尊敬するその姿に少しでも近づきたくて。
彼は自分の花を抜き取り、呆然とするパンネッタの胸に差し直した。
彼女の髪を優しく撫で、重厚なバリトンで静かに言う。
「――恐怖によく耐えた。頑張ったな、パンネッタ」
「……!!」
ぶるっと震えたパンネッタの瞳から、みるみるうちに涙が溢れた。
「お父様、お父様っ……!」
肩を震わせ泣き出す彼女を、人狼公は優しく抱きしめた。彼女もまた父親に抱きついた。彼は娘を丸ごと覆い尽くすほど大きかった。
「あたくし、怖かった……怖かったですわ……!」
「よく見据えた。恐れを知る者こそ、真の騎士足り得る。だが……すまなかった」
そうだよな。平気なわけがない。いくら厳格な騎士で、政治家だとしても。子供が誘拐されたら。部下に任せずつい足を運んでしまったのがその証拠。
この人は、父親だ。
「ヴァンサンカン伯にも礼を言う。大事な娘が世話になった」
「いや、わたしは別に何も……」
そう言っても、彼の狼の仮面は俺を見続けていた。えぇ……これ、バレてんのか? 全部ぅ?
「――そろそろテストに戻るといい」
少しして、人狼公がパンネッタに告げた。その頃には落ち着きを取り戻していた彼女は、
「まだ、間に合いますでしょうか……?」
「先ほど再開したばかりだ。まだおまえの番も来ていない」
えっ、と俺たちは驚く。
「人狼公、それはどういうことでしょうか。雨はとっくに止んで、模擬は再開されたはずだ……」
「テスト用の装置に故障があった」
「故障……?」
「稀有なネズミが一匹、内部のもっとも重要でもっとも安価な部品を一つ、抜き取っていったらしい。機材のトラブルはよくあることだが、この例は初めて見る。すぐに新しいものを用意し、事なきを得た」
へえ……そりゃ珍しいネズミだぁ……。なんて思っていたら、なぜか人狼公が俺を見ている。何だ……?
……いや待て。ネズミがそんなもん取っていくわけない。誰かがやったのだ。しかし誰が?
もっとも重要でもっとも安価な部品……。この状況で、そんなものを狙い澄まして持っていけるのは……まさか、オーメルン!?
二人の時間稼ぎのために? 残った自分に何ができるかを最大限考えて!?
「フ……」
まるで称賛するような人狼公の小さな微笑みに、俺はある種の感動を覚えていた。オーメルンおまえ、人狼公を感心させたぞ……!
「よし、それではそろそろ行こうか。ここまで来て遅刻で減点なんてされたらもったいない」
俺が音頭を取ると、カグヨも、そしてパンネッタも父親から身を離してうなずいた。
「お父様、見ていてください。パンネッタは必ず良い成績を残してみせますの!」
人狼公は静かにうなずいた。それだけで、パンネッタはまぶしそうに目を細めた。
※
グラウンドへ出る。
装置のトラブルによる倦怠感がわずかに残っていた。この場の皆さんには申し訳ないが……間に合った!
「あっ、お父様! パンネッタにカグヨも!」
参加者たちの中にいたアークエンデが血相を変えて走ってくる。
「みんなどこに行ってましたの!? オーメルンは“いいから気をつけろ”しか言いませんし!」
「すまないアークエンデ。でももう済んだよ。さあ、三人で試験を受けておいで」
「は、はい……。と言っても、後は魔導出力の計測だけですけれど」
そう言って、彼女は人が大勢集まっている場所へと目を投じた。
大きな円柱型の装置がある。オーメルンが細工したのはあれか。
参加者が円柱の一部に両手をつき、意識を高めると、横にあるゲージが急上昇。やがてガラス部分に「B」という文字を浮かび上がらせた。
おおー! と沸くギャラリー。うん、これは何ともわかりやすい。
すぐにパンネッタが呼ばれた。おお、ギリギリセーフ!
彼女はこれまでの出来事など微塵も感じさせない力強い足取りで装置の前に立つと、胸に差してあった瑞々しい人狼公の花を手に取り、大切そうにその匂いを嗅いだ。
そして計測用のパネルに両手をつく。
魔力ゲージは前の参加者のラインを軽く乗り越えて上昇し、そして――。
「A判定! おお、これは将来有望じゃ……!」
試験監督の老魔導士すら驚く好成績。当然、地元民はやんややんやの大歓声。
そんな人々に、パンネッタは輝くような笑顔を振りまく。彼女の胸で、瑞々しい人狼公花が光っていた。
そのすぐ次にカグヨの出番となる。会場中からパンネッタのライバルと見なされていた彼女もまた――。
「これもA判定だ! さすがイルスターの姫だ!」
「パンネッタお嬢様の好敵手に相応しい!」
これにも人々は拍手喝采の大喜び。
よかった。彼女も事件のショックから立ち直り、本領を発揮できた。
装置のすぐそばで待機していたパンネッタと、二人で手を合わせて成果を讃えあっている。共に窮地を乗り越え、彼女たちの間には確かな友情が芽生えたのかもしれない。
そこからアークエンデまでは少し間が空いた。
以降の参加者たちの判定やCやDがほとんど。どうやらB以上は相当の傑物という評価らしい。
アークエンデは何と一番最後。それまでは、他人の成績を眺めながら待つしかない。
「伯爵様」
そんな時、真横から突然声をかけられた。
「あ――」
山高帽の若紳士――サイレンスだ……!
「無事だったのか」
「ええ、無論」
彼はいつものように唇を一切動かさずに答えた。
「けれど、謝らなければなりません。アンサーを取り逃がしました」
「……あの状況で逃げおおせたのか」
「ええ。彼も十年に一人の逸材と呼ばれた男ですので……。ただ、利き手の親指と人差し指を落としましたので、もはや工兵としては役に立たないでしょう」
そう言って、ジャケットの内側から布の包みを取り出してみせる。かすかに黒いものが滲んでいた。まさか、その中身は……。
「改めますか?」
「い、いや、やめておこう……」
利き手というと、ヤツが兄と呼んでいた右腕だろう。その一部を破壊した。恐ろしいほどに怒り狂いそうだが……それでも逃げを選んだのは、さすがか。
「本来なら伝える必要はなかったのですが、ここまで事が上手く運べたのは、あなたの働きに他なりません。感謝しますよ、伯爵」
かすかに動く気配。
「もう行くのか?」
「ええ。今回のこれも、よくある仕事の一つに過ぎませんので……」
公女の誘拐に、レンジャーの裏切り者の始末。このレベルの事件が、国の裏ではしょっちゅう起こっているとでも言うのか。一般市民が住んでいるこの場所のなんと明るいことか。それもこれも、闇を背負う人々がそれを懸命に抑え込んでくれているからなのかもしれない。
「最後に一つだけ。伯爵、ジャケットの汚れは払っておいた方がいいかと――」
「汚れ? どこだ?」
返事はなかった。サイレンスの姿はすでに消えていた。
行ったか……。
いやはや、何とも血生臭い結末になった。しかし、あちらの内輪のことだ。俺が関わることはもうないだろう。このことは心の奥にしまっておいて、今は日の当たる場所をありがたく享受しようか。
試験はいよいよアークエンデの番になった。彼女のパワーは、大トリを飾るに相応しいものになるだろう。
「アークエンデ、自分の力を出し切っておいで」
「はいお父様! ……あら? お父様、それは何ですの?」
「へ?」
力強く送り出したつもりが……彼女は逆に俺の方へと戻って来てしまった。
そして背伸びして触れてきたのは、ジャケットの胸のあたり。
「? どうしたんだ?」
「これは……」
彼女は指先についたものをじっと見つめている。じっと……。
「パンネッタが差している花の花粉ですわ……<〇><〇>」
「へえっ!?」
慌てて確かめる。ほ、本当だ。かすかに……こうしてじっくり見てようやく気付くレベルだけど黄色い花粉が。抱き上げていた時についたものだろう。
サイレンスが言っていたのはこれか? でも、俺でさえ気づかなかったのになんでアークエンデが気づく? それもあの距離から!
「お父様から、あの女のおしべの匂いがしますの……」
「なんて言い回しだ……理科のテストなら0点だぞ……」
係員の声が「アークエンデ・ヴァンサンカン! いないのか!」と催促してくる。俺は、花粉の匂いだ嗅いだまま硬直している彼女を、石像を押す気分でずずずと運んでいった。
何事かと集まる好奇の視線に、俺は荷物を置いてすぐに離脱する。
「さて、君で最後だ。魔力放出のコツはわかるかな?」
監督役の老魔導士が優しく彼女に語りかけた。
「そこのパネルに手を置き、故郷を思い浮かべるんだ。それは自分のルーツ。根源となるものだ。魔力もまた精神の故郷に存在する」
アークエンデは静かにそれに従った。
「故郷のお屋敷……お父様とわたくしの愛の巣……! ベキィ!<煉><〇>」
「次に、そこにいる人々を想う。君が力を振るいたいのは誰のためだ? 何のためだ? 強い理由こそが魔力を束ね操る原動力となる。誰を守りたい? 何を得たい?」
「誰のため……それはお父様……わたくしのすべてはお父様のため……! バキィ!Σ<煉><〇>」
「最後にその思いの丈を外に撃ち放つのだ。呪文はいらない。純粋な、君の思いを解き放て」
「お父様これはどういうことですのおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!??? ズギャン! LLΣ<煉><〇>」
メキメキメキ……!
「ホッ!?」
それまで温和に見つめていた老魔導士が椅子から飛び上がる。アークエンデの指は計測用のパネルの中にめり込み、その全体にヒビを走らせつつあった。
そしてついに現れてしまった刻印第四段階。魔力ゲージは凄まじい勢いで上限へと到達し、それでもまだ足りず、装置全体が異様な唸りを上げ始める。
ボッ!!
地面から光の柱が立ち上がる。装置の内側に流されていたアークエンデの魔力が、実体を持ち始めたようだった。
「はわわ!」
間近でそれを見た老魔導士だけでなく、ギャラリー全員が慌てふためく。
突如現れた光の柱は、測定装置全体を飲み込み始めた。
機械が軋む異様な音。台座から引き剥がされ、装置がゆっくりと柱の中へ浮かび上がる。
そして――引き裂かれるようにしながら天へと昇っていった。
誰もがそれをただ見上げ……そして異変に――柱がなおも肥大化し続けていることに気づく!
「いかん! 皆、退避じゃ、退避ー!!」
老魔導士の切羽詰まった号令がかかった瞬間、人々は脱兎のごとく逃げだした。何が起こっているのかはわからない。だが、ここにいてはいけないことは生まれる前から知っていた。
「逃げろおおおおおお!」
「みんな走って、走ってえええ!」
俺はパンネッタとカグヨの手を掴んで逃げた。隣にはターミネーターみたいに綺麗な姿勢で走るバスティーユの姿。やがてオーメルンもそこに加わり、
「伯爵! 何だこれ、どうなってんだ!?」
「アークエンデのパワーが限界を超えた……!」
「何やってんだよお嬢様!?」
「お、追いつかれますわ!」
「何ですかもおーっ! わらわも対抗して光りますよおーっ!!」
後ろから光の壁が容赦なく迫り、遅れて逃げていた人々を次々に呑み込んでいく。
そしてとうとう俺たちも――。
『ふんぎゃあああああああああああ!!』
……それは後に、〈模擬的な終焉の光〉と名づけられる、世紀の大事件であった……。
めでたしめでたしであった……。




