第三十九話 昼間の伯仲
「ガキ二人は傷つけるなと言われてるが、イカれたマスクの怪しい男を始末する分には問題ねぇだろ。なあグレゴワ」
まるで手品のようにアンサーの手の内側からナイフが現れた。飾り気のない、実用一辺倒の。
「怪盗貴族様、お気を付けて!」
「その男、ただ者ではありません! わらわたちもそいつにしてやられました!」
パンネッタとカグヨが応援でもするみたいに盛り立ててくる。
確かに、このレンジャーの男をどうにかしないと脱出は無理そうだ。
俺も一応身構えてはみるが……完全に徒手空拳。もちろん武術の心得はない。それっぽい姿勢なだけ。
「一応聞くけどよォ……どっちからやる?」
アンサーが突然、そんなことを聞いた。
どっちから……?
俺と公女たちのどっちを先に攻撃するか、と言ってるのか……?
しかしアンサーの目は俺たちではなく、ナイフを握る右手を向いていた。その片方だけ長い腕を振り子のように揺らす。人の腕とは思えない、まるで鞭のようなしなやかさ。
「そっか、そっかッ! そりゃそうだよな。ならアンタに譲るよ」
誰も何も答えていない。しかしアンサーは一人で納得し、ケラケラと笑った。
その直後!
「そらっ!」
アンサーが揺らしていた右腕を振るった。
遠い、と一瞬見た目に反し、俺の体は半歩後ろに下がっていた。直前までいた場所をナイフの銀光が水平に通り過ぎる。
「……!」
腕が伸びた……!?
いや違う。この男の右腕が体格に対して長いのだ。左腕が本来の長さで、まるで右腕だけ別人のもの。さらにそれが鞭のようにしなり、想像以上に伸びてくる。
「なかなかいいカンしてるじゃねえか。グレゴワがもっと遊びたいとさ!」
そこからアンサーの怒涛の連続攻撃が始まった。
本人はほとんどその場から動かないまま、右腕だけが毒蛇のように襲いかかってくる。
「く……!」
俺はそのすべてをギリギリのところでかわしていた。だが、わかる。これは遊ばれている。本気で詰める気なら体がもっと前に出てくるはずだ。
しかし、そんな態度に反してナイフの太刀筋は恐ろしく素直で整っている。本人の不真面目さとは真逆の態度。
「オラ、もっと部屋を好きに使えよ怪盗! ガキ二人をお代に取ったりしねぇからよ!」
まるで俺の立ち位置を動かすかのような、足元をすくう斬撃が来た。
軽く飛び上がってかわし、床を転がる。
しまった。公女二人から離れてしまった。だが、アンサーは宣言通り見向きもせずにこちらに向かってくる。俺は部屋中を跳ね回った。
「面白ェ、楽しいねえ! こういうどこにも属さねぇ天然物が、戦ってて一番ワクワクするぜ!」
大きく踏み込んでの刺突。まるで弾丸のように突き出されたナイフが、俺のすぐ後ろにあった壁を貫く。チャンス! 止まったところを掴み取ろうとするも、物凄い勢いで腕を引かれてしまった。こいつ……後にも先にも隙が無い。
「ずいぶん楽しそうだが戦いが好きなのかな、ムッシュ」
「ウィ、こんな壮大なゲームは他にねぇだろ? ここで終わるかもしれねぇ。だからこれまでのものを全部出す。最後に引きずり出てくるのは人生か? それとも望んでた未来? 何にせよそいつの集大成が、ぱっと現れて永遠に散る。オレもグレゴワもそいつを見るのが大好きなのさ」
「……さっきから何度もその名前を口にしているようだが、まさか右腕のことか?」
俺の質問にアンサーの口元が大きく歪んで笑った。
「そうさ。グレゴアはオレの兄貴だ。母親の腹ン中にいる時からずっと一緒さ」
「なに……?」
何だ? よくわからない。いや……わからなくていいのかもしれない。こいつは支離滅裂だ。態度は不真面目なのに技はひどく真面目。訳のわからないことを言ってくるのもその一環なのかもしれない。
だが、ここまで自分を好戦的と認めるなら、こっちにも手はある。
攻撃を回避しながら、俺は不可視の糸を置いた。アンサーが迫ってくるその直線上。通過した瞬間に絡み取る!
さあ来い!
直前。アンサーの軌道がずれた。糸が漂うポイントをモロにかわし、横合いからの攻撃に切り替える。
「!?」
「テメェ、今何かしただろ! 何をしたかはわかんねェが、仕掛けましたって気配が出てんぜぇ!」
こっ、こいつ……!
見えもしない罠に、俺の気配だけで反応したっていうのか。これがレンジャー兵の洞察力!?
まずい、ここで止める気でいたから後退が遅れた!
ナイフが飛ぶように迫ってくる。
「つうっ……!」
かろうじて避けたが、首筋に硬い熱が線を引いた。手で軽く押さえてみると、少量だが血が出ている。かすったらしい。
「へへッ、今のはよくかわしたな。後一センチで終わりだったのに惜しいなァ……!」
この男やはり……! 態度はチャラついているが、攻撃自体はひどく正確だ。どれも急所狙いで、今も頸動脈のみを切り裂きに来ていた。
模擬テスト会場の学校で見た、過不足ない完璧な仕事を思い出す。敵をみじん切りにする必要なんてない。わずか数センチの傷で大人の死体が一つ出来上がり……。
「怪盗貴族様、負けないでくださいまし!」
パンネッタたちからの必死の応援に、アンサーの鋭い目が笑った。
「ホラ、もっと頑張れとさ怪盗。やることあんなら生きてるうちになァ!」
迫るアンサー。逃げる俺。また室内で追いかけっこが始まる。
俺はいくつかのポイントに糸を張ったが、こいつはそのことごとくを避けてきた。俺がどれだけさりげなく仕掛けても、それを読み取った。もっと恐ろしいことに、一度警戒した場所に、こいつは二度と立ち入らなかった。
戦いの中でもこれまでの流れを完全に記憶し、守りを徹底しているのだ。
「ははッ! 上手ェ、上手ェ! こんだけグレゴアのナイフを避けたヤツは初めてだぜ!」
罠がある分、動きは制限される。なのにヤツの表情はあくまで楽しそうだ。
まるでゲームに課せられた時間制限。俺を仕留めるのが先か。部屋が罠で埋まるのが先か。そのルールを楽しんでいる。
変態だ。
こんな命のやり取りの何が楽しい。こいつ、自分が死ぬことも屁とも思ってないのか。
「そろそろオレが動ける場所もなくなってきたかァ……? じゃあいよいよ集大成といこうじゃねェか!」
ぬらりとアンサーが動いた。危険地帯をすべて避け、まるで蛇の蛇行のように接近してくる。
間合いに入られる前にヤツの進路を塞ぐ!
俺は右手を突き出した。これでチェック――!
「甘ェんだよ!!」
アンサーの長い腕が閃いた。
ナイフが凄まじい勢いで迫ってくる。狙いは――前に出ている俺の右手!
「ぐあっ!!」
動脈を掻き切られた!
背筋にかつてない怖気が駆け抜ける。アンサーの口元にも勝利を確信した笑みが浮かんだ。一瞬遅れて、俺の手首から滝のような出血が――。
ない。
「なに!?」
ここでグッと気合!
異変を察知したアンサーが後ろに跳ぶ。だが捕らえた! 次の瞬間、ヤツの右腕が胴体に押しつけられるようにしてラッピングされる。
「どういう……ことだァ……!?」
距離を空けて着地したアンサーが、苛立ちの見える目を向けてきた。
俺はジャケットの袖口をわずかに押し下げ、ナイフが直撃した箇所を確かめる。
そこには糸が何重にも巻き付けてあった。
切断されたものも多いが、ギリギリで皮膚には到達していない……!
「テメェ……自分に巻いてやがったのか……防御用に……!」
「そういうことだ」
とは言ったものの、思いついたのは本当に直前だった。
右手を突き出した瞬間、まるでギロチンの固定台に腕をはめ込んだような気分になったのだ。
お守りのような気分でガードに回した。ナイフの切れ味に耐えられるかどうかは賭けだったが……。
「完全に技が決まった瞬間なら、さすがのそちらも対応が遅れると思ってね」
「お見事じゃねェか……。その通りだよ。最後の瞬間、心底昂った。テメェみたいな珍獣から何が出てくるのかって」
アンサーは愉快そうに右腕に笑いかけた。この状況でだ。
「これで形勢逆転だ。わたしはこれ以上、人を傷つける手段は持っていない。このあたりでお開きにしたいが……?」
最後通牒のつもりで告げる。戦いに変なこだわりがあるような男だし、このゲームは負けということで諦めてくれ、頼む。
「そう言うなよ。まだ腕は一本残ってるだろ?」
これまで一度も使われなかった左手が、腰の後ろを探る。兄ではないヤツ本来の腕。確かこいつ、ポーチをぶら下げていたような――。
「お楽しみは、これから――」
左手で何かを放る。小瓶のようなもの。スローモーションで映る。
そうだ、こいつ、これまでレンジャーの道具を一つも使っていない。
ヤツには複数の道具を組み合わせて使う技術がある。あの小瓶にはどんな効果が――?
突然、その小瓶の影が掻き消えた。
横から何かに攫われて。
!?
箱だ。ルービックキューブくらいの小さな箱。それが突然部屋に投げ込まれ、小瓶を中に閉じ込めていった。そして部屋の隅に落ちた瞬間、小さな炸裂音を立てながら七転八倒を始める。
中に入っていたのは爆発物? いやそれより、この小箱は誰が……?
「――この仕事をしていて何が一番空しいって、苦労して育てた後輩を自分の手で始末すること以外にありますかねぇ」
声は何の緊張感も伴わずに、のんびりと落ちた。
俺たちが一斉に窓の脇に目を向けると、そこにはスーツと山高帽の紳士――!
「サイレンス……!」
アンサーが唸るように言った。
「やぁアンサー。探しましたよ」
のほほんと返す紳士……サイレンスというのか?
口調に反して気配は一切のんきではない。まるで抜身の刃。町中に突っ立っていたら、群衆が自然と二つに裂けていくほどの酷薄な空気。
そうだ。彼も凄腕のレンジャー……。
「レンジャーの“頸椎の掟”を破った者がどうなるか……覚悟はできているんでしょうね?」
「へへッ、なんのこったよ……」
アンサーは笑ってみせたが、その顔にはわずかな強張りがあった。
恐れているのか。彼を。
「我らの力は、秩序を守るからこそ行使を許されている。そうでなければ、いつどこででも争いの種を生み出すことができる……。“王の泥棒”にして“秩序の奴隷”。我らの力は高貴な義務と常にセットです」
「ならオレからも教えてやるよ、隊長サン。力ってのは権利とセットなんだぜ。力ある者は、それを使っていい。獅子が牙を使うことをためらうか? 鷹が爪と翼を使わないことが? この世を作りたもう完璧な神は言ってるのさ。力は使えって」
「獣のようなおまえには獣の道理も通るのでしょう。が、それなら服も道具も捨てて猿になってから言え。人間には人間のルールと蓄積がある。誰も一人では生きられない」
アンサーの暴悪な思想を、鉄のような秩序でねじ伏せるサイレンス。それは彼が初めて見せた兵としての冷厳さだった。アンサーの軽口もそれで止む。
サイレンスの顔が俺へと向いた。相変わらず目元は帽子で見えない。
「そこの変なマスクの民間人」
持ってきたのはそちらだが?
「すみませんが、そこのレディたちを安全な場所までお連れしていただけますか。この場は私が処理しますので」
「あ、ああ……。そうさせてもらおう」
俺はアンサーに警戒しつつ、パンネッタとカグヨのところへ移動した。アンサーはサイレンスをにらんだまま、もうこちらに見向きもしなかった。
「怪盗貴族様、お見事でしたわ!」
「素晴らしいご活躍でした!」
きゃあきゃあと褒めちぎられる怪盗貴族。卑怯者呼ばわりの伯爵とはだいぶ扱いが違いますねえ。だがそんなこと今はどうでもいい。
「さあ行きましょうお嬢様方、急いで試験会場に戻らなければ」
「あっ、そうでしたの!」
「さすがです。そんなことまでご存知だなんて……」
何を言ってもキラキラした眼差しが飛んでくる。こりゃ中身がバレたら大変だぞ……。
「急ぎますので、どうかわたしに掴まっていただけますか」
「えっ、ええと、こ、こうでよろしいですの……?」
跪いた俺の首に、抱きつくように腕を回すパンネッタ。カグヨは背中に背負わせてもらう。普通に考えて子供とはいえ二人分。軽くはないはずだが……そこは竜の血が入った体だ、何ともないぜ!
「それでは失礼する」
そう一声残すや、俺は窓枠を蹴って外へ出た。
それを待っていたかのように、室内から二つの声が交錯した。
「なめんじゃねえ、玉座の犬がァ!」
「死ね、裏切り者」
音のない激突音が、空気を伝って背中の皮膚を揺らした。
あんな怪物がうようよしてるなんて、俺はレンジャーというものを、まだまだ甘く見ていたらしい……。
攫われた女の子たちがまた別の男に攫われた……。




