第三十三話 アークエンデの慎重な緊張
町一番のホテルの前でガルルルと向き合う猛犬……じゃなかった、因縁深い三領地の公女たち。
後からやってきた利用客たちが「あっ……」という顔で迂回路を取る中、身内がこの三つ巴に参加している以上、俺たちに逃げ場はなかった。
いきなりこんな修羅場になるとは。早くなんとかしないと……。
「おい、早く行こうぜお嬢様」
そこに颯爽と現れる、乾坤一擲の一声。かつてこれほど勇敢な者がいたかと思うその名はオーメルンだった。
半ば強引にアークエンデの手を取りながら、その目がチラリと俺を見る。
この合図は……! 俺は即座にうなずき、
「そうだな。ここで立ち止まっては皆の迷惑になる。それではお嬢さんたち、ごきげんよう」
有無を言わさず、二人でアークエンデを引きずってその場から退散。それでも、少女三人とも互いが見えなくなるまで唸り合っているのだから、ある意味天晴な意地の張り合いだった。
最大の因縁があるパンネッタとカグヨがその後どうなったかはわからないが、さすがに模擬テスト前に国外追放を受けるような乱闘騒ぎは起こさないだろう……。起こさないよね?
「ああ、もう、許せませんわ! あの子、お父様を侮辱して! ねっ、オーメルンもそう思うでしょう!?」
部屋にたどり着いたアークエンデは、それでも治まらない腹の内を周囲にぶちまけた。
貴族用の客室は広いリビングを持ち、寝室は家族用と付き人用に分かれている。床は分厚い絨毯敷きで、調度品も落ち着いた高級感を匂い立たせていた。
模擬テストに向けての仮宿には十分すぎる豪華さの中を、アークエンデの怒りの足音がどすどすと進んでいく。
「まあそうだけどよ。言っても聞きそうにないだろ、ああいうのは。相手にするだけ時間の無駄。無視して通り過ぎるのが一番だぜ」
多少の不満はすべて呑み込んだ顔で、オーメルンはそんな返事をした。
期待した怒気が返ってこなかったことに、アークエンデの勢いもわずかに霞む。
これは……確実に大人の対応だ。大目に見るとかそういうのではなく、これ以上不快にならないよう自分を安全な位置に動かす。一見、なんか負けた気分にはなるが、実はこれこそが勝利だということを、多くの大人でさえわかっていない。
「でっ、でも! やっぱり許せませんの!」
「ほら、そんなことより、怒りすぎて頭から暗記科目が抜け落ちてないか? テキスト出しなよ。一問一答してやるから」
「うう、はい……」
パーフェクトだオーメルン。まるでよくできた兄のように、アークエンデをアンガーマネジメントしてしまった。おまえに付き人を頼んだ俺の目は、俺よりはるかに偉かった。
明日のテスト対策を始めた二人の邪魔をしないよう、俺はこっそりとリビングの端へと移動する。
バスティーユが椅子にも座らず佇んでいる場所だ。俺が一人掛けのソファーに座って促すと、彼もようやくそれに倣った。
「まさか、いきなり三帝会戦……ならぬ三公会戦が始まるとは思わなかった」
ここまでの旅路以上の疲れを舌に載せながら、俺はそっとつぶやいた。
「聞くところによると、あのお二人もアークエンデお嬢様と同い年。まだ本試験に臨むには早い年齢のはずです」
「そんなことまで調べてるのか」
「……何のためにトモエとメリッサを手元に置いているのですか?」
真顔で聞かれると困る。そうか、あの二人を介して情報収取をしているのか……。いやマジで抜かりないなうちの執事は。
「目的は恐らくお嬢様と同じ、軽い腕試しでしょう。特にパンネッタ様は地元開催ですので、移動にコストを支払う必要はございません。……さっきまでは」
「さっきまでは? 今は違うのか?」
「ライバルに負けるという特大のリスクがございます」
バスティーユはアークエンデに視線を投げた。俺もつられて彼女を見る。
アークエンデはすっかり落ち着きを取り戻していた。いや、それどころか、忘れていた緊張までぶり返してしまったらしく、一問一答への回答が、馬車の中よりもたどたどしくなっている。
「パンネッタ様もカグヨ様も領内最高水準の教育を受けているはずなので、模擬テストで優劣がつくということは、すなわち自領の教育の品質差を表していることになります。見た限り、無駄に気位の高い方々なので、明日は相当に気合を入れてくるでしょう」
「気楽なテストじゃなくなっちまったな……」
領地の看板を背負っている。そしてアイツらには絶対負けたくないというプライドも合算。これが本番の試験だったら緊張ゲロでは済まない。
「座学はともかく、実技では絶対に負けないと思うけどな」
俺は親バカではない、客観的な意見を述べた。
ドラゴンの爪をへし折り、聖騎士修道会に同行して勇者の闇堕ちを救う……そんな経験、そこらの英雄にだってない。
「実力をそのまま発揮できれば、です」
「む……」
「子供というのは、自分の機嫌一つ自分で取ることのできない未熟な存在です。どれだけの力を秘めていようと平常心を失えば赤子も同然。今のお嬢様に、それがあるかどうか……」
釘を刺すバスティーユの声が、俺をぎくりとさせた。
アークエンデはいつの間にか寝室から枕を持ってきて、それを抱きしめるようにしながら顔をしかめていた。出題するオーメルンも困った顔で頭をかいている。どうやら成果は芳しくないらしい。
「ど、どうしよう?」
「今日は早く寝ましょう。地頭は素晴らしくいいのですから、本調子の半分も出せれば悪くない結果が得られますよ」
性格Zにしてはひどく優しい意見を述べ、バスティーユはそのための準備を始めた。
※
そして試験当日だ。
「おはようアークエンデ。昨日はよく眠れたかい?」
「はい……多分……」
寝坊というわけではないが、アークエンデは俺よりも遅く起きた。
隣のベッドからたびたびシーツの擦れる音が聞こえていたから、寝つきは悪かったのだろう。一方俺の方は、馬車旅の疲れと最後のアレのおかげでぐっすりだ。
試験を受けない人間ほど、この時無敵な存在はいない。
こういう時は無駄にプレッシャーをかけないよう、普段通りに接するのが一番だ。
「よし、それじゃあ朝食にしよう。ウエンジット式の料理だ。楽しみだなー」
寝室を出ると、すでにオーメルとバスティーユが、部屋に運ばれてきた料理を配膳していた。
朝から子牛の煮込みだとか、豚のソテーだとか、めちゃくちゃボリューミーだ。ウエンジットは騎士と戦士の領土なので、とにかくパワーのつくものを食いまくるのが流儀なのだろう。
オーメルンは平気でパクついていたが、俺はギリギリという感じ。アークエンデに至っては半分以上残してしまい、オーメルンに食べてもらっていた。
そうこうしているうちに模擬の開始時刻が近づいてきたので、ホテルを出て会場へと向かう。
アークエンデはその時もテキストを手放さない。持っていないと不安なようだ。
これまでの彼女の努力を知っているからこそ、正直、見ているのがつらかった。普段は凛として明るい少女。それが、本番への緊張と動揺でここまで掻き乱されてしまうなんて。
「あ」
「う」
「む」
会場は既存の学校施設を借り切って行うようだった。歴史を感じさせる立派な校舎の佇まいは、ウエンジット有数の名門校であることをうかがわせる。その正門前で。
また出会ってしまう。因縁の三公女が。
「あーら、皆さまごきげんよう。昨日はよく眠れたかしら。ちなみにあたくしは十二時間は寝ましたわ。今頃になって必死に頭に詰め込んだって、何にもなりませんもの」
先制パンチはパンネッタから。お上品に癖毛ポニテをさっと手で払う。
「そうですか。わらわは十二時間十五分は寝ました。余裕の表れです。もちろん、ぎりぎりまで勉強なんていたしません」
クロスカウンターのカグヨ。昨日とはうってかわって心静かに目を閉じ、冷静な対応だ。
「うぅ……」
一方のアークエンデは、落ち着き具合でも睡眠時間でもマウントを取られてたじたじになっていた。これはマズい……。
「ああっと、あたくしも実は十二時間二十分の間違いでしたわ。細かい分まで気にしているなんて、いかにもケチくさい槍使いの発想ですの」
「あー! そうやって軽々に前言を撤回するのは、無駄に大きな得物を振り回す蛮族特有の仕草ですね。そういえばわらわの時計は少し遅れていました。本当は十二時間二十五分!」
かーっ、寝たわー。テスト前なのに。かーっ!
そんな爆睡オークションはその後、十二時間四十八分まで積み上げられる。が、これでは埒が明かないと思ったのか、パンネッタが意外な伏兵カードをオープン。
「ふんっ、とか何とか言って、実は徹夜して勉強してたのでしょう?」
「なっ……!」
受けたカグヨは動揺を露わにした。
「そ、そんなことするわけないです。あなたこそ、昨日よりくせ毛が強くなってますよ。もしかして睡眠不足なのでは?」
「ななっ……! デタラメ言うんじゃありませんわ! あたくしのフワモテヘアーは、いつも通りですの!」
これは……やってんのか二人とも? 気合が入りすぎて徹夜を? だとしたら、少しでも眠れたアークエンデは実は優勢かも……。
「模擬テストを受ける方は校内へと入ってください。門を締め切ります」
と、ここで校門前で案内していた職員が声を上げた。タイムアップだ。付き人たちと来ていた他の参加者たちも、彼らと別れを告げて中へと向かっていく。
「アークエンデ」
俺は、しょぼくれた足取りで模擬テストに向かう彼女を呼び止めた。
「これを持っていくといい」
「これは?」
彼女の手のひらに置いたのは、ウサギの耳の形をした釣り針。
「幸運のお守りだ。緊張で頭が真っ白になってしまったら、それを握って心を落ち着けるといい」
「お父様……ありがとうございます! 必ず、よい結果を出してみせます!」
釣り針を握りしめ、アークエンデはオーメルンと一緒に校舎へと入っていった。
さてと……。
付き添いの役目はこれで一旦終わりだった。
初日はペーパーテストのみ。昼に休憩が入るので、それまではすることがない。見送りに来ていた人々は、ホテルに戻るか町に羽を伸ばしにいく様子だ。
しかし俺は会場から離れず、学校の周囲を歩き始めた。低いレンガ塀にぐるっと囲まれ、植え込みもあって中の様子はよく見えない。
そんな環境下で、俺がアークエンデの姿を見たのはいかなる神の采配か。
一階教室の窓際の席。緊張気味の彼女が、席に着いている。すぐにペンを手に取った。テストが始まったらしい。
だが、あの表情は……。
「まだ引きずっておられるようですね」
バスティーユがオペラグラスなんぞをのぞきながら言った。なんて用意のいい男だ……。
「こうなると、どんな優秀な頭でも何も引き出せなくなるものです。かつて、私の近くでこういった試験を受けていた人物も、開始からずっと用紙を見つめたまま、一度たりともペンを動かさなかったことがありました。合格発表後、彼の姿は見ていません」
「恐ろしいことを平然と言わないでくれ……」
お守り程度では焼け石に水だったか。
「模擬とは言え、人生最初の大きなテストだ。緊張するのも無理はないさ……」
誰に対する慰めかもわからない言葉を吐いた俺に、オペラグラスをのぞいたままのバスティーユが静かに告げてきた。
「旦那様は、なぜお嬢様がここまで失敗を恐れているかおわかりになりますか?」
「それはアレだろう? 領地の看板と、あの二人への意地……」
「正確にはそうではありません。思い出してください。ほんの二月三月前のこと。あなたが一度目に死にかけた頃のことです」
「……!」
「当時、お嬢様は旦那様の気を引こうと必死でした。彼女は生家でも厄介者で、もし不興を買って送り返されるようなことがあれば、待っているのは地獄のような日々だったはずです」
そういう話を以前オーメルンにしていた。だが、彼女のいじらしい行動すべてに利己的な裏があったとは受け止めていない。アークエンデが求めていたのは、ただ、“愛してほしかった”。人間として自然に行動したに過ぎない。
「あの時が、彼女がもっとも崖っぷちにいた頃であり、そして何よりも失敗を恐れた時期でした。状況はまったく違うとわかっていても……心の奥底では恐怖を感じている。あなたをがっかりさせ……見捨てられることを」
「そんなバカな! 俺がそんなことするわけないだろ」
俺は思わず声を荒げていた。それは俺が彼女に対して一番しないし、してはいけないことだった。
「ご本人もそれはわかっているはず。しかし人間、心底追い込まれた時の感覚というのは、いつまでも心にこびりつくものなのです。お嬢様はあの日から今日まで、大切に育てられました。その中で、彼女が試されたことが何度あったでしょうか? 仲間や友人とではなく、個人としての資質や力量を。今回が初めてなのでは?」
……なんてことだ。アークエンデは今のプレッシャーを、当時のものと重ねてしまっているのか。俺から見捨てられるかもしれないという、あの時の恐怖と……。
もっと早く気づくべきだった。そうすれば、窓の向こうで苦しむ彼女はいなかったのに。
「……それ、もっと早く教えてくれよぉ……」
俺は情けない声で言った。しかし、バスティーユは悪びれた様子もなく、
「性格Zの私より、旦那様が気づくべきことだと思いましたので」
「うぐっ……! それはぁ……その通りだ……。俺は父親失格だ……」
「別に父親でも他の関係でもよいのですが。世継ぎが確保できるなら私からは何でも」
「やめないか!」
だが……。これはやはり俺のミスだ。
アークエンデが自律もできない未熟な子供と言っているのではない。彼女の恐怖心は、俺――ザイゴール・ヴァンサンカンが生み出したものなのだ。俺が打ち消さなくて、どうする。
結局、アークエンデは一教科目のテスト時間の大半を、固まったまま過ごしてしまった。
何度もペンを握り直し、ため息をついて。それでも先へは進めず。
用紙が回収されるなり、彼女は組んだ手に口元を押しつけ、拳の中に必死に何かを吹き込んでいるように見えた。自分を鼓舞する言葉か。それとも。
……行くか。
俺は静かにその場を離れた。バスティーユはついて来なかった。
学校の裏手から柵を飛び越え、中に入る。この距離なら多分いける。俺は“盗み聞きの針”に謎の糸を気合で繋いで起動させた。
『お父様、ごめんなさい。お父様、ごめんなさい……』
アークエンデの繰り返す言葉が俺の手元の針から聞こえてくる。痛々しい。まるで捨てないでと懇願しているようだ。
俺は息を吸い、腹の内を決めて、静かに呼びかけた。
「アークエンデ」
『!』
針の向こうから驚きの息遣いをした沈黙が返ってきた。それから恐る恐る、
『お父様……?』
「お守りだと言っただろう? 君を守るために来た。だが、テストに関して不正をするためにこれを渡したわけじゃない。言いたいことがあるんだろう? 言ってみてくれ」
わずかな沈思の後、罪を告白するような声で彼女は言った。
『お父様。わたくし、さっきのテスト全然ダメでしたの……。頭が真っ白になって、何も考えられなくて……もう……これ以上続けても……』
彼女は疲弊しきり、弱っていた。俺は慎重に言葉を紡いだ。
「アークエンデ。怖がることはない。これは模擬、単なる予行練習だ。だけどね、これが本番のテストだったとしても、俺は君に落胆することも、ましてや見捨てるなんてことは絶対にない。だって、俺は君と共に歩む人生こそを、一番の生きる目的にしているんだからね」
「……!」
「君がもし本番で同じような失敗をしたとしても、俺や屋敷の人たちは、君が屋敷に残ってくれることを嬉しく思うだろう。逆に合格したら、もちろんそれを喜ぶ。アークエンデ、失敗なんてものはこの世にない。すべて次への準備なんだ。けれどもし、君に取り返しのつかない何かが迫ったとしたら……その時、俺は命を懸けて君を守る。そのために俺はここにいる。だから、恐れず確かめにいこう。今、何ができて、何ができないのか。誰にも勝つ必要なんてない。ただ、知るんだ。今の自分を。するべきことは、それだけだ」
『お父様……お父様っ……』
鼻をすするような、小さな声がした。
『ありがとうございますお父様。わたくし、もう少し頑張ってみます……!』
俺は糸を切り、元の場所へと戻った。
後できることは、信じることだけだと思った。彼女がここで立ち直ることを、じゃない。彼女と笑顔で屋敷に帰れることをだ。
そして、それからの彼女は、今までのスランプがウソだったかのように軽快にペンを走らせた。
二教科目の開始からひと時も休まずにペンを動かし続け、ようやく止めた時には満足そうに天を仰いだ。その目に光るものが宿っていたのを、俺は見逃さなかった。
「お見事」
オペラグラスをのぞくバスティーユが、それを誰に対して言ったのかはわからない。
※
二教科を終え、模擬テストは昼休みになった。
昼食のために参加者たちが校舎から出てくる。その表情は何とも多種多様だ。
ただ、あの時のアークエンデのような悲愴感を漂わせる者はいない。これは模擬テスト。そこまで深刻になる必要はないのだ。
俺とバスティーユは、校門前で子供たちを待っていた。
二教科目は確実に取ったろう。本人的には無事に復活できたことが何よりも嬉しいはずだ。それを迎えてやりたい。
オーメルンの方は……彼はペーパーテストより実技の方に燃えていたから、多分素っ気なく「まあまあ」とか言うだろう。
と。
「失礼」
不意に、声をかけられた。
いや、かけられてない。
人の気配は俺のずっと後ろにある。しかも俺に背を向けている。声量からしても届かない距離。完全に無関係な人物。だが、
「ヴァンサンカン伯爵ですね。お初にお目にかかります……いや、かかっていないかな? お互い背を向けてますからね」
若い男の声が言う。軽薄で信用のおけない――だがこの話し方、確実に俺が聞いていることを前提にしている……!
「手短にお話します。この昼休み……イルスター槍騎士公の娘と、ウエンジット鋼騎士公の娘が揃って拐かされます」
「なに……!?」
「我々は見張られていて動けません。しかしこれを看過すれば、両領にとって取り返しのつかない火種となるでしょう。二つの騎士領の均衡を図るのがヴァンサンカンの務め……。どうか悪者たちの目論みを阻止してください」
こ、こいつ……。マジで言ってるのか?
しかし冗談をほざくには、この男、デキすぎる……!
「あっ、こんなところに万が一の時に使えそうな変装用のマスクが。不思議ですねー。それではご武運を……」
振り返った時、そこにはもう誰もいなかった。
その代わり、彼の言葉通りのマスクが置かれていた。
「マジかよ……」
思わず顔を手で覆った。
それは、俺が怪盗貴族として使ったのと同じものだった。
バレてら……!
長くなっちゃったけど途中で切るのも何だったので……。




