第二十九話 彼女の道先は好きで満たされる
周囲は、眠る少女の吐息のように穏やかだった。
あれほど薄暗かった森の一角に光が差し、わだかまっていた不穏な空気も霧散している。
長年ここに居残っていた怨念が、ついに立ち去った。そんなふうに。
車座になって皆で座り込む中、俺は大人の最後の意地で、大の字に倒れるのを何とかこらえていた。
キレそう……脳みその神経が。それくらい頑張った。世界よ俺を褒めてくれ。
その頑張りの対象であったソラは、今はシノホルンの膝枕の上で静かな寝息を立てている。アークエンデとオーメルンが優しく見守る彼女の表情は、どこまでも平和だ。
救出は成功した。
彼女の心を食って育ったブラックガントレットは、その刺々しいフォルムを失い、滑らかな白い籠手へと変わっている。
人の行いに審判を下す〈ジャッジメント・フロー〉。彼が最後の最後でしくじったのは、果たして俺たちの力押しの賜物だったのだろうか。
いや……。
怨念を直に撃ち込まれたことによって、世界は憎むべきものとして確定した。けれどソラは、その憎悪の中でも優しい思い出にしがみつき、俺たちもそれに全力で応えた。
嫌いなのに嫌いになりたくない。そんな裁定への揺らぎが、欠陥という形で繭の下部に現れた。
――俺たちとソラの心が勝った。そう思いたい。
「周辺は安全だ。邪気の影も形もなかった」
そう告げて俺の横にどっかと座り込んだのはマスカレーダだった。
彼女たちは戦闘のすぐ後、休む間もなくあたりを調査してくれた。首無し像――怨念の残滓を捜索するためだ。だが、幸いなことに無念はすべて晴れたようだった。俺の耳にももう何のざわめきも聞こえない。
不意に、彼女が兜に手をかけ、それを一息に脱いだ。
「ふーっ……!」
「……!!」
素顔になって大きく息をついた彼女は――とんでもない美人だった。
きりりとした切れ長の目、真っ直ぐですっきりとした鼻筋、上品なバラ色の唇。兜をかぶる都合で暗金の髪はシニヨン風にまとめてあったが、解けばそれなりに長そうだ。
さっきの奮闘の余韻がまだ残っているのか頬は桜色で、その上を汗がとめどなく流れ落ちていた。その潤いと瑞々しさがいっそう彼女を凛々しく、そして美しく際立たせる。
中身超綺麗ェ! これがマスカレーダの素顔……。
声だけでも何となく美人そうだとは思ったが、ここまで綺麗な人だとは……!
「……ダメだ、まだ暑い……」
「へ?」
彼女はそう言うと、突然、上半身の鎧も脱ぎ捨ててしまった。
現れたのは――。
(デッッッッッッッ!?)
わーくにの教会が誇るシノホルンさんを凌ぐ、非常に立派な巨星乙。
元々体にフィットするアンダーウェアだったのだろうが、汗のせいでそれがよりぴっちりと吸い付き、双星とも呼べるバストのラインが始まりから終わりまでくっきりはっきり描かれている。さらに。
ムッワアァァァァァァ……!
鎧の内側にこもっていた熱気が、新緑の風の中へと逃げていく。そして、えぇ……よりによって俺が風下だ。鉄とほのかな柑橘の香り、それから湿っぽい湯気が、鼻孔を満たして腹の中へと落ちていった。
(な、なんという……)
マスカレーダは俺をちらと見て、
「すまないな伯爵。見苦しいところを見せて。恥ずかしい話だがわたしは暑がりな上に汗かきで、我慢しているとどこかで倒れてしまうのだ」
「そ、それは、大変だ、うん……」
熱中症対策は大事だ。その場ですぐやるべきだ。
ふと視線を感じて俺が視界を動かすと、修道士隊の皆さんがかすかに顔を背けるのが見えた。
兜のせいで目線はわからないが……俺の目はごまかせない。隊長殿のおバストを拝んでいた。この人たち、すでにお相手がいるというのに……。
ん? 待てよ……。
マスカレーダの口振りからして、彼女のこの放熱は戦闘後の恒例行事のようだ。
ま、まさか、『クロニクル』で彼女が率いる兵の士気が全然下がらないのって……これを見るために!? 神の授けし勝利の余韻を……!?
い、いや……さすがにこれは信者の皆さんに怒られるわ。身命を賭して信仰心のために戦ってるのに、下心が理由かとか聞かれたら磔からの直火焼き不可避だわ。
「貴殿とは思わぬところで共闘することになった。だが、感謝する」
少し体が冷えたのか、マスカレーダは俺に右手を差し出してきた。
胴体部分と違ってこちらはまだ籠手に覆われていたが、俺にはそれがしなやかで柔らかな腕に見えた。「こちらこそ」、にこやかに握り返す。
「彼女らに感謝しなければ」
そう言って二人で目線を向けた先には、今回一番の敢闘賞である子供たちがいる。……のだけど、あのう、アークエンデとシノホルンが、ヒロインがしちゃいけない驚愕顔でこっちを見てるんですが。
マスカレーダ(鎧)の中身がこれだったことに心底驚いている様子だ。二人の視線からして特にお胸の方に。シノホルンさんも大変実り豊かでいらっしゃるが、やはり子供の部。マスカレーダはそこに大人の自信と色気が加わって最強に見える。
が、当のマスカレーダは、修道士隊から司祭に至るまでのそんな目線など全然気にしてない口調で、
「今回、審判者殿がセルガイア像を破壊したというのは、一つの示唆だったのかもしれない」
そんな真面目な話を始める。
「示唆?」
「教会の教えは道徳的で普遍的だ。人がどう暮らすべきかを示している。だが、人生のすべての場面を網羅しているわけではない。どこかに、我々個々のエゴが立ち入る余地がある。わたしたちは、そのエゴを盟主の名の元に自己を正当化してはいないか。それは本当に盟主の諭した行いなのか。信仰は目に見えるもの――像にあるのではない。むしろ見えないもの、己が心に根づいている。だから能く問い、考えよと……そんな啓示のように、わたしは感じた」
こじつけだとか、深読みだとか、はたまた宗教家のナルシシズムだとか。そんな穿った考えは不要だ。そこで何を見て、何を感じ、何を学ぶか。
意味なんかないと冷笑するのならそこで止まる。しかしこれを奇貨と自分を顧みるなら、その分、人には前進がある。多分そういうことなのだろう。
「今回の出来事は、すべて聖庁へ報告する。あの死者の怨念も、我が隊の独断も、審判者のことも、そして貴公が使った不思議な力のことも。これらを見なかったことにすることはできん。わたしの良心が――神が咎める」
「ですよね……」
まけて、とは言えない。さっき、勢いとはいえあんな啖呵切っちゃったし……。
疑惑の領主が“謎の力”を使ったなんて言われたら、教会上層部は徹底的に調べるようとするだろう。……立場、ますます悪くなるなぁ……。
小さく息を吐いた俺を気遣ったのか、マスカレーダは穏やかな微笑を浮かべ、
「しかし、貴公らがそれを最大限善意のために使ったことは、命を懸けて伝えよう。領主として、大人として、父として……ヴァンサンカン伯爵は高潔で信頼に足る人物だったとな」
「! それは……ありがたい」
高潔。信頼。アークエンデの父として、俺はまた一つ足ることができたのだろうか。
その時、シノホルンたちがにわかに活気づいた。
ソラが目を覚ましたらしい。
「シノホルン! ありがと!」
子猫のように飛びついたソラが、シノホルンを押し倒す。それから「アークエンデ、ありがと!」とアークエンデに、それから「オーメルン、ありがと!」とオーメルンにもそれぞれ。そうして今度は、俺に向かって駆けてきた。
「伯爵様! 伯爵様! あのね、あのね!」
興奮気味にまくしたてる彼女の顔はきらきらと輝き、幼い外貌を一層あどけなく見せていた。気持ちが先走って次の言葉が見つからないのか、楽しげに体を左右に揺らしながらひたすら「あのね」を繰り返す。追従するポニーテールが正に尻尾のようだった。
「こ、これが、あの難解な言葉を話していた審判者殿か……?」
「そうみたいだ」
唖然とするマスカレーダが俺を微笑させた。時期的に正史よりも幼いので子供っぽいのは当然としても……語彙力だいぶ変わるな……。
「あのね、伯爵様……すき!!」
「おわぶ!」
結局俺も三人と同じように熱烈な抱擁を受け、押し倒されることになった。
「ちょ、ちょっとソラさん? 領主様はお疲れなのですから……」
シノホルンと子供たちがわたわたと駆けつけてくる。しかし俺はソラの背中を軽く抱いてやりながら、
「いいんだ。ソラ、わたしたちを好きでいてくれてありがとう」
「へへへ……」
これからもっと好きな人に出会うんだけど、今は俺たちを好きになってくれたことが嬉しい。
「誰かを嫌いでいるのは、とてもつらいし、疲れる。そんな無駄な生き方をするより、“好き”に囲まれている方がいい」
「……そうですね」
シノホルンは俺の横にしゃがむと、ソラの髪を優しく撫でてやった。ソラは気持ちよさそうに目をつむり……そして突然ぱちっと開いた。
「ねえ、伯爵様とシノホルンは一緒に暮らしてるの!?」
えっ? と俺たちは揃って驚く。いきなり何のことだ?
「ならわたしもそこに住みたい! 好きな人たちのところに!」
『ええっ!?』
声を上げたのは俺とシノホルンが同時だが――声量でいえばシノホルンの方が三倍くらいでかくて高音だった。
「居たいな。わたしもそこに居たいなぁ。少しの間でいいから。好きな人がたくさんいるところで過ごしたいな」
彼女が物欲しそうにそう繰り返してくる。
俺もアークエンデもオーメルンも、住んでいるのはあの屋敷だ。彼女もそこに居たいと言っている。
ソラは家族がいない。
とある小さな村の、井戸の脇で一人行き倒れているところを発見され、村長さんに引き取られた。
最初は村に馴染めなかったが、少しずつ友達もでき、一緒に遊べるようになった。
そんな折、彼女がしていた左手のブレスレットの正体が聖剣だと判明する。
村では聖剣を畏れ敬うしきたりがあり、友達は皆、急にかしこまってしまった。直後、本人もゆかりある寺院へと移され離れ離れに。
誰が悪いわけでもないが、結果的に彼女はまた親しい人たちを失った。
それが『アルカナ・アルカディア3』で語られる彼女の過去。
そんな少女の小さな願いを、俺は今、耳にしている。
できることなら寺院に戻って修行を完遂してほしい。だが……。
「こ、困りましたね……」
「そうですね……」
俺は同意を求めてくるシノホルンに神妙にうなずいた。
これは難しい選択だ。
彼女の将来の安定を取るか。それとも今を満たすか。
シノホルンも真剣に悩んでくれている。
「わっ、わたしと領主様は一緒に住んでるわけではありませんがぁ、こんな小さい子を放っておくわけにもいきませんしぃ……。あっそうだ(唐突)、少しの間だけ、この子が落ち着くまでは、わたしもお屋敷に寝泊まりするというのはぁ……決して悪くないことだと思うんですけれどぉ、えへ、えへへへ……」
……ホントに悩んでる?
頬を赤らめ、だらしのない笑顔をソラの横に並べているシノホルン。
た、確かに、もしここで断っても、ソラは素直に寺院に帰らないかもしれない。そして次会う時はすでに完堕ち闇状態ということも。
その時狙われるのはアークエンデ。そうなるよりは……えぇ、でもぉ……。
「……伯爵殿は司祭殿と大変仲がよろしい様子だ。まさか頼みを断ったりはすまいな?」
マスカレーダが皮肉の利いた手で肩をポンと叩いてきたことで、俺はつい、「はあ……」と曖昧に言ってしまった。
途端、『やったー!』と二人で抱き合ってぴょんぴょん跳ねているソラとシノホルン。女の子が「やったー!」って言ったらそれはもう「やった」で確定なのだ。男の子が言ったら「だが断る」とか「残念だったなトリックだよ」とかひっくり返されるのに。
まあ教会としても、審判者がここまで不安定なのはさすがに困るか。
なんだかアークエンデとオーメルンも一緒になって喜んでるし、今さら反対なんかできない。
未来は、今の積み重ねだ。
ソラの好きが続く世界が、未来の世界だ。
俺は微笑み、皆に伝えた。
「では、さっそくうちのメイドさんたちに部屋を用意させよう。――ソラ、我がヴァンサンカン屋敷へようこそ。よろしく」
「うん! よろしく! 伯爵様、だいすき!」
こうして、首無しセルガイア像の一件と、大罪人勇者ソラの裁判は、平穏無事に閉廷した。
勇者ソラを屋敷に迎え、
〈マスケット〉マスカレーダの信頼を勝ち得、
教会との今後どう転ぶかわからない危うい因縁を作って……。
……疲れた……。
※
後日――。
「伯爵……」
「ううん、むにゃむにゃ……」
「偽りの微睡から目覚めよ、伯爵……」
「ホワアッ!?」
俺は――飛び起きた。
屋敷での生活のうち、一番心臓に悪いのはこの目覚めかもしれない――そんなことをしみじみ噛みしめる余裕もなく、俺はベッドの縁にあごを乗せているポニテのメイド服少女を見やる。
「ソラ――」
だが。
「古の夜は破られた。新しき光が地平を照らし、命の音が天に満ちる……」
暗い眼差し。冷たい表情。難解な言い回し。
ダークネスモード! 何で!?
「おはようございます、あな――領主様」
戸口のところから声がしたと思ったら、シノホルンが立っていた。副業のメイド服ではなく簡易的な聖服だ。……ところで、今俺のことなんて呼ぼうとした?
「シノホルン司祭。お、おはようございます。あの、ソラが何かダークサイドなんですけど……?」
「メイドさんたちの話では、朝食のシチューに刻んだピーマンが入ると知った途端、そうなったそうです」
「ピーマンごときで!?」
「侮るな伯爵……。ピーマンは……許されざる異形の草。中に肉を詰めて諸人を誘う卑劣な狩人……」
ああ、ピーマンの肉詰めのことを言っているのか。中身のハンバーグだけ食べたいと。小学生か。小学生だ。
「ていうかそれくらいで断罪側に傾くんか、今のソラは……」
「伯爵、目覚めたのなら……着替え……どうぞ……」
そう言って、律義に俺の着替えを差し出してくる。
闇属性ではあるのだが……なんか優しいというか、そこまで悪意に染まっていない。光と闇の境界線が曖昧な感じだ。あと数年もすれば心も成長して、ラインもくっきり出てくるのだろうが……。
「ありがとう、ソラ。朝からお手伝い、偉いぞ」
俺はにっこり笑い、着替えを受け取った。
「うん。ふふ……」
曇り顔のまま頬を赤く染めて微笑むソラ。
うん……。何だろう……。何かこれはこれで……可愛いと言う人がいるのもわかる。いや、わかっていいのか……?
そんなふうに少し自分の癖について悩んでいると、
「伯爵、ボク用にスカート丈を短くしてニーソを導入してみたのだ。どうだ可愛いだろ、愛でたいよなぁ!」
「あーメイド長、横からごめんなさい、今洗濯のためシーツを回収して回ってますんでー!」
「ご主人様、何か、トモエにできることは……!?」
「お父様! お父様はどこに! 想い合う二人はいつも一緒でないと!」
「何やってんだよ伯爵!」
ドバーンと押しかける屋敷のメンバー。
全員が朝から好き放題言ってる。聖剣を操るに足る精神修行なんて、誰もできそうにない。
今さらだけど。
この家……勇者様を預かってて大丈夫か……?
隣国諜報部「伯爵の屋敷に暗黒ロリ勇者メイドが増えただと!? 真面目に報告しろ!」




