第二十三話 伝書鳩は夜のバトルに鳴く
日が落ちると、町から通いのメイドさんたちは女子学生の通学風景のように林の道を通って自宅へと帰っていく。一方、住まいが遠くにある少女たちには、屋敷の空き部屋を解放して住み込み働きとしていた。
どことなくキャッキャとした空気が廊下を巡り、見回りの先生よろしくユングレリオが「もう寝なさい」と使用人部屋に吹き込んだところで、ヴァンサンカン屋敷はようやく夜の静けさを迎える。
深夜。草木も眠る時間帯。
屋敷の東側の林に、小柄な人影があった。
林の闇に溶け込むような黒髪。質素な寝間着が、木々の間をすり抜けてきた月光で白く浮かび上がって見える。
「お願いね」
彼女がそうつぶやいて空へと放ったのは、一羽の黒い鳩だった。
足首に金属の筒をはめた鳩は、そのまま天高く飛び上がろうとして――突然方向転換し、俺の腕にとまった。
「……!?」
トモエが振り向き、二重の驚きに瞳を震わせる。
鳩は俺の手に平にあるエサを夢中でついばんでいた。
「こいつは、どんな鳩でもたちまち虜にしてしまう“鳩チュール”という錬金薬だ」
俺が種明かしをしている間にも鳩は物凄い勢いで鳩チュールをついばみ、ほどなく道草は食い尽くしたとばかりに東の空へと飛び去っていった。
俺は手の中にある折り畳まれた紙を開く。鳩がエサに夢中な間に、足首の筒から抜き取ったものだ。
中には屋敷の内情が簡潔に書き込まれていた。住人の生活、人となり、特に最後の一文が目を引く。――伯爵の子供の様子がおかしい。
「トモエ、君は」
「こ、来ないで……ください」
トモエは子犬が鳴くようなか細い声を吐き出すと、地面を強く踏んだ。下草の中からすいと立ち上がったのは、いつか棒だけにしてしまったデッキブラシだ。それを構えてくる。
「伯爵様に暴力を振るいたくはありません……」
動きは手馴れているが、声には迫力がない。棒を握る手にも戸惑いがある。
「野良犬を叩くのさえ躊躇してたものな」
「! し、知って……?」
俺の言葉にトモエは怯んだが、精一杯の強がった声で、
「剣槍三倍人という言葉があります。剣で槍に勝つには三倍の人数が必要ということです。伯爵様が武器を隠し持っていたとしても勝ち目はありません」
「大丈夫だ。俺は最初から剣なんか使えない」
俺はぐいっと上から何かを引っ張る仕草を見せた。途端、トモエの手から棒が飛び上がる。
「あっ……」と慌てて手を伸ばしても、棒はすでに彼女の手が届かない高さまで吊り上がってしまっていた。俺が頭上の木の枝に仕掛けた釣り糸だ。唯一の武器を失ったトモエは、途方に暮れた顔でその場に立ち尽くした。
「うちのことを、外の誰かに報告していたんだな」
「…………」
「ただ、君はそういうことがあまり得意でないように見える。目立ちたくないのに同僚のピンチを放っておけず助けてしまった。でも俺は感謝してる。この仕事は誰かに頼まれたんだろうが……なぜこんな不向きなことを?」
「わたしには……何の取り柄もありませんので……。言われたことに従うくらいしか……」
視線を落としながら、自嘲気味に微笑むトモエ。それだけで、これまでの彼女の半生がわかるような仕草だった。
「しかし、メイドの仕事はとても丁寧で綺麗だったよ」
「お掃除は……気持ちがいいので好きです……」
「そうか」
俺は密書を折り畳んだ。
「俺のどうでもいい人生訓によると、人にウソをつく仕事はまあ続けられるが、自分にウソをつく仕事はじわじわと心を蝕む。無理すると先の自分に恨まれるぞ。……悪いようにはしないから、俺と一緒に来てくれるか?」
トモエは観念したのかコクンとうなずいた。潔さというよりは、自分では何も変えられないと諦めているようにも見えた。
他の者たちを起こさぬよう二人で俺の部屋へと戻ると、そこにはすでに屋敷の主要メンバーが揃っていた。
アークエンデにオーメルン、バスティーユ、ユングレリオ。そしてメリッサだ。
「あなたも捕まっちゃったのね」
椅子に座らされていたメリッサが、俺と一緒に入ってきたトモエを見て乾いた笑みを浮かべる。
「伯爵様、この子たちどうなってるの? 突然現れたと思ったら、あっという間に縛り上げられちゃうし。わたし、そっちの子と違って武術とかそういうの一切できないのに」
軽口を飛ばしてくるメリッサを尻目に、アークエンデが戸惑う足取りで俺に近づいて来た。
「お父様、これは一体……? メリッサもトモエも、どうしてしまったのです? お父様に言われた通り、屋敷の西側にいたメリッサを捕まえはしましたけれど……」
「この二人は間者です」
答えを直球で投げたのは、壁際で小さな紙切れを見比べているバスティーユだった。俺がさっきトモエの分も渡したので、メリッサと合わせてきっちり二人分ある。
「間者って……スパイかよ!」
オーメルが非難がましい声を上げ、メリッサにやるせなさそうな笑みを浮かべさせた。彼女の隣に座らされたトモエは終始うつむいて黙っている。
「アークエンデとオーメルンが炙り出してくれたおかげで尻尾が掴めたんだ。二人ともよく彼女たちが怪しいって気づいたな」
『えっ』
俺が子供たちを褒めると、二人は揃って驚いたような顔をし、しかしすぐに得意げに胸を張った。
「も、もちろんですわお父様。別にお父様に近づく不逞の輩を片っ端から見張っていたわけではなく……」
「と、当然だろ伯爵。オレの師匠に変な虫……い、いや、この家で怪しい行動は許さねーぜ……」
ぴゅーぴゅーと口笛を吹き始める二人。
…………。まあいいか。結果的にスパイ二人が動揺してボロを出したということで。
「メモの内容と、それぞれ屋敷の東と西で伝書バトを飛ばそうとしていたところを見ると、イルスター槍領と、ウエンジット鋼領、双方からのスパイのようですね」
『!!』
どんと揺れるような驚きが室内に広がった。動じていないのは事前に今日の計画を話し合っていた俺とバスティーユだけだ。特にトモエとメリッサを選抜したユングレリオは、大きなショックを受けているようだった。
「二人の動きから見て訓練された密偵ではありません。恐らくは、二つの騎士領にゆかりのあるうちの領民が、それぞれの縁者から頼まれて送り込まれてきたのでしょう」
ヴァンサンカン伯領が成立する前は、この地域はイルスター槍家とウエンジット鋼家が国境線を取り合う場所だった。過去にどちらか――あるいは両方に与した経験のある家系は山ほどあるそうだ。
「それから、報告しようとしていた内容から察するに、二人と繋がっているのはどちらも穏健派のようです。強硬派ならもう少し軍事に関することも探らせようとするでしょう」
トモエのメモにも、物騒なことはまったく書かれていなかった。屋敷の人は皆親切だとか、俺は見た目によらずいい人だとか。一番不穏なのがうちの子たちだったぐらいだ。
「そうよー。穏健派の偉ーい人らしいわ。あたしは全然会ったことないけど」
メリッサが突然、明るい声で話し始めた。バスティーユの推理が何もかも的中し、破れかぶれになったとそんなところだろうか。
「参っちゃうわよね。遠い遠い親戚だか何だか知らないけど、いきなりお屋敷のメイドになって中を探ってこいだなんて。いくら勢力が人手不足だからって、こんな何も知らない小娘をスパイにするなんて無理があるわよ。ホント……何でこんなことになっちゃったんだろ……。あーあ……」
彼女の声はだんだんと萎んでいき、それから鼻をすする音に変わった。彼女なりに自分のしていることの重大さはわかっていたようだ。それに対する罰も。
「二人の処遇はどうしますか旦那様。実害は軽微とはいえ、このような行為は王国法でも固く禁じられていますが……」
この手のことはケンカや盗みのような町中の事件とはワケが違う。政治は否応なしに大勢を巻き込むカテゴリーだ。厳しい対応をもって臨まなければ相手を付け上がらせ、それはやがて両領の関係をこじれさせて争いへと発展させる。だから、これにまつわる罰も自然と重くなる。
永遠に続く牽制が外交の正道――バスティーユは以前、俺にそう教えてくれた。
話を聞きながらアークエンデたちは恐々とこちらを見ていた。メリッサもトモエも、これまで一緒に暮らしてきた仲間。あるいは家族だ。スパイと知ってからとて、突き放せるわけもない。
だから俺はこの部屋の誰にも聞こえる声ではっきりとこう告げる。
「どうもしない」
『!?』
「二人にはこのままスパイとして俺の監視を続けてもらう」
「どっ……どういうこと、ですか、伯爵様……?」
先に当惑の声を上げたのはメリッサ。トモエもまた、深いブルーの目で俺を見つめてくる。
「二人は穏健派と繋がってるんだったな。なら都合がいい。ヴァンサンカン領は、イルスターとウエンジットの間で何かあった時にどうにかしなきゃいけない立場だ。穏健派も互いの衝突は阻止したいはず。なら利害は一致してる」
『……!!』
声を失う二人に代わり、バスティーユが相槌を打つ。
「確かに、今の旦那様の周辺では、当事者でさえ不可思議に思う事態が続発しています。穏健派の勢力もそれに伴う政情不安を懸念したからこそ、準備不足を承知の上で慌てて人を送り込んできたのでしょう」
領主が二度も死にかけたり生き返ったり、怪盗が出たり竜を倒した噂が流れたり。ヴァンサンカン伯領の天気は晴れ時々ブタの有様だ。政治の安定を望む側からすれば気が気ではないだろう。
「だから、こちらの情勢が安定し、なおかつ俺も平穏を望んでいることをお互いのボスに伝えてもらう。ああ、でもそうだな……いっそ窓口になってくれるか? そっちの雇い主と俺との、内密の」
「本気……ですか……?」
疑惑を向けてくるトモエ。俺は彼女を真っ直ぐに見返し、
「本気だ。それで、できれば他の人に交代せずこのまま君らにやってほしい。二人は子供たちや他のメイドさんたちからも慕われているし、俺もこの屋敷になくてはならない人だと思っている」
『……!』
顔を見合わせ戸惑いを露わにするメイドさん二人に、もう一声加える。
「二人に、ここに居てほしいんだ。もちろん、答えはどうであれ、これまでのスパイに関しては不問にする」
「はい、はい! やる、やります! 許してもらえるなら何でもする! メイドさんの仕事楽しかったし!」
メリッサは答えを出した。俺はうなずき、今度はトモエを見つめる。
彼女はやってくるはずの罰が忽然と消え、ひどく戸惑っているようだった。来るものは受け入れる、そういう生き方をしてきた少女なのだろう。しかし――。
「トモエ、これは君が決める自分の“次”だ」
「……わ、わたしは、自分のことを決めたことなんて……」
「誰にだって初めてはある。今こそ自由に判断していい。判断していいが……俺の願いとしては君にここにいてほしい。その仕事の丁寧さも、優しさも、俺には必要だ」
「……!」
トモエはビクリと肩を揺らし、それから目を閉じ、深く考え込んだ。
たった数秒だったが、必死に自分の殻を破ろうとする長い長い苦悩が、彼女の表情からは読み取れた。
「やりたい、です……。こんなわたしでも、伯爵様のお役に立てるなら……」
真っ直ぐに俺を見つめ、トモエは答えを定めた。第一歩。決まりだ。
「よかった。明日からもよろしくお願いする」
俺がそううなずく前か後かというタイミングで、「メリッサ!」とアークエンデがメリッサに飛びついていった。
「よかったですわ。あなたが重い罰を受けなくて……。わたくし、何も知らずにあなたを捕まえてしまったんですもの。もし酷い目にあっていたら……」
「お嬢様……」
そんなアークエンデの健気な姿にメリッサは目を潤ませ、
「すいません。ウソをついていて、ごめんなさい……。もうこんなことは二度としませんから……」
アークエンデを優しく抱き返すと、彼女は静かに涙を流した。
「よかったな、メイドのおねーさん。ヤバいことにならなくてよ……」
「オーメルンさん……」
もう一方ではオーメルンがトモエに祝辞を述べている。
「見た目はちょっと不気味だけど、伯爵は間違いなくいい人だぜ」
「はい……」
「次からは二人で伯爵の背後を追い回そうな」
「そ、それはちょっと……」
どういう仲間だよ。
「おっと、そうだ二人とも。大事なことを忘れてた」
それぞれの喜びが交わる場に、俺は一声投げ入れる。
「窓口役に関しては他の人たちには秘密な。きっと驚くだろうから」
「えっ、それって、あたちしたちと伯爵様の……」
「秘密の……関係……」
二人は顔を見合わせ、なぜかどちらも赤くなって目を伏せた。
「わ、わかりました……」
「はい、ご主人様……」
『は?<煉><〇>』
不意に、「なるほど」というバスティーユの声が俺の耳をかすめる。
「圧倒的優位な立場から恩情をかけることで未熟な小娘たちを籠絡し、こちらにとって都合の悪い情報を流しにくくした上で、当人たちは人質として手元に残し各領への牽制とする。なかなかに練られた狡猾な作戦かと存じます」
「おまえは悪意から先に生まれてきたの?」
――オホン。
何だかまとまりが失われかけたその場に、可愛らしい咳払いが一つ飛んだ。
これまで黙って成り行きを見守っていたユングレリオだ。彼は直前まで二人の不審な動きを認めず、シロだと信じていた。
「メイド長……」
「すみません。わたしたち……」
メリッサとトモエが駆け寄って神妙な面持ちを向ける。メイド見習に抜擢してくれた恩は忘れていないようだし、実際、今日までの彼への敬意は本物だった。
「いや、よい。政治レベルの話であれば、そなたらに決定権も拒否権もなかったであろうことは想像がつく。イルスターもウエンジットも近年、強硬派が台頭してきている。それを止められなかったのは国王の怠慢だ。二人にはつらい思いをさせた」
「あはは……メイド長ってば、まるで本物の王様みたいですよ。いくら名前が同じだからって……」
メリッサとトモエが思わずクスクス笑う。そんな彼女たちを見て、俺は一つ咳払いを差し込んだ。
「あの、多分、二人の役目からして今後は知っておいた方がいいと思うんだが……ユングレリオ殿下は、本当に元国王陛下なんだ」
『へっ……?』
メイドさん二人がピタリと停止する。ユングレリオがぎろりと俺を睨む。
「違うぞ伯爵。元国王陛下ではなく、“わたしの可愛いユングレリオ”だ」
「いや、陛下それは……」
「もう陛下じゃない! ほら、ボクの言ったとおりに呼べば、ボクをつま先から頭のてっぺんまで愛でる権利をやるぞ」
『えっ、あの……』
トモエとメリッサが、揃って助けを求める視線を回す。
しかし、アークエンデもオーメルンも、そして冗談など絶対に言うはずもないバスティーユでさえ、このメイド長の言う言葉に何の反論もできずに目を逸らす。
「じゃあ本当にメイド長は……」
「元王様……あっ……」
この屋敷最大の秘密に目を回し、二人は互いにもたれるようにしてその場に座り込んだのだった。
※
翌朝のことである。
「伯爵……起きるのだ伯爵……」
「ギャーーーーッ!」
「ギャアとは何だこのボクが久しぶりに気持ちよく起こしにきてやったというのに!」
俺の上には、お人形さんのように愛らしい下着姿の殿下が乗っていた。これだけでも眠気は瞬殺だというのに……。
「あっ、お目覚めですか伯爵様、おはようございまーって、エエッ!?」
「お、おはようございます御主人様、お着換えのお手伝いが必要でしたら……。きゃあああ!?」
ドバーンと扉を開けて二人のメイドさんが乱入。さらに、
「お父様、何かすごい物音が聞こえ――お父様あああああ!?」
「何やってんだよ伯爵!!」
子供たち二人もエントリー。部屋は朝からとんでもない騒ぎに見舞われる。
こんな時にバスティーユは絶対に駆けつけずに屋敷の反対側へと去っていく。
俺の心臓、一つでもつんか……?
一方、シノホルンさんは何も知らずに今日も働いていた……。
シホ「あらっ?」
チャンチャン(昭和)




