第二十二話 伯爵屋敷は冥道魔府
尾けられている。
そう思った俺は、何食わぬ顔で屋敷の裏手に回ったところでそっと物陰へと体をスライドさせた。
足音を聞く者がいたら、ある瞬間から俺が空へと飛び立ったと錯覚するだろう。
物陰から様子をうかがうこと、数秒。
来た。
伏し目がちな深いブルーの瞳。肩に触れるかどうかのミディアムボブ。
――トモエだ。
マジで尾行されてたか? と疑う俺の視線の先で、彼女は備品のデッキブラシを大事そうに両手で持ったまま、静々とその場を通り過ぎていった。
誰かを追っている様子も、その誰かが突然消えたことに驚く様子もない。
ムッ……。さすがにこれは自意識過剰だったか。男子の思春期はそう簡単には終わらないのかもしれない。密かに嘆息しつつ、物陰から出ようとしたその時。
「きゃっ……。こ、来ないで……しっしっ!」
か細い悲鳴が聞こえた。トモエが歩いていった方だ。
俺がその場に急行すると、トモエではないメイドさんの一人が、何かに向かって必死に手を払う仕草をしていた。
――グルルル……。
野犬だ。
ヴァンサンカン屋敷は林がすぐそばにあるため小動物や鳥はよく見かけるが、野犬は珍しかった。どうやら一匹狼が迷い込んだものらしい。
メイドはうろたえ、大声で助けを求めることにさえ気が回らないようだった。
トモエは、そんな彼女を見て立ち尽くしていた。予想外の出来事に呆然としているそう見えたが――。
彼女は突然、デッキブラシのブラシ部分を蹴り飛ばして外すと、柄だけになった棒を持って野犬へと立ち向かっていった。
「む、むこうに行ってください……!」
ぶんぶんと棒を振り回す。野犬にはまったく当たらない。しかしそれは、わざと空振っているようにも見えた。彼女の棒の振り回し方には、ある種の型――武道のようなものが感じられたからだ。
棒に打たれることを恐れたか、やがて野犬はどこかへと姿を消した。
「あっ、ありがとうトモエさん……! あなたってとっても強いのね」
襲われていたメイドの少女が、トモエに駆け寄って感謝を述べる。なのに彼女は何やらひどく後ろめたそうな、申し訳なさそうな顔を作り、
「いえ、こんなのは別に……。それより、お怪我はありませんか?」
「大丈夫! すぐにトモエさんが助けにきてくれたから」
同僚の無事にトモエは安堵の息を吐いたが、下向きがちな目は次にただの棒になってしまったデッキブラシを捉え、彼女に今度は沈鬱なため息を漏らさせた。
「お屋敷の備品を壊してしまいました……。メイド長に怒られる……」
「だっ、大丈夫よ。わたしも事情を説明するし。それでも怒られるなら、わたしも一緒に怒られるから。それより早く行きましょ。あいつが戻ってたら大変」
同僚に促されるまま、トモエは屋敷の表へと戻っていった。
彼女のあの動き……。本人は自信なさそうにしていたし、度胸も欠けているようではあったが、きちんとした訓練を受けた形跡があった。
やはり、単なるしごできメイドではない。となると、気になるもう一人のメイド、メリッサにも何かありそうだ……。
――翌日。
今度はメリッサを追おうと、朝からさりげなく探していると、
「おはようございます伯爵様。今日もよいお天気ですね。お嬢様が一緒にお洗濯をしたがっていましたが……それってどういうことですか?」
彼女の方から俺の前に現れてくれた。山盛りの洗濯籠を抱えている。
ところどころにクセのある亜麻色のロングヘア、顔立ちや声からは勝気な様子が伝わってくるが、態度自体はいたって友好的で仕事にも前向き。コミュニケーション強者だ。
「それは、わたしとアークエンデは一緒に洗濯をするのが好きという、そのままの意味だよ」
「……へえ……。それじゃあ一緒に洗い場まで行きますか?」
「お邪魔でなければそうしよう」
ここで同行しないと、彼女の全フラグがへし折れる可能性がある。『アルカナ』シリーズのスタッフはそういうこと平気でする。
それに向こうから誘ってくれるとは好都合だ。乗るしかないこの洗濯ウェーブに。
「お嬢様は洗濯がお好きなんですね。あたしも服が清潔なのは嬉しいですけど、貴族の方がご自分でやるとは思いませんでした」
近くの川から水を引っ張ってきているという洗濯室に向かう最中、隣を歩く彼女は気さくに話し続けていた。屋敷の人々から聞くところによると、彼女は同僚はもちろんユングレリオや子供たち、果てはバスティーユにさえ気軽に話しかけ、その場を明るい社交界にしてしまうという。
正直言って俺に年頃の女子とトークで盛り上がるスキルなど微塵もないのだが、彼女といると自然と言葉が引き出されてくる。盗賊の二枚舌もあるしな。
「わたしが寝込んでいた頃に、アークエンデがわたしの服を洗濯してくれたのがきっかけなんだ。今ではできるだけ一緒にやるようにしている。前まで担当してくれていた人からは、裏があるんじゃないかと煙たがられていたけどね」
「あははっ、今は監督役のメアリおばさんですね。あたしは一緒に仕事してくれる人がいると大助かりです。話し相手にも困らないし」
体の内側にある言葉を率直にお出ししてくるような少女だ。面と向かって話せば、彼女がどこかおかしいなんて微塵も思わない。単にイーゲルジットの嫌いなタイプだっただけかもしれない、なんてことさえ考える。
「伯爵様は最近までご病気だったんですよね」
「ああ、そうだよ」
領主の病気や体調の話というのは結構センシティブな内容っぽいが、彼女に遠慮はない。もう元気だし、過去の話と捉えているのだろう。だから俺も気持ちよく答えた。
「二回ほど死にかけて、どちらも助けられたよ。子供たちに。あの子たちには感謝してもしきれない」
「お子さんたちって……アークエンデお嬢様と……?」
「オーメルンだ。アークエンデの付き人を頼んでいるが、わたしの息子も同然だよ」
「……へえ……オーメルン君を。そんな伯爵様だから、お二人とも一生懸命看病してくれたんですね」
今の反応の冒頭には、何とも言えない間があった。何を考えている?「そうだといいな」と如才なく続けた俺に、メリッサがさらなる何かを問いかけようとした直前――。
「あっ、お父様! ……と、メリッサも……?」
ここで廊下の角からアークエンデが現れた。
俺を見て途端に目を輝かせるものの、次の一瞬で隣にいるメリッサに差し向けたのはどう見ても執着の眼光……。しかし当の本人はあっけらかんと、
「あっ、お嬢様、ちょうどいいところに。さっきそこで伯爵様をお見かけしたので、お嬢様のことをお話したんです。そしたら、お嬢様と一緒に洗濯をしてくれるそうですよ!」
「えっ、本当ですの? やったぁ! お父様、さあ早くこちらへ。ほらメリッサも急いで!」
メリッサの的確な爆弾処理により、アークエンデの表情は曇りから快晴にまで急速に回復した。見事だ……。
「あはは、そんなに急がなくてもお嬢様の笑顔に捕まったら誰も逃げられませんって」
「そうだな。わたしもそう思う」
よく笑うメリッサにつられ、俺も軽い足取りでアークエンデの背中を追いかけた。
※
「……二人とも、怪しいところ、ナシ!」
ヨシ!! ⊂ΦωΦ
俺の観察した範囲ではそんなもん。そこまでがっつり監視したわけではないが、少なくともそばにいる時に盗賊の勘は働かなかった。
彼女たちが時折単独行動を取るのは確かなようだ。しかしいざ探してみると、トモエは一人で細かい掃除の仕上げをしたり、メリッサは掃除用具やら屋敷の備品の点検をしていたりと、立派に仕事をこなしていることがほとんどだった。
シノホルンもとい、メイドのシホを部屋にこっそり呼んで内輪の話を聞いてみたりもしたが、不審な点はなし。むしろシホの方が異様にソワソワして怪しかったくらいだ。
結局、俺もイーゲルジットもメイドさんがいっぱいという環境にあまりにも慣れていなかっただけなのかもしれない。これ以降はもう気にしなくてもいいかもな。
そんなことを考えつつ、今日も俺は何者かの気配をケツにくっつけたまま屋敷の裏手を歩いていた。これも、要は訓練中のメイドさんがいっぱいという特殊な環境が、たまたま作り出しているシチュエーションに過ぎないのだろう。
しかし習慣というのは恐ろしいもので、俺はつい気配を断って物陰に退避してしまった。
そこに案の定トモエが後から歩いてきて、今日はかすかに周囲を見回す素振りを見せた。すると――。
「メイドのお姉さん」
「!?」
ビクンとトモエのスレンダーな体が揺れた。
彼女の後ろに誰かが立っている。まるで影から這い上がってきたようなその人物は――。
オーメルン!?
「伯爵の背後を取りたかったら、そんな露骨に真後ろにいちゃダメだぜ」
「!!」
彼はいきなりトモエにそんなことを言ってのけた。対するトモエは、完全に振り向くこともできず、わずかに首を回して顔を強張らせているだけ。体は硬直し、まるでナイフでも背中に当てられているみたいだ。無論、彼はそんなことしないが。
「目で見えないところにいると、別の方法で見つける。あいつはそういうやつだ。やるならせめて斜め後ろにしな」
それだけ伝えると、オーメルンはさっと身を翻し、逆方向へと歩いていった。残されたトモエは束縛を解かれたみたいにふらっと壁に寄りかかると、ヨロヨロとおぼつかない足取りでこの場を立ち去っていった。
……何? 今の。
オーメルンがトモエの尾行を咎めた? それにしちゃ何かアドバイスみたいなことすら言ってたみたいだが……。
それにトモエの反応も妙だ。心当たりがなければオーメルンの言葉はまったく意味不明だったろうに、しかし彼女には相当響くものがあったらしい……。
これは一体……?
そしてさらに翌日、俺の部屋でのこと。
掃除とベッドメイクのために、メリッサが来る予定になっていた。
本来は俺が部屋を空けているタイミングで片づけてくれるのだが、こちらの用事の方が早く終わってしまい、そこで彼女と鉢合わせることになった。
と言っても、彼女はこちらに背を向けて作業中。俺は扉の陰からそれを目撃したというだけなのだが――。
「ひっ……!?」
突然小さな悲鳴が上がったかと思ったら、メリッサが凄い勢いで部屋から駆け出ていった。
何事かと俺が慎重に中をのぞいてみると。
ばっさばっさ……。
「ホワッツ!?」
窓の外を、銀色の髪ではばたくアークエンデが通り過ぎていった。左右に分かれた髪を翼のようにはばたかせて。
前にも一度あれで加速するところを見たが……とうとうマジで飛び始めた!?
彼女は窓を通過するたびに、部屋の中をのぞいているようだった。何事もないとわかるとそのまま飛び去って行く。……いや飛び去らないで……。
「な、何だ……?」
俺の部屋を監視していた? いや……そんなことをする理由がどこにある。普通にいつでも入ってきていいのに。だとしたら、見ていたのは俺じゃない?
「ん?」
ふと、部屋の中の奇妙な点に気づいた。盗賊の感性は変化に敏感で、アハ体験でも容赦なく看破するのだ。
本棚に、わずかに人の手が入った形跡がある。
「……!」
イーゲルジットの懺悔録が、少しだけ棚から引き出されていた。
誰もこれに触るはずがない。タイトルの『エビサル・オベル』は、まったく意味をなさない造語なのだ。メリッサはこれを取り出そうとしていた?
よりによって、俺――ザイゴール・ヴァンサンカンの正体を暴き得るこの一冊をか。
メリッサはその現場をアークエンデに見られそうになって、逃げ出した……。いやいや、髪で飛んでる人間を見たら誰だって逃げる。しかし、オーメルに絡まれたトモエの態度と合わせると、メリッサにも後ろめたい何かがあるような気がする。これはこじつけだろうか……?
賊は、自分の計画がバレたらすぐに次の手を打つものだ。
予感があった。
彼女たちは、今夜動く。
怪しい人間に対しては勘が働く伯爵。




