第十五話 伯爵は蘇り、そして死に帰る(後編)
闇の中が騒がしい。誰かが叫んでいる。
ここはどこだ。今はいつだ。
俺は、誰だ……?
――領地中の錬金術師と腕利きの魔導士を集めろ! 旦那様と子供たちを助ける薬を作るのだ! 私の地下研究室も開放する! あるものはすべて使っていい!!
誰かが必死に叫んでいる。普段は決して出さないような上擦った声。
何が起こっているんだ。俺は? あの子たちは……?
――信じられません。まさかこれは本物のニーズヘッグの爪ですか。こんなカケラなのに、これ自体が生きているように鼓動している。一体どうやってこれを……。
――子供たちだ。どうやったかはわからないが……千の兵にも勝る……。
子供……。ニーズヘッグ……。
何のことだ……。何の……。
ああ、わからない。もう俺はほんの少ししか残っていない……。
――お嬢様とオーメルンの具合はどうです?
――はい、二人とも急速に回復へ向かっています。竜の血を浴びすぎて中毒を起こしていたようです。幸い、その毒血を吐き出す爪自体から血清が作れました。二人のことはわたしに任せてください。それより、領主様は……。
――まだです。何が足りない。何かが……。
あの子たち……助かった……それだけで……。
――バスティーユ殿、調合素材の残りが……。
――追加分をすでに発注している。今日の午後には届く。諸君らは何も気にせずに研究に邁進したまえ。
――さすがは手回しのいい……。しかし、すでに驚くべき成果が山のように出ております。どうか、これらの試薬の一部でも持ち帰らせてはくれませぬか……。
――薬はすべて旦那様のために使うのだ。ただ、研究記録を持ち帰ることは許す。これらを発表すれば、金も名誉も思うがままだろう……。
誰だ……君は……。
いらないのか……。それを……。
どうして……。そこまで……。
――またダメなのか。ここまでやれば死者でも蘇る。なぜだ……。まるで何人分もの死が旦那様に憑りついているかのようだ。こんなことが……。
…………。
…………。
――少しお休みくださいバスティーユ殿。あなたはよくやってこられた。ここでの研究はこの国の錬金術史に確実に残るでしょう。だから、少しでも睡眠を……。
――心配は不要だ。実験に戻れ。……こんなことで……失ってなるものか……。ようやく見つけた……おれの……。
――シノホルン司祭の話では、お子様たちはもうすっかりよくなったそうです。子供は逞しいですな。
――…………。
――本当に驚くべきお子らだ。まさかニーズヘッグの生爪を剥がして持ってくるとは。こういう言い方は高貴な方々には似つかわしくないでしょうが、正にド根性……。いえ、執念と置き換えてもいいかもしれません。
――…………。今、何と?
――失礼しました。無礼なことを申しました。
――いや……そうではない。ど根性……その後は?
――執念……でございますか?
――…………! !!!! そう、だ……そうだ……そうだッ……! 錬金術ではダメだ。だが魔導錬金術なら術者の素養で結果が大きく上振れる可能性がある。素材に使う触媒に関しても。あえて薬を不安定な状態にして、使用者の干渉を受けやすいようにして……! 今まで調合薬を受け付けなかった旦那様の体も、お嬢様の執念があれば……いや……“愛”があれば……ッッ!!
…………!!
…………!!!!
…………!!!!!!!!!!!!
※
「死んだか?」
第一声がそれだった。
俺はヴァンサンカン伯領の領主、ザイゴール・キア・エムス・ヴァンサンカン……だった男。今は……どうだ?
ベッドから身を起こして周囲を見回した。
仕事の合間にちょっとしたお茶を楽しむためのティーテーブル。ピケの町や自然を描いた風景画。盗賊時代の懺悔録を隠した本棚。アークエンデが嬉しそうに持ち込んだ自分用の小さな椅子……。何から何まで、大切な記憶通りの俺の部屋だ。
頭の中がクリアだった。少し前まで閉じかけていた思考領域が、隅々まで広がっているのを感じる。いや、それどころか、頭からはみ出ているような気すら……。
俺は何だ。
俺は、どうなった……?
「お父様……?」
ふと、声がした。
扉のところを見ると、顔をのぞかせたアークエンデが目を真ん丸に見開いていた。
そこから、宝石よりも大切な涙がぼろぼろとこぼれだす。
俺の目からも自然と熱いものが溢れていった。
「お父様、お父様ああああ!」
「アークエンデ……。アークエンデ!」
駆け寄り、飛びついて、泣きじゃくる彼女を、俺も泣きながら抱きしめた。
生きている感じがした。
「父さん!?」
「領主様!?」
バタバタと足音が近づいてきたと思ったら、オーメルンとシノホルンだ。
「バカ野郎、バカ野郎ッ……! 心配……させんなよおおお……! わあああ……」
「よかった。本当によかった。天と地の盟主よ、感謝いたします……感謝いたします……! ああっ、神様……」
二人はベッド際に駆け寄ると、わんわんと泣いてくれた。
俺は、生きている。間違いなく。みんなの前で。
目も開けられず、声も出せない世界で俺は確かに聞いていた。誰かの苦悩。誰かの努力。
皆に助けてもらった。救ってもらった。
血の代わりにこれならいくらでも流していい、とばかりにさんざん泣き終えて。
「……アークエンデ、オーメルン? その髪はどうした?」
俺はそこで不思議なことに気づいた。
二人の髪の色が記憶と異なる。今、どちらも煌めくような銀色をしているのだ。
「ぐすっ、領主様もですよ」
涙声のシノホルンが手鏡を見せてくれた。
そこには相変わらずの陰気な目と、少しはマシになったかもしれないクマに加え、子供たちと同じ銀髪が生えていた。
「竜の血の副作用だそうです」と彼女が続けて教えてくれる。
「古来より、神聖なる竜の血を浴びた者には不思議な力が宿るといいます。それを飲んだことで不死身になったという英雄の逸話もあるほどです。まさか不死かどうか試すわけにもいきませんが、髪の色が変わるくらい何ら不思議はありません」
「そうか……」
俺を救うための薬は、ニーズヘッグという竜から作られたらしい。すべてベッドで聞いた話なので詳しいことはわからないが、とてつもなく恐ろしい怪物だという。
それをやってくれたのは、アークエンデとオーメルン。二人とも死にかけながら……俺のために、その爪の欠片を持ち帰ってくれた。
そんな危険なこと、絶対に許すべきじゃない。大人は子供より先に死ぬものだ。親としてその無謀を叱らないといけない。でも詰まった胸は、俺に何の言葉も吐き出させずに、ただ再び涙を流させた。
俺はこの二人に愛されたのだ。自分の命を危険に晒せるほど大切な存在として認められたのだ。その意志と、そして二人に救われた俺自身を、俺は決して軽んじてはいけない……!
「二人ともありがとう。俺のために危険な真似までして。本当にありがとう……」
俺はアークエンデとオーメルを抱き寄せた。かじりつく二人のすすり泣きが聞こえた。
「バスティーユにも礼を言わないとな。彼はどうしている?」
オーメルンが鼻を思い切りすすりながら、へっ、と無理に笑った。
「あいつなら昨日の朝から爆睡してるよ。あんな気持ちよさそうに寝てるバスティーユ、今しか見られないぜ」
メチャクチャ頑張ってくれたもんな。何が性格Zだよ。Zuっ友だよおまえ。
「お父様。わたくし、もっとお父様と一緒にいたいです。離れ離れになりたくない」
アークエンデが目を涙に濡らしたまま俺を見つめた。
真剣で真摯な眼差しだった。
「だから、まだユングラントには行きません。もっとお父様の元で、幸せに囲まれて暮らしたい。許していただけますか?」
「……ああ。俺ももっとおまえと一緒に暮らしたい。……ダメな父親だ」
「お父様はダメなんかじゃありません! ……いいえ、いっそもっとダメになってくださいまし。わたくしの愛に溺れるダメなお父様に……」
「それは……ハハ……。色々と怒られそうだ……」
俺の体は確実に死に向かっていた。いや、死に帰ろうとしていた。誰にも引き止められないほど強く。それを、この世界の人々が呼び戻してくれた。
俺が……こうして生きて物語っている俺が、矢形修字郎なのかイーゲルジットなのか、もうわからない。今の俺にはザイゴール・ヴァンサンカンという不思議なアイデンティティがある。
きっと、始めろということなのだ。
後日談でも前日譚でもなく、今この時を。俺たちの物語を。
「これからも、これまで以上におまえたちを愛するよ。アークエンデ、オーメルン」
「お父様……」
「父さん……」
横で鼻をすする音がした。シノホルンだ。
彼女が子供たち二人の看病をしてくれた。竜の血の血清も作ってくれた。お礼を言っても言い切れない。
「あなたもだ、シノホルン。子供たちを助けてくれてありがとう。あなたを愛している」
「はい…………。ふえっ……!?」
満足そうにうなずこうとして――シノホルンの顔がピタリと停止した。
「あ、愛……?」
彼女の首元から熱を思わせる赤みがせり上がってくる。
紅潮したシノホルンは、両手で顔を隠しながら、
「わ、わ、わたしも、りょ、領主様のことを……あ、あ、あい……」
「お・と・う・さ・ま……?(怒)」
彼女の言葉を押しやったのは、地の底から響くような愛娘アークエンデの声。
ビキッ! バキバキバキバキ……。
「へ……?」
「わ・た・く・し・だ・け・を・見・て……!! バキィン!!Σ<煉><〇>」
「わ、わあぁぁぁ……」
この逆らったら世界が終わりそうな眼圧。肌をびりびりと痺れさせる感触。
そ、そうだ。これが、生きてるってことだったよなぁぁぁ……。
おかえり伯爵。
というわけで物語はここからダメな方へと進んでいきます。