第十四話 伯爵は蘇り、そして死に帰る(前編)
「ウウム……これは確かに驚くべき素養ですな」
医者がそうするようにアークエンデの瞳をのぞき込んだり、謎の棒を額にかざしたりしていた老魔導士は、一通りの作業を終えたところでそう驚嘆を表明した。
「お嬢様は十年に一人、いや百年に一人の逸材でございますぞ領主様」
「本当ですの!? お父様、やりましたわ!」
両目いっぱいに歓喜をたぎらせるアークエンデが振り返るここは、ピケの町の片隅、老魔導士が開く魔法の店の中だった。
先日のアークエンデとアルカナの刻印同時発動という、煉界症候群患者なら病状悪化間違いなしの神シーンから数日。屋敷を縛り上げたスノーホワイトとスイートソーンの花もようやく枯れ、あまりにも強力すぎるアークエンデの魔力を一度専門家に見てもらおうという流れになった。
察してはいたが――結果はやはり半端ないことに。
目の周りにまで広がった〈執着〉の刻印第三段階というのは、ナンバリングを重ねるごとに危機のインフレが進む『アルカナ』シリーズでも最新に近い『4』で初めて登場する能力だ。
ちなみにこれを発動したのはアークエンデというわけではないのだが、彼女以来の〈執着〉の刻印持ちキャラということで、やまとさんを含む煉界患者界隈では局地的な盛り上がりを見せたという(蛇足だが、シナリオは相変わらずでゲームの評価も同様で……。悲しいなぁ……)。
「すぐにご自分の触媒を用意した方がよろしいでしょう。このままでは体のどこから余剰魔力が溢れるかわかりません。幸い、うちではヴァンサンカン領で手に入るほとんどのものを扱っておりますので」
「カタリストというのは?」
小さな椅子から腰を浮かす老魔導士に動きを合わせつつ、俺はたずねた。
「俗にいう魔法の杖というやつです。店の壁にかけてあるのがそうです。実際のところは杖というより短い棒ですな。道具として手に持つことで意識の集中を手助けしてくれます。本当は増幅の機能も備えているのですが、お嬢様の地力を考えると、そよ風の足しにもなりますまい」
店内の壁には老魔導士が説明してくれた短い棒がいくつもかけられていた。この世界では全員が何らかの魔導素養を持つが、実際に魔法として出力できるのはごく少数。よって、このお店の需要も決して高いとはいえない。それなのにこの品揃えは、確かに言うだけある。
「好きなものを選んでいいよ、アークエンデ」
「本当ですのお父様!? そ、それなら……」
アークエンデは羽が生えたみたいにうきうきと店内を見回した。
「あっ……これ。とても綺麗ですわ」
彼女がそうため息を漏らしたのは、どことなく小さなレイピアを思わせるカタリストだった。子供がヒーローごっこをする時にかざす剣のような。先端はもちろん尖ってはいないが、銀色の細工と光沢は本物の美しさを秘めている。
「よろしいのですかお嬢様。こちらの花を象ったものの方がより女の子らしいですが……」
「ええ。これがいいのです。わたくしはお父様と共にこの領地を守る者。花はお屋敷に咲いていますから、わたくしは剣を持たねば」
おお……と俺と老魔導士は揃って驚嘆する。
アークエンデは多分まだ中学生になってないくらいの年齢だ。それがここまで大人びた発言をするとは……。
何だか魔力だけでなく、人として急成長を遂げているような気がする。
付き人を得て、無二の友を得て。彼女の世界はどんどん広がっている。そこに占める親の割合とは対照的に。
「わかった。では、それをもらおう」
「ボルなよ、じいさん。こっちはちゃんと目が利くからな」
横合いからオーメルンが野次を飛ばすと、老魔導士はそれまでの慇懃な態度を一変、親しみのこもった好々爺の苦笑いとなり、
「わかっとるわい、この間までエルバンのところで死んだ魚の目をしておった坊主が。急に星空みたいにきらきらしおってからに。領主様と暮らすのはそんなに幸せか?」
「べっ、別にそういうんじゃねーし。もう俺には仕事があるから、それをやってるだけだし」
二人は顔見知りだったようだ。そうだ、この世界の人々はどこかで交わり、通じ合っている。俺が見ている範囲だけが世界じゃなく、俺の方こそほんのささやかな世界の一部に過ぎない。
「さあ、アークエンデ。受け取ってくれ。これからのおまえに、たくさんの幸せがありますように」
老魔導士から受け取ったカタリストを、俺は真心と共に彼女に差し出した。彼女は目を輝かせ、そして高揚した顔で受け取った。
「ありがとうございます、お父様……! アークエンデはこれを一生の宝物にします……!」
その瞬間だった。
アークエンデが手にしたカタリストが、突然異様な光を放ち始めた。
「なっ……これは……!」
驚く老魔導士の声も追いつかぬまま、変化は一瞬のうちに完了する。
オモチャのように小さく短かった剣先は鉄芯のように伸び、柄をわずかに飾っていた装飾は、より精緻で大きな形状へと変化していた。
「まさか、カタリストの侵食とは……」
俺たちがぽかんとしたまま何も言えない中、老魔導士だけが奇跡を目の当たりにした者の声を発した。
「領主様、これは、魔力が物質に干渉するという非常に珍しい現象です。千に一つ、いや万に一つの相性がなければ起こり得ない。しかし……そうです、〈執着〉の刻印。自分がこれはと決めたものに対し、並々ならぬ集中力を発揮するお嬢様の刻印ならば……あり得ます……!」
それから彼は、熱に浮かされたような目と言葉で、
「領主様、お嬢様をすぐにユングラント魔導学園へ入学させなされ。試験など一瞬で通り抜けましょう。今から正しい理論と技術を身に着ければ、お嬢様はいずれ建国以来の大魔導士になりますぞ……!」
誰もが驚いていた。アークエンデ本人もだ。
ユングラント魔導学園への入学。
それはある意味、アークエンデの前日譚の終わりを意味する。
アリなのかもしれない。
アークエンデは変わった。
屋敷の環境は良くなったし、付き人のオーメルンは真っ直ぐな少年だし、何よりアルカナと仲良くなれた。彼女とは違う学年になってしまうが、今の二人ならそんなことを気にせず、楽しい学園生活が送れるはず。
「お父様……」
アークエンデの揺れる瞳がこちらに向く。喜び、戸惑い、不安、恐怖、色んなものがいっぺんに注ぎ込まれて、溶け合うこともできずにただ震えている。
俺は、彼女を助けるためにここにいる。その時が来たら彼女の背を押さなければいけない。
「ああ」と俺はうなずいた。
「行っておいで、アークエンデ」
彼女の巣立ち。
俺との別れ。
いずれ必ず来るものが、この時に来ただけ。ただそれだけのこと。
「は……い……」
返されたアークエンデの言葉が、賛否のどちらかを示したものかもわからず――。
俺が倒れたのは、その日の夜のことだった。
※
声がする。
――なぜ今、突然……。
――前回と同じ症状……。
――完治していなかった……。
――お子様たちには休めば治るとは伝えましたが、二度目はもう……。
――もし助かる方法があるとすれば……北の……魔竜ニーズヘッグ……爪ぐらいしか……。
誰かが俺の部屋で話しているらしい。
何だこれは。
手も足も動かない。
ゆっくりと体が閉じていくような感覚。
これは……死なのか?
……そうかもしれない。
終えたから。アークエンデにしてやれることは、だいたい。
そうか、ここまでなのか神様。もう、十分なんだな。
それなら……感謝しないとな。
何者でもなかった、何者にもなれなかった俺は。
ザイゴール/矢形修字郎/イーゲルジットは。
少しだけ、親になれたのだから。
※
「お気分はいかがですか旦那様」
「ああ……風が気持ちいいな」
バスティーユへの返事はウソもいいところだった。草木が揺れているので風が吹いているとわかっただけ。本当は何も感じない。感じられない。
俺はすぐには死ななかった。
倒れた二日後に目を覚まし、食事も少し取って、今は気晴らしとして車椅子で庭に出されている。
バスティーユが付き添ってくれていた。彼の声もどこか遠く、気を張らないと聞き取れない。その気も、霞のように薄いものしか残っていなかったが。
「……子供たちのことを頼む」
知らず、そんなことを告げていた。
「弱気なことを。休めばまたよくなりましょう。少し無理をし過ぎただけです」
「優しいな。性格Zは訂正しろ」
「……どうでしょうね。内心ほくそ笑んでいるかも。旦那様が亡くなれば、領内は私の思うがまま。それでも、あの面倒な子らの相手は恐らく本気でイヤですがね」
何でだろうな。いつも本心なのか冗談なのかわからない毒舌なのに、今はとても寂しそうに聞こえてしまう。ウソだろう。いつもの調子で突き放してくれよ……。さっさと逝け、後は任せろって……。
「アークエンデとオーメルンは?」
「朝から姿が見えませんが、礼拝堂でお祈りでもしているのでしょう。彼女らには、それくらいのことしかできませんから」
「そうか……」
まぶたが重くなってきた。そろそろ部屋に戻りたい。
考えが、まとまらない。思考が鈍い。
緩慢に死んでいくのだ。じわじわと、まわりに哀しみを染み込ませながら。
これが神様の恩情なのか、残酷さなのかはわからない。
ただ、死が怖いという気持ちはなかった。
二度目だからじゃない。
寂しい。申し訳ない。そんな感情はある。
きっと、俺が一人じゃないからそう思うんだろう。
※
起きているか、寝ているのか。
まだ生きているのか、もう死んでいるのか。
死と夢の境界線上で、俺は外の音を聞く。
――お嬢様とオーメルンはどうした……。
――屋敷のどこにもおりません。町の者の話では、子供が二人で北の……。
――バカな……。まさか医者のあんな与太話を信じて……。
――傭兵団に捜索を頼みましたが……彼らにとっても……危険……不可能……。
屋敷の中で何かが起こっているのか。
子供たちに何かがあったのか。
ああ、考えられない。何かを感じないといけないはずなのに、感じられない。
死がどんどん重くのしかかってくる……。
※
「お気分はいかがですか、領主様」
「だいぶ……いいかな……」
体の重みも、思考の鈍さも、もはや感じない。
薄い。俺が、薄い。
体はむしろ軽いとさえ思った。空洞の軽さ。空っぽになりかけている人間の、軽さ。
車椅子で外に出ていた。
目覚めたのは三日ぶりらしい。
椅子を押してくれているのは、シノホルンだった。
バスティーユは何かに忙しく走り回っているらしい。
何だったかな……。何か、とても大切なことがあったような気がするのに、思い出せない。
けれどその心残りだけが、俺をまだ生きながらえさせている。そんな気がした。
「ごめんなさい。ごめんなさい領主様……わたし……わたし……」
シノホルンが泣いている。どうして? そうか、俺が死ぬからか。そうか……。
「わたしがもっと医療に長けていれば……! そうすれば、領主様も……あの子たちも……。なぜわたしはここまで無力なのですか……!」
「悲しまないで、ほしい……」
考える力すら残されていない俺は、体のどこかに染みついた何かから、声を絞り出していた。
「あなたが傷つけば俺は悲しいと……前に言ったな……」
「! 領主様……ううっ、うううっ……!」
歯を食いしばり、懸命に嗚咽をこらえようとするシノホルン。
すべてが悲嘆に暮れていた。これまでの明るい世界がウソのように。
これまでの……? どんな世界だったのだろう。それももう、わからなくなってる。
こんなものを見ながら、俺は消えていかないといけないのか……。
その時だ。
ふっと、匂いを嗅いだ気がした。
何もかもが鈍く薄暗い感覚の中、一つだけ清涼で爽やかな。
花の匂い。アークエンデがアルカナからもらった、ホワイトスノーの香り。
俺は引かれるように手を伸ばしていた。もはや神経なんて一本も通っていないような、がらんどうの腕を。
その先に――確かに見えたんだ。
アークエンデが。
「お父……様……」
「アークエンデさんっ!?」
シノホルンが裂けるような悲鳴を上げる。
アークエンデはボロボロだった。服はあちこち破れ。体は擦り傷だらけ。腰にもはや原型をとどめていないレイピアの残骸。そして濃い紫の異様な液体で全身を濡らしている。
彼女は、オーメルンを背負っていた。ぐったりとして動かない、アークエンデと同じくらいボロボロの彼を。
そして、アークエンデは腰に巻き付けた縄で、奇妙なものを引きずっていた。
一見して何だかわからない、生物のような、岩のような、ひび割れた物体。ただそこから紫の液体が滴っているのだけはわかった。
「アーク……エンデ……。オーメルン……。二人とも……帰ってきて……」
「お父様……これで……お薬を……」
互いに手を伸ばし。けれどそれはあまりにも遠いまま、俺はまぶたが落ちてくる瞬間、同じようにアークエンデも倒れる姿を見た。
「領主様! アークエンデさん! だ、誰か、誰か来てください! 誰かああああっ!」
シノホルンが泣きながら叫んでいるのが、暗闇の中、遠く遠く聞こえた。