第百二十九話 人間を奪った怪物
不明の第七種の正体は、人間。
そして今人間を名乗る者たちの本当の名は、イヨル。
それがその場に染み込むまで、実に十数秒の時間を有した。
「……え……?」
と呆けた声を出したアークエンデがきっかけとなり、天と地の位置を取り違えたような動揺が皆の足元を揺らしだす。
「え? え? そ、それってどういうことだよ父さん?」
「煉界人が、人間……? それで我々の本当の名がイヨルだと……? 何の冗談だ姉さん……」
オーメルンやマスカレーダが俺とエクリーフに問いただしに来るも、こっちだって情報が脳の端で目詰まりしたままだ。
突然明かされた不明の第七種の正体、そして……。
「イヨルってさ……アンサーが言ってたやつだろ……」
再度呼びかけてきたオーメルンの声にうなずき返す。
〈イヨルの声〉。ヨハンの祖父が彼に残した言葉。それをこんな異様な話と共に耳にすることになるとは……。
「お父様……わたくしたちが人間ではないって……」
すがるように寄ってきたアークエンデの肩を支えてやる。彼女の顔にも動揺が染み込んでいた。
本を投げ捨て、泣き伏せるシノホルン。多少の禁忌なら好物のはずのエクリーフがここまで気落ちしている事実。二人の異様な態度が、この話を単なる珍説では済まさせなくさせている。そしてそれは時間と共にさらに深く、深刻に……。
「――その本の信憑性はどれくらいなの?」
そんな爆発寸前の混乱の上に、静かに投じられる一石があった。
腕を組んでいつもと変わらぬ面持ちのベルゼヴィータだ。
「その手の古い本って、デタラメが書いてあるのも多いのでしょう? 教団内部の権力争いとかなんとかで……。エクリーフ?」
その通りだ。人は不安を煽る者の方になびく。99の事実より1の不確定要素に揺さぶられる。だから俗に偽書と呼ばれる対立派の聖本には、主流派の主張を揺るがす不安要素がぶち込まれていて当然……! それを一瞬忘れていた。
「この本は……聖ジャスレイという教会初期の聖人によって書かれています。記録のほぼない謎の多い人物です。内容は……日々の記録といった意味合いが強いでしょう……。盟主と人々の交流が他に類を見ないほど多く書かれており、その人となりがうかがえます。そして登場する他の初期聖人たちの描写も、教会にすでにある記録と一致していて……歴史的資料としては一級品の価値を持つでしょう。た、ただ……確かに……この第七の種族についての記述は、他の史料で慎重に検証する必要が……」
「それは事実」
打ち消された。エクリーフがかろうじて吐き出した慎重論がたった一言で。この場においては誰よりも正しい歴史を口にできるただ一人によって。
スノーカイン……!
「洪水の前、人間とイヨルは遠く離れて暮らして関わることはなかった。でも、あの日。あの嵐の日、イヨルたちはセルガイアと共にわたしたちの船を沈め、その名を、そして人間の歴史を乗っ取った。それこそが本当の緘黙。押し黙った罪……!」
彼女の語る降り積もるような怒りが、言葉の形を成して俺たちの肩を圧してくる。
「どれだけ隠そうとわたしたちは知っている。わたしたちだけが、おまえたちの裏切りを覚えている。あれからずっと遺し続けてきた。想い続けてきた。どんな形になろうと、地上でどれほどの時間が経とうと……!」
煉界人たちが繰り返す悪罵。恨みの言葉。隠していたのは裏切りという罪だけではない。人間の名と歴史を乗っ取った。我が物とした……!
誰も、否定できる者などない。彼女以上の当事者がどこにいる? その怒りこそが信憑性だ。煉界人たちが霊魂だけの存在になりつつも消さなかった意志と、怒りが、何よりの証拠だ。
彼女の怒りの声がさらに告げる。
「わたしたちの目的はイヨルから“人間”の名を取り戻すこと。――そして今度こそ、人間として滅びること」
『……!?』
「わたしたちはもう誰も助からない。元の形に戻れることも、元の家に戻れることもない。ただ、正しく滅びるために。種族として正しい終わりを迎えるために。わたしたちはあの日、戦うことを決めた」
……なんてことだ。彼女はかつて言っていた。自分の目的は人間を滅ぼすことだと。あれはこういう意味だったのか。俺たちを滅ぼすということではなく……自分たちを……!
人間族はもう絶滅するしかないのだ。だからせめて人間と言う本来の名と共に。
こんな、こんなどうにもならないことが、スノーカインたちの望みだっていうのか……!
「どうして……今まで黙っていましたの……?」
俺のシャツを強く握ったアークエンデがかすれた声を絞り出す。
これまで語る機会はいくつもあった。しかし彼女はずっと回答を拒否し続けた。
スノーカインの険しい目元が応じる。
「思い知らせるため。わたしがおまえたちの正体を暴いても、おまえたちは信じない。でも自分でたどり着けば信じる。恐れる。……悲しむ。だから知れ、今こそ緘黙の罪を。思い知れッ……! わたしは、この時を待っていた……!」
ここで決別するとばかりに、彼女は刺々しい声を叩きつけてくる。
子供たちだけでなく、他の者たちも怯えるように身を震わせる。
だが、本当にそうなのかスノーカイン。
ならどうして、俺から見える君の顔は今にも泣きだしそうなんだ……?
「スノーカイン……スノーカイン……」
消え入りそうな声が、頼りなく空間をさまよって俺たちの耳元に届く。
こわばった五指で自らの顔を覆ったシノホルンが、彼女に問いかけていた。
「あなたは……あなたは人間なのですね。教えて……ください。イヨルとは何なのですか。人間の名を奪った我々は、一体どういうものなのですか……」
お互いの顔を見合わせる仕草が、部屋の中でやり取りされる。
急に人間ではないと言われても、何か見た目に違和感があるわけでもない。スノーカインとの違いだってない。ではイヨルとは何だ?
「イヨルは……わたしは見たことはない。でもみんなが言っていた。イヨルはとても凶暴で、人間を見れば殺しにくる怪物だって。野蛮で、残酷で、優しさなんて微塵もない……」
「ああ……」と怯え震える声が、末期のため息のようにシノホルンの口から零れ落ちる。
「だとしたら、その中でももっとも邪悪で残酷な怪物がわたしです。わたしは盟主の教えを、教会の歴史を、人々に、幼い子供たちに伝えてきました。それを倫理とみなし、守るべき規範として……」
「そう……そうだ。おまえは、裏切者のセルガイアの手下だ。おまえはウソを教え続けてきた。セルガイアは人間を滅ぼそうとした。大勢を騙して殺そうとした。おまえもウソつきだ。おまえも、おまえの優しさも……おまえの、優しさ……うう……」
不意に、スノーカインの厳しく指弾する声が歪んだ。
そこから、これまで以上に苦しそうな言葉が漏れた。
「ウソじゃ……ない。おまえは、優しかった。おまえは誰にも優しかった……! 必死に病気を治そうとして……ビールケのパパたちを助けた。パパも、アークエンデも、オーメルンも、ベルゼヴィータもグノーもみんなみんな、わたしに優しかった……!」
俺たちははっとする。いつしかスノーカインの目から涙がこぼれていた。自ら胸元を締めあげるように掴みながら、彼女はさらに叫び続けた。
「じゃあどうして、どうしてわたしたちは許してもらえなかったの? どうしてわたしたちだけが嵐の中見捨てられたの? どうして、どうして、わたしたちだけが、もうここに居ないの……」
「スノー……カイン……」
俺は思わず彼女を抱き寄せていた。そうしなければ、彼女が砕け散ってしまうように思えて。
「みんな、笑ってた。みんな、幸せそうだった。わたしたちだけがそこに居ない。わたしたちだけがもう誰も居ない……! みんな死んだ。みんな、これから消えていく……!」
胸の中で彼女が悲痛に叫ぶ。
その音に震える俺の体にも痛みが走る。
やっぱり、そうだ。
スノーカインはもう俺たちと敵対していなかったのだ。
でもここで何も言わないわけにはいかない。彼女は操霊機の巫女。煉界人たちの――いや人間の最後の生き残りとして、俺たちに告げなければいけないことがある。
避けることも、そして後悔することもできない。それが彼女の役目だった。
そして俺たちも、また。
「ああ、ごめんなさい……ごめんなさい……」
深く傷つけられたもう一人。
静かに、嗚咽を漏らしながら謝り続けるシノホルン。
スノーカインの慟哭は、彼女を削る刃そのものとなっていた。もはや滅びるしかない人間族。それをもたらした盟主とイヨルの裏切り。そうとは知らず誤った歴史を広め続けた自分。すべてが彼女を苛んでいる。
彼女の中で、何かが重々しく胎動するのが伝わった。
それは彼女の内側を破壊し尽くし、皮だけを残して別の何かに作り替えようとしていた。
ああ、つまりは。正史のシノホルンが辺境で本当に出会ってしまったのは、疫病やそれにまつわる惨劇ではなく、この秘匿された真実だったのかもしれない。
命の儚さ、盟主の教えの無力さなどではなく、盟主自身による裏切り、名の簒奪……。だからこそ彼女は、絶望と贖罪の中で世界を滅ぼす禁呪に救済を求めた。
止めなければ。今ここで。でないと彼女は完全に壊れるぞ……!
だが、どうやって? 彼女は『ロンギヌス写本』を直に読んでいる。闇に直接触れてしまっている。何も知らない俺がどう声をかければ――。
「シノホルン」
ひどく落ち着いた声が、背中を丸めて震える彼女にそっと降りた。
意外なことに――それはルーガだった。
シノホルンを守るべく屋敷からついてきた少女。その彼女がそっと肩を抱く。
「わたしはおまえの優しさが本物だと知っている。盟主に関係なく、おまえの心が優しさに満ちていると知っている」
びくりとシノホルンの背中が震えるのがわかった。自分の心。それは今一番彼女が疑い、呪うものに違いなかった。しかし構わずルーガは踏み込んだ。
「わたしはあの島で鬼の子と呼ばれ恐れられていた。でもおまえはそんなわたしにも他と同じように優しく接してくれた。おいしい料理を作ってくれて、服屋の準備も一緒にしてくれた」
「わたしもそう」
もう一人。ソラもまたシノホルンに寄り添う。
「わたしが盟主の像を壊して町の人たちから罰を受けそうになった時、シノホルンはかばおうとしてくれた。一番怒っていたのに、助ける道を探してくれた」
二人がここにいることが、シノホルンの真心の何よりの証。
それは揺るがしようのない彼女の歴史だ……。
「おまえが怪物なら、わたしはもっと大きな怪物になろう。そしてその力でおまえを守ろう」
「今度はわたしがシノホルンを守る番!」
普段は特に何も言うことなく、シノホルンを手伝う二人だ。これだけはっきりと感謝を口にするのは初めてだった。
その言葉を受けて、まるで地に着くようにうな垂れていたシノホルンの泣き顔がわずかに持ち上がる。
「ルーガ、ソラ……わたしは……許されるのですか……?」
二人は笑った。
「許す。おまえがダメなら、他の誰が許される?」
「みんながシノホルンを許すよ。盟主がウソをついても、シノホルンはウソつかない」
「でも、でも……わたしにそれを受け取ることは……」
「受け取ってあげなさい」
三人目の呼びかけは、ベルゼヴィータからだった。
「あなたはこれまで多くの人を助けてきた。ではあなたが窮地に陥った時、助けてくれるのは誰?」
彼女の声は気品と、それから自信に満ちていた。
「わたしは答えを知ってる。これまで助けてきた人たちが、あなたを助けてくれるのよシノホルン司祭。それがあなたが今日までしてきたことの正体。それは邪悪なこと? ルーガもソラも悪い子たちかしら?」
「ベルゼヴィータさん……。いいえ、違います。ルーガもソラも、とてもいい子たちです」
「なら感じてあげて、二人からの感謝を。そして受け止めてあげて。それがあなたなの。あなた以上に、みんながそれを知っている。それはあなたにも否定できない」
「……!!」
彼女の前に引かれていた後戻りできない線が、ふっと掻き消えるのを、俺は感じた気がした。
そうだ彼女は孤独ではない。支えてくれる強い友がこんなにもいる。
それらを含めた今のシノホルンの強さは、禁呪を紐解いた黒い聖女の比ではない。
「ルーガ、ソラ、ありがとう……」
「このくらい何でもない。おまえがわたしにしてくれたことに比べたら」
「泣かないでシノホルン。シノホルンは何も悪いことしてないよ……」
抱き合う三人。それを見て、俺の中にも勇気がわいてきた。
この場にわだかまる無力感の正体は、もう滅ぶしかない人間族と、その名を乗っ取ったイヨルの秘密だ。
これを聞く前と聞いた後では、もう世界はこれまで通りにはいかないだろう。
だが、このまま潰されてたまるか。
「もっと知ろう」
反撃するんだ。
俺はスノーカインを強く抱いたまま、皆にその声を広げていた。
「きっと俺たちが知らない秘密がまだある。ここで立ち止まったら俺たちはやられっぱなしだ。ヴァンサンカン領の主として、それは容認できない」
「――! そうだぜ父さん! こうなったらとことん知り尽くして、そいつも乗り越えてやろう!」
「その通りですわ! そもそも! 盟主様が人間を滅ぼすつもりなら、最初から箱舟になんか乗せなかったのではなくて? 矛盾には大きな秘密が隠されているものですの!」
子供たちも威勢よくそこに便乗してくる。
なるほど……確かにアークエンデの言うことはもっともだ。スノーカインも歴史のすべてを知っているわけではない。箱舟に乗った時の彼女はきっと今より幼かっただろうから。
にわかに場が活気づく。
「シノホルン司祭。つらいかもしれないが翻訳の続きを頼めるだろうか。イヨルが本当に怪物で簒奪者なのか。まだ本には続きがあるはずだ」
「……わかりました……! 聖ジャスレイも、懺悔の気持ちからこの本を残したとは思えません。あの時本当は何があったのか、突き止めてみたいと思います……!」
涙を拭って、力強く応じてみせるシノホルン。間近まで迫っていた闇の気配はもうない。
歴史の闇は依然として突き付けられたままだ。
だが、それを背負って進む。それが、この場に行きついてしまった俺たちの最大の抵抗。
「スノーカイン。俺は、何もかもが手遅れだとは思わない……」
「パパ……?」
「俺は覚えてる。柳凛公を救援に行った戦いで、うまく言葉を発せなかった子供の霊魂が、俺の手に触れた途端、少しだけ話せるようになったことを」
「! わたしも、覚えてる……」
「何か……まだ何かあるのかもしれない、手が。それを探すためにも協力してくれ」
「……わかった……!」
絶望と決裂の空気はもはやなく。再起の決意が俺たちの間を熱していた。
ロンギヌス高地。ここは本当に決戦の場に相応しい土地だ。俺たちの大きなゴールがすぐそばにある。俺たちの終わりと紙一重のところに。どちらにたどり着くかは、これから次第――!
「やあ……少々気になって見に来てしまいましたが、いらぬ心配だったようですね」
不意に、太平楽な声が、盛り上がった空気を和ませにきた。
日向で寝転ぶ猫の声音に引き寄せられた目は、すぐにその人物を特定する。
「あっ、ハゲだ」
「どうも。皆さん、大変なピンチに見舞われたようで何よりです」
ソラの暴言を無視し、旅の杖を軽く持ち上げ挨拶したのは小坊主姿の竜人ハーフ。テポーン老師だった。
今さらのこのこ現れるハゲ。
※お知らせ
諸事情により次回投稿は一日遅れの4月1日です。また、その次の投稿も一日遅れて4月4日となります。
それ以降は今まで通りの隔日投稿に戻ります。




