第百五話 雷雨の来訪者
スノーカインが屋敷に来てから数日がたった。
その間、進んだことと言えば、スノーカインが毎食オムレツを食べるようになったくらいだ。
煉界のことや箱舟についてはまだあまり話さない。
ただ少しだけ、彼女は家族とそして自分のルーツについて語ってくれた。
「わたしにはお姉ちゃんがいた」
「お姉ちゃんが、みんなの中で初めて“新しい形”になった時、わたしは〈操霊機の巫女〉になった」
「でも、それ以来お姉ちゃんとは会っていない」
素直に読み解くのなら、スノーカインの姉は不明の第七種が煉界人として生まれ変わった、その第一号。
それは命を賭けた実験でもあっただろう。そうして煉界人たちは安全性を確認し、今の形になっていったのだ。
だが、彼女はそのままいずこかへと姿を消してしまったらしい。実験が失敗だったのなら、後に続く人々も同じ末路をたどったはず。そうなっていないところを見ると、なぜ彼女が行方をくらましたのかは不明だ。
「あのペンギンは、お姉ちゃんがくれたもの」
箱舟に作られた最後の人の住処。あそこには確かに小さなペンギンのぬいぐるみがあった。
俺は裁縫が得意だというトモエに頼んで、同じようなものを作ってもらった。
彼女は占拠した俺のベッドの上で、いつもそれを横に置いている。
もう一つ重要なこと。
彼女が煉界に戻れないことの弊害について。
〈煉界の氾濫〉の心配は、今のところないらしい。
煉界人たちと一緒に地の底へと戻っていった函――“灯精の函”というそうだが、あれは巫女が起動せずともそこそこの機能を発揮し、さらに地上のホットスポットで大量のミアズマを回収していったから、当面は枯渇する心配がないのだそうだ。
彼女を煉界に帰すための期限に近いリミットがないことは一つ朗報だった。
今、俺はミアズマの安定供給について考えている。
煉界人たちは体を維持できる。地上は氾濫に脅かされずに済む。そんなWINWINの計画だ。
煉界にミアズマを直接送るか、スノーカインに持ち帰ってもらうか。ルートはこの二つが考えられたが、今のところ解決の目途はたっていない。
少しだけ停滞し、けれどもしかしたらこれが今できる一番の理想なのかもしれない、そんな平凡な日々。
だが、そんな中で事は勃発した。
窓の外は今にも一雨来そうな曇天で、俺が書類にサインを引くペンの音だけが、部屋の天井をぐるぐる回っている。
スノーカインはペンギンと並んで、今日も窓の外を見ている。
雨が降ったら彼女は驚くだろうか。そんなことをふと考えた矢先、鋭敏な盗賊の耳が屋敷へと近づく馬の足音を拾った。
一頭のみ、だが様子がおかしい。馬脚はひどく乱れ、しかし急いでいる。
何かがおかしな空気を運んできた。そう直感した俺は、すぐに席を離れてエントランスへと向かった。それを見たスノーカインも背後霊よろしくふわりと浮いてついてくる。
「伯爵、スノーカインとお出かけかい? 今にも降りそうな天気だけど」
曇天のせいでやけに薄暗い玄関口で、たまたま居合わせたユングレリオがそう声をかけてくる。
「いや、今、外に馬が来たようで」と返事をしたものの、ドアノッカーはいつまでたっても来訪の報せを響かせない。
不思議に思って俺が扉を開けるのと、雷光が世界を一瞬だけホワイトアウトさせるのはまったく同じタイミングだった。
堰を切ったように降りだす雨の中、一匹の立派な馬が、狂乱したかのような激しい息遣いを激しい雨粒の中に吐き出している。
何事だ。その鬼気迫る様子に、俺は一瞬言葉を失い……だが気づく。
馬の背中に、馬首にしがみつくようにして体を傾けた小さな人影。
「――ッッッ!? カグヨ!?」
思わずその少女の名を叫んでいた。
ヴァンサンカン領の東に位置するイルスター槍騎士領の姫、カグヨ・イルスター。長い黒髪と水のように静かな面差しが特徴の彼女は、だが俺の驚きの声に反応一つ示さず、ぐったりともたれかかったままだ。
「どうした、カグヨ!」
ただならぬ気配を察し、俺とユングレリオは馬に駆け寄る。
カグヨは泥だらけで、そしてひどく疲弊していた。
「しっかりしろ。何があった!?」
イルスターの姫たる彼女がお供もつけずに隣領まで来るなんてありえないし、この憔悴状態も尋常ではない。
まずは馬から降ろして屋敷に運び込もうと彼女に触れた直後、閉じていたまぶたが力なく開いた。
「伯爵様……」
「! カグヨ、無事か! 待ってろ、今屋敷に運ぶ」
そう告げて彼女を抱き下ろそうとした手を、ひどく冷たい手が掴み返した。
「どうかお助けください。このままでは、お父上が戦死されてしまう……」
二度目の雷光が視界を白く埋め、カグヨの残した言葉だけを俺の脳裏に強く焼きつけた。
※
「一体、何があったというのでしょう……」
さっきからアークエンデが落ち着かない様子で部屋を行ったり来たりしている。
当初は落ち着かせようとしていたオーメルンも、今はもう諦めたのか、部屋の隅で腕組みしながら窓を打つ雨粒を眺めていた。
あれから――。
カグヨはすぐに屋敷の空き部屋に運び込まれた。シノホルンたち医療チームが彼女の介抱に当たってくれている。
意識が戻ったら伝えるという言葉を信じ、俺は子供たちと共に自室に戻ってただ悶々と不安を募らせるだけだ。
「旦那様。イルスター家についてお伝えしたいことが」
部屋に入ってきたバスティーユが普段と変わらぬ事務的な口調で述べた。こういう時、淡々としている彼の声は逆に頼もしい。
子供たちもサンタが現れたかのように彼の元へと駆け寄り、続く言葉を待つ。
「カグヨ様がおっしゃられた戦死という言葉ですが、現在、イルスター家当主“柳凛公”は、王国からの任務にて不穏分子の討伐に出ているようです」
「不穏分子……まさか〈反貴族連盟〉か?」
「その末端と見てよろしいかと。このところまた活動が活発化しているらしく、ご子息らも総出で各地の鎮圧任務に当たっています。その結果、とうとう頭領自ら出陣しなければならないほど将が足りなくなったということでしょう」
「そういうのって結構秘密だろうに、よくそこまで調べたな……」
俺が関心してそうつぶやくと、
「何のためにトモエをそばに置いていると思っているのですか? 膝に乗せて愛でるのならば猫で十分でしょう」
「い、いや、俺はトモエにそんなことしてないよ。そっ、そうだな、彼女が連絡係だったか……」
アークエンデとオーメルンがムッとしてにらんできたので俺は慌てて釈明した。そのアホなやり取りのおかげだろうか、部屋の閉塞感が少し薄らぐ。
「それで……その任務の結果、柳凛公が負けそうだということか?」
「そういうことになりますね、カグヨ様の話通りならば」
うーむ、と唸った俺に、バスティーユは「おっしゃりたいことはわかります」との声を重ねた。
「柳凛公はウエンジット領の人狼公に並ぶ、我が王国きっての名将。地方で小競り合いを起こす程度が関の山の不穏分子に後れを取るはずがない、というのでしょう?」
「正にそれだ。さすが我がZっ友」
「確かに、たとえ度重なる討伐任務で動かせる兵がごくわずかだったとしても、柳凛公ほどの人物なら何とかできる……あるいは、それが不可能ならばそもそも出陣を遅らせるでしょう。少なくとも、勝つための準備をおろそかにして発つような拙速な人物ではありません」
「何かトラブルが起きたか……。それでカグヨは、あんなにボロボロになってまで俺のところに……」
「伯爵殿」
扉の向こうから神妙なタマネの声が聞こえた。部屋に入るよう促すと、彼女はいつになく深刻な顔つきで足を踏み入れた。
「馬の状態を確かめてござる。あれはイルスター領内でも俊足と頑健さで知られた“疾天馬”という種類で、領主家に献上される品でござる。その不屈の馬が半死半生でござった。恐らく、自領からほとんど休むことなくここまで駆けてきたのでござろう。無論、姫様も。どちらも並大抵の覚悟ではござらん……」
今のバスティーユからの話を裏付けるような報告。ますますさっきの予想が現実味を帯びてくる。
「馬は大丈夫なのか?」
「タガネが看てござる。ゆっくり休めば、また元通り走れるようになるでござろう」
そうか、と小さく返す。どちらも命懸けで俺のところまでやってきた。これは手をこまねいているわけにはいかない。
「イルスターに軍事的に援助するとなると、ウエンジットとのバランスに不均衡が生じかねません」
一応言った、という口調でバスティーユが説明してくれるが、俺の目を見てすぐに、「……が、我が領から兵を出すなら傭兵に任せることになります」と次の段階へと話を繋げる。
彼の言う通りヴァンサンカン領には領主の私兵というものが存在しない。二大騎士団の干渉地帯預かりという特別扱いから軍役がなく、歴史的にも傭兵業が発達していたためだ。もし援軍を送るとなればギルドに相談して今から兵を募集してもらわないといけない。
たとえ自前の兵団があったとしても、動き出すには時間はかかる。
「ご主人様」
再び廊下からの呼び声。トモエだ。
「カグヨ様がお目覚めになりました」
俺はたちは流れ出た水のように急いで彼女の元へと向かった。
※
「カグヨ……!」
「アークエンデ……」
俺がそっと開けた扉の隙間に、アークエンデがリスのように俊敏に滑り込んでいく。
ベッドわきにひざまずいた彼女は、親友の姫の手をしっかりと握り、
「よかった。目を覚まして。あなたが目覚めなかったら、わたくしどうしようかと……」
「心配をおかけしました。わらわは……無事にたどり着けたのですね……
」
雨と泥に汚れていた衣服を着替えさせられ、身なりも少し整えられたカグヨは、ベッドの中で弱々しくそう返事した。
「カグヨ」
「伯爵様……! お父上が……! ゴホッゴホッ!」
俺を見るなり無理やり身を起こそうしたカグヨを慌てて押しとどめる。
「大丈夫だ。気絶する前の君が少しだけ話してくれた。出征中の柳凛公がピンチなんだね?」
「はい……。どうかお父上をお助けください。もう頼れるのは伯爵様しかいません……」
普段の生意気さ、高慢さをを知るだけに、憔悴しきった顔で懇願してくる今の姿が痛々しい。
「たった今、傭兵ギルドに遣いを出した。何があったか教えてくれるかい?」
一応、その場で待機するシノホルンに目線で確認する。カグヨが話ができる状態かどうか。彼女の首肯に一安心。
「お父上は最小限の手勢で任務に出ていかれました。それで十分な相手だったのです。しかし、留守役の大兄様のところに届いた伝書によると、戦場には多数の“首無し石像”が飛び交い、見たこともないピンク色の怪物まで襲ってきたと……」
「なっ……!?」
俺たちは騒然となった。
首無し像にピンク色の怪物。それは煉界戦力……そしてイクシードのことじゃないのか。
「それ以降、連絡は途絶えたままに……。わらわはもうどうしたらいいか……。大兄様は領地を動けないし、他の兄様たちは別の戦場。そうなった時、伯爵様のことが思い浮かんだのです。ご無理なお願いだとは重々承知です。しかし……」
「よく話してくれた。ここまで頑張ったねカグヨ。この事態にわたしも全力で対処することを約束する。君はゆっくり休むんだ。馬も、屋敷の者が介抱して休んでいる」
「あ……ありがとうございます、伯爵様……!」
かすかな希望を掴んだ声は、しかしそれでもまだ沈んでいた。
疲れもあるだろうが、一番の問題は時間だ。屋敷とギルドには緊急用の食料備蓄があるので、傭兵さえ集まればすぐにも出発させられるが、戦場までの道のりは長い。それまで柳凛公が持ちこたえられるかどうか……。
「時間の心配なら必要ないわ」
不意に、夜のように静かで深い声が部屋を満たした。
思わず扉側へと振り返れば、そこにいるのはベルゼヴィータだ。
「今来たところ。失礼だけど話は聞かせてもらったわ。カグヨはわたしの友達で、『黒い翅』の大事なお得意様。騎翅を出しましょう。それですぐに戦場まで助けにいける」
「ベルゼヴィータ、それは助かる……!」
「いいの。それに、もう他人事じゃないでしょう?」
彼女の視線が、この場にいる関係者全員をなぞった。そうだ。煉界が関わっているとなれば俺たちは当事者だ。
「アークエンデ、会長様のおっしゃっていることは一体……?」
一人、騎翅の存在を知らないカグヨが、目をしばたたかせる。
「カグヨ。ベルゼはとてもすごい乗り物を持っていますの。空を飛ぶ生き物でしてよ。それさえあればあなたのお父様のところにもあっという間に飛んでいける。必ず助けられますわ」
「! そ、そんな……。アークエンデ、会長様、わらわは……ううっ……わあああああ……!」
感謝と歓喜と、それから安堵が一斉に押し寄せたのだろう。カグヨは何かが限界を迎えたように大声で泣き始めた。アークエンデがそれをそっと抱きしめてやる。
「すぐにみんなを集めるわ。伯爵さん、準備を」
「せ、拙者も同行させてくだされ! ご当主が出陣となれば拙者らのきょうだい“ハガネ”も一緒にいるはずでござる!」
「オレも行くぜ。ソラにも声をかけてくる!」
慌ただしく人が動き出す中、スノーカインも俺にこう伝える。
「パパ、わたしも行く。ピンクの怪物がイクシードなら助けないと」
「ああ。だが、あの函なしでもいけるのか?」
「他の道具がある。わたしは〈操霊機の巫女〉」
「よし、それなら……」
フルメンバーで出撃だ。
「ま、待ってください」
カグヨの涙声が、席を立とうとした俺の動きを止めた。
「わらわも連れて行ってください。お父上たちに話を通すには、それが一番のはず……!」
希望が彼女を強くしたのか、疲れ切っていたはずのカグヨの目に鋭く光る刃の輝きが宿っていた。
俺はシノホルンに目で問いかける。
「彼女の目立った症状は疲労だけです。体力さえ戻れば大丈夫だとは思いますが、今すぐにはとても……」
「だったら、一晩よ」
ベルゼヴィータが落ち着いた声で告げる。
「一晩で元気になれたら、あなたもつれていく。そうでないのなら……どうする伯爵さん?」
「その時はわたしがイルスターの旗でも掲げていこう。来賓用に玄関に飾っておくやつだが……何もないよりはマシだろう」
「わかりました会長様……! 必ず立ち直ってみせます! メイドの方々、わらわに御飯を持ってきてください! 肉を多めに! それからお新香も!」
すでに半分くらい回復した声を張り上げるカグヨ。この気迫はやはり騎士団長の娘か。俺は医療チームに参加していたメイドさんたちに指示を出す。西の大食い姫パンネッタがビビるくらいの量を持ってきてくれと。
こうしてイルスター領主救出作戦は開始された。
騎翅たちがいれば反乱分子なんて風の前の塵も同様。だが問題はもう一つの勢力。
イクシードが首無しセルガイア像を引き連れて現れるのは、『アルカナ・クロニクル』の最終盤面そのものだ。
しかしスノーカイン曰く、今は氾濫が起きない状態になっているはず。
これは一体どういうことだ……?
いざカマクラ!
前回、オムレツと書いた後ですべてのオムレツがオムライスに置き換わっていたようです。作者はオムレツという存在に不慣れすぎた……? 指摘修正してくれた方、ありがとうございます!




