第百話 光に惹かれて
イクシードの誘導が続いている。
いつの間にか頭上にはアークエンデたちを乗せた騎翅も追走してくれており、俺たちをハラハラと見守る視線が肩の上に感じられた。
「聞いていいか? これは何が起きている。君のまわりにいた“人たち”に何があった?」
油断、というわけではない。ただ突然の氾濫にも感覚が追いつき、少しだけ生まれた思考の余裕に、俺はスノーカインへの質問を詰め込んだ。
「…………」
腕の中から金の瞳でじっと見つめる気配。当惑と警戒の感情がのどのあたりをちりちりと焼きにくる。さすが視線を返してやるほどの余力はなく、視線を周囲に飛ばしながらも努めて温和な声で伝えた。
「悪意はない。〈煉界の氾濫〉は俺にとって……俺の大切な人にとってこの上ない厄災になる。……娘だ。だから氾濫を止めたいし、その原因が何なのかも知りたい」
さらに見定めるような沈思を置き、彼女は言った。
「……意志の汚濁。みんな煉界に耐えるために新しい“形”になった。でもそれを維持するためには力がいる」
あの逃げ場のない、世界のすべてに蔓延した炎熱。幻を見せられた今ならよくわかる。あれは耐えられないと。だが死を選んだのとも違う。同じ繰り言ばかりになってしまってはいるが、死霊や悪霊とは一線を画す何かがある。
「それを維持する力が足りなくなった結果が、あの赤紫色の姿なのか」
「そう」
スノーカインは少しためらう素振りを見せた後、さらに情報を追加した。
「みんなの器は、綺麗。だから汚れた死霊たちが中に入ろうと集まってくる。普段はそれを跳ね返すことができる。けれど、力を失っている時はそれができない。体を奪われてしまう」
あの白い霊魂のような姿から醜い肉塊になってしまうのはそういう事情があったのか。
煉界人たちはやはりあれで完全な霊魂というわけではないのだろう。何らかの肉体的なものをかすかに有していて、それが膨張して顕現しているのだ。それで普通の人間にも見えるし、破壊もできるようになった。
そのような存在が、煉界から地上へと這い上がってきているのが、〈煉界の氾濫〉という現象。
不明の第七種人類が、どうにか煉界で生き延びようと懸命に足掻いたこと。それがすべての始まりだったのだ。
「君はそれを癒せるんだな」
「……それがわたしの役目だから……」
少女はコクリとうなずいた。〈操霊機の巫女〉。魂の操り手にして、守護者。今掲げている函もそのための道具の一つというわけだ。
「今、それほどに君たちは疲弊しているということか?」
「…………」
「すまない、敵対している相手には言いたくない内容だったな。だがさっき、君はイクシードを見て驚いた様子だった。まだそうなるには猶予があったんじゃないのか? もう一度言うが、わたしもあれを阻止したいんだ」
「……そう。まだ猶予はあった。船を墜とされても、今ここで集めた分で足りるはずだった」
「原因はわからないか? 心当たりでも何でも……」
「……わからない」
「なるほど。よくわかったよ。ありがとう」
スノーカインのわずかに不安げな目線が俺を見る。これで勝利を確信した笑みでも浮かべていたら、彼女は今までのやり取りをすべて後悔するのだろうが……ある意味、追い詰められているのは俺の方だった。予想通りならば……。
「もう一つ、教えてほしいことがある」
これは極めて大事な質問だ。必ず答えを得なければいけない。
「今起きているものよりもさらに大規模な……。大きな津波のような氾濫が地上で起きた場合、その発生源である煉界は……君や君の仲間たちはどうなっている?」
答えの前に、さっき以上に長い沈黙が下りた。俺の提示した仮定がどれほど陰惨で忌まわしいものか、彼女の視線に生えた棘が明確に伝えてきている。だがこれは避けられない想定のはずだ。氾濫の原因がわからなければなおさらに。
ややあって、その回答が色の薄い唇から漏れた。
「その規模の氾濫が起きたのなら、多分煉界はイクシードで埋め尽くされている。わたしも、生きてはいない」
「……!!」
やはり……やはりそうだった!
俺は当初、イクシードを起こしたのはスノーカインだと思っていた。
だが今、彼女が「天の計」の黒幕ではないことが確定した。
『アルカナ・クロニクル』の最終局面において、彼女は氾濫に巻き込まれ人知れず死んでいるのだ! 大勢の煉界人たちと同様に……!
知らず力の入った腕に、スノーカインの戸惑う感情が俺へと伝わった。
「心配しなくていい。重要な情報が聞けたから後はポイなんてことは考えていない。むしろ……」
俺は彼女を見つめ、真剣に告げた。
「何が何でも君を守ると決めた」
「……!?」
半眼気味の金の双眸が大きく開かれる。
だがこれは俺からすれば当然の帰結。〈操霊機の巫女〉が存命なら〈煉界の氾濫〉を食い止める手段が生まれる。氾濫が不能ならそもそも「天の計」とやらも成り立たず、〈反貴族連盟〉が黒幕にそそのかされることもなくなる。
アークエンデはラスボスの階段をジェットでかっ飛ばず、か弱い女の子のままでいられるのだ! 勝ったなガハハ!
「さあ行こう。もうひと踏ん張りだ!」
これはその第一歩になる。俺は不思議と沸き上がった力を脚に込めて地を蹴った。
見えた。〈憤災戦争〉からアークエンデを遠ざける道筋が。もちろん不明の第七種との確執は何も進展していないわけだが、少なくとも掴む雲はわかった!
「うおおおお!」
目の前に現れた傾斜四十五度のほぼ絶壁を二本足で駆け上がる。
そんな壁の中からも氾濫が巻き起こる。地面に属するものならどこだろうと煉界へ繋がっているのだ。
「まだまだぁ!」
ここで限界というところで不可視の糸を飛ばし、崖の上の樹木を掴む。突進してきたイクシードにかすられ大きく揺さぶられるも、歯を食いしばって糸で復帰。荒く息を吐きながら最後まで登り切る。直後に来た二体も、すれすれで回避。
攻撃が激しくなっている。まるでこちらの意図を読んだかのように道を阻んでくる。
だがまだだ。まだ全然いける。百回でも千回でも来い!
「おまえ、何なの……」
スノーカインが逆に戸惑うような声を漏らした。
「どうして助けてくれるの。本当にバカなの」
「言っただろ、娘のためだ。だけど……」
思い出す、ひたすら歩いた無窮の砂漠。息することすら苦痛で、一滴の水が命の支え。話し相手はいない。それでも。
一人で守って。一人で生きて。最後に残った小さな部屋に、まだ大切なものが、思い出と一緒に置いてある。そんな子を。そんな子に。
「そんな君に悲しい結末なんか来てほしくない」
「……!」
驚く吐息とわずかな体温の上昇が、俺に伝わってきたもののすべてだった。
「伯爵さん!」
頭上からベルゼヴィータの声!
「ミアズマのホットスポットに入ったわ! このあたりでも随一の噴出量、食べ放題よ!」
「よしきた! やれスノーカイン!」
俺の一声を受けるや否や、スノーカインが目いっぱい腕を伸ばして函を掲げた。
肌が函の中心へと引っ張られるような感覚。すさまじい勢いで吸引されるミアズマが、肌の上を走っているのがわかる。これまでとは段違いの量。
豁、という烈光!
おぉぉおおお……おおォオおお……おおおおおおおお!!!
何重もの呪詛のようだった唸り声が次々にそぎ落とされていき、歓喜の叫びへと収斂していく。
追尾してきていた赤紫の肉塊が清廉な白へと遡り、地を煮立たせていたあぶくもはるか底へと沈んでいく。
「やったの……?」
「やったさ! やったぜ! 成し遂げたぜ! 俺はやったんだああああ!」
不安げなスノーカインの声にごり押しを重ね、俺は喜びを露わにした。
イクシードだった煉界人も含め、いつしかこの場にはとてつもない数の霊魂が漂っていた。歓び踊るように俺たちの周囲を回遊する。函の光に惹かれるように、その景色はまるで竜宮城。
「はは……」
それが恐ろしい相手だということも忘れ、俺は笑っていた。
「ふふ……」
スノーカインもそうだったのだろうか。寂しさも不敵さもない、ただの一人の少女のような笑みが、彼女からこぼれた。
その直後だ。
風が吹いた。俺にはほとんど感じられない風。だが煉界人たちは違った。
風が次々と煉界人たちをさらっていく。回遊はいつしか渦となり、栓を抜かれた湯舟の水のように地面へと彼らを連れ去っていく。
咄嗟にスノーカインを抱き抑え、俺はすぐにそれが正しくない行為だと気づいた。
ああ、そうか……。
「帰るのか……?」
周囲の白い影たちが次々に大地へと呑まれていく最中、俺は閉じた腕をうっすらと開く。
「ええ」
俺の胸に顔をつけながら、スノーカインが答える。どこか寂しげな微笑み。あの幻でも浮かべていたであろう悲しい笑顔。
「でも、あそこにはもう誰もいない。話をする相手も、寂しさをぶつける相手も。家だっていつなくなるか……」
彼女はゆるく首を横に振った。
「あそこに、わたしのすべてがある」
どんな形だろうと、どれだけわずかだろうと、それが彼女のすべて。
だから帰るのだ。
スノーカインの体が風にさらわれるように浮き上がった。
俺は彼女が乱暴に飛ばされないよう、その手を取ってそっと持ち上げた。
もう言葉はなく。目だけを合わせ。
最後の最後、別れを一瞬拒むように、お互いの指先と指先が強く絡まった。
「さよなら」
どっちが言った言葉だったか、よくわからない。
そうして俺が見つめる中。
スノーカインはすべての煉界人たちが帰っていった最後に、地の底へと帰っていって――。
いって――。
しゅるるるる……ぺたん。
「ん? Φ_廿」
スノーカインは地面にぺたんと座っていた。
それからぺたぺたと地面を叩き、さらにガンガンと頭突きまで始めた。それでも。
彼女は地面に吸い込まれていかなかった。
「えっ……」
なに、それは……。
スノーカインが俺を見る。いや俺を見つめられても困る。
額に信じられないくらいの玉の汗が浮かべ、彼女は言った。
「帰れなくなった……(Φ_廿;;;」
『えええええええええっ!?』
絶叫は、俺から以上に俺の背後から押し寄せたものだった。
すぐ後ろにいる――仲間たち全員の。
思わず振り返った俺は、すぐにその違和感に気づいた。
「え、待って。聞こえたの? 今の言葉……?」
「ええ、お父様……」
アークエンデが呆然と答える。全員がそれにうなずき、
「ついでにそこの女の子も見えますわ……」
「なっ……!!!???」
なあああああにいいいいいいいいいいいいいいいいいイイイイッッッ!!!???!?!?!?
シリアスさん「何やってんだおまえええええええ!!!」




