4.丹下ホール
翌年、俺は大学を卒業し、前年の就職活動の甲斐もあって無事、設計事務所へ就職を果たした。樺菜はと言うと都内の女子校に入学をした。あの仲の良い渚は都内から離れたそうだが、百合とは同じ女子校でまた仲良くしているそうだ。
その樺菜なのだが、どうやら髪を伸ばし始めたらしく、襟足を気にしてちょくちょく指で掬っては挟んでいる。
まぁ、今までベリーが付くほどのショートカットだっただけに気になるのであろう。その気持は男の俺でも分かる。
前髪も気になるようで、寄り目で前髪を見ている。
そんな様子の樺菜に、神田がハサミを持ち出し、
「気になるなら、俺が切ってやろうか」
と言ってきたので、俺はその手を抑えて「やめておけ」と言ってやった。
「気になるなら、ちゃんとした美容院へ行った方がいい。伸ばしていることを伝えて、毛先だけでも整えてもらえ」
そう言ってやると、日曜日に友達の百合と一緒に彼女の行きつけの美容院へ行ってきたようで、スッキリした前髪と、襟足を整えた彼女がいた。
「なんかさっぱりした」
そんなさっぱりした様子の樺菜だったが、何やら他のことに不満があるらしく、ふくれっ面になって言ってきた。
「男にナンパされた」
その言葉に、「ナンパな男は許さんぞ」と反応する神田に向かって、「お前は、わたしの親か」と樺菜が呆れた。
さっそく髪を伸ばした効果が出たようだ。
「女子校に通うと、男の出会いってナンパだけなのか? 声をかけてくる男がロクな男に見えないよ」
そういう彼女に、「男子校との合コンぐらいあるんじゃないか?」と答えると彼女は腕組をして「合コンねぇ」とあまり興味なさそうな顔をした。
多少恋愛に興味はあるようだが、合コンには興味なさそうだ。まぁ、そのうち良い出会いがあるさ。
彼女が二年生になった頃、どういうわけかハッキングをするようになった。
あのパソコン好きの吉田からハッキングの方法を教えてもらったのかと、たまに来る彼に訊いてみたらどうやら彼ではなく、彼女の独自のルートでハッキングを学んだそうだ。
「ハッキングはするんじゃない」
そう言ってやるが効果がない。
「機械を作りたいから、似た設計図を探すんだ」だの「参考になるプログラムを探すんだ」だのと言い訳を言って、やめる気配がない。
何を作りたいんだと訊いてみると、
「運動神経が良くなる機械を作りたい」
と言ってきたものだから、俺は言ってやった。
「よし、なら俺が鍛えてやる。ジムでも通うか」
その言葉を聞いた途端、彼女はため息を漏らした。
「筋肉はいらないよ。
筋肉がない人でも活躍できる機械を作りたい」
「だからといってハッキングして目標達成するなよ」
俺は晩飯を運んできた神田に言った。
「神田もなんとか言ってやれよ。そのうち捕まるぞ」
「まぁ、目標の為に頑張るのは良いことじゃないのか?」
こいつ、ハッキングが何のことだか分かってないんじゃないのか? 神田は機械については詳しいが、パソコンに関してはそれほどでもない。
「頼むから俺の目の前で捕まらないでくれよ」
樺菜はパソコン通信でカフェテラスという喫茶店に入り、よくチャットをする。その様子を後ろから覗くことがあるのだが、こんな会話になったことがある。
「お前のハンドルネームだが、なぜ丹下なんだ?」
そう訊くと、隣にいた神田が訊いた。
「あれか? 丹下段平か?」
「あしたのジョーじゃないよ。健三だよ」
「健三? 丹下健三? 建築家のか?」
一応、設計事務所へ就職している身として、その名前は当然知っていた。
「そう、新旧の都庁を設計した人だよ」
そう言って、彼女は両手の人差し指で、あの太い垂れた眉毛を作ってみせた。
「太郎に太陽の塔で穴開けられたけど、大阪万博の大屋根を造ったり、最近では渋谷の国連大学や新宿パークタワーを設計したんだぞ」
興奮して言う彼女に、俺は呆れてしまった。
お前のその知識は一体どこから得てくるんだ? そんなことを教えてくれる男が周りにいたか?
そんな顔をしていると、樺菜は俺を指差した。
「東が以前話していたじゃないか。東京オリンピックに合わせて速急に造った代々木体育館とか、あの奇抜なデザインの駐日クウェート大使館とか」
そう言えば、奇抜なデザインの建築について話題になった時、そんな話が出た事を思い出した。
「あれはだいぶ前の話だったが、それを覚えていたのか?」
「あれからその建築物を調べてみたけど、たしかに面白いデザインだった。そのどれも丹下健三じゃないか。世界のタンゲと言われるだけあるよ」
建築の知識は俺から吸収していたのか。しかも建築の話題をしたのはほんの僅かで、それも確か樺菜が中一ぐらいの時だぞ。一つの小さな話題で、ここまで吸収するって、こいつの知識欲はどうなっているんだ。
そんな話題をしていると、神田が「そういえば」と言って話を続けた。
「奇抜なデザインと言えば、お台場に来年ヘンテコな建物ができるみたいだぞ」
「「フジテレビ本社ビル」」
俺と樺菜の声が重なった。
「それも丹下健三だ」
あの球体がくっついた奇妙なデザインのビルは来年一九九六年に完成するそうだ。
「丹下健三って凄い人なんだな。
同じ丹下のハンドルネームの樺菜も、凄い人になるのかもな」
神田が何げなくそう呟いたが、なんとなくそれが現実になるような気がした。
その年の暮れ、樺菜はプログラミングや機械いじり、ハッキングと怪しげな行動が多いのは相変わらずだが、俺の知らないところでこんな出来事があって驚いたことがある。
俺は自宅でパソコン通信のカフェテラスでチャットすることがある。
俺がこの喫茶店でチャットしている理由は、当然樺菜が顔を出すからなのだが、このことは樺菜には秘密にしてある。
樺菜が馬鹿なことをしないか見守っているのだ。
俺もなんていうか過保護というか心配性だと思う。見守ると言う聞こえのいい言葉を使ったが、どう考えても監視だよな。
そのカフェテラスでこんな話題になった。
丹下と喧嘩した森という人物が姿を現さなくなったというものだ。
この森という人物は確かに言動に自分勝手なところがあり、俺もあまり好きになれない人物だった。
その人物が丹下と衝突してから忽然と姿を消したのだ。
「例の丹下ホールだよ」
そう書き込みするカフェテラスのメンバーであるコンパに、俺は眉根を寄せた。
「なんだその丹下ホールって」
「きっと丹下がウィルスを送りつけたに違いない」
そんな噂が飛び交っていたのかと、俺はつい笑ってしまった。
いくらなんでもそんな事するわけないだろう。
その日はその話題を軽くあしらっていたが、翌日、丹下である樺菜の家を訪れた時、樺菜の口からトンデモないことを聞いた。
「カフェテラスにいる森って野郎にウィルス送りつけてやった」
その言葉を耳にして、俺は「丹下ホールって本当にあったのか」と心の中で驚いた。
「前々から嫌なやつだと思ってたんだ。消えて清々したよ」
「お前な、まさかと思うが、嫌な奴をそうやってカフェテラスから追い出していたのか?」
「何人かと喧嘩したのは認めるよ。でも、大抵はそのまま二度とカフェテラスへ戻ってこなかったよ。
森とは以前も喧嘩したのに、まだ顔を出すから、今回はウィルスを送りつけてやったのさ」
まぁ、その樺菜のお陰でカフェテラスが過ごしやすくなるから、今回に限ってはいいことにしておくか。
「おまえ、喧嘩するのは良いが、程々にしておけよ」
「ほーい」
この間延びした返事は「またやるぞ」という返事だな。
3000文字の中に4つの話が詰め合わせって、ある意味すごいな。