10.大切な妹
その翌日の夕方、俺は樺菜の様子を見に一人で彼女の家を訪れた。
彼女は自室のパソコンが置かれているデスクに背中を預け、床に座っていた。
ぼーっと床の一点を見ている彼女に訊いた。
「大丈夫か?」
そう訊くと、彼女はゆっくりとこちらに顔を向けて答えた。
「神田は?」
彼女は最初に神田の心配をした。彼女もあの状況が理解しているのだ。
「お前に悪いことをしたと反省しているよ。
そのうち謝りに来るだろう」
「そうか」
そう言って、彼女は膝を抱えて、そこへ顔を沈めた。
「白滝がいたから冷静な判断ができなかったんだ。わたしが意味もなく喚いたから、こんなことになった」
「神田だって混乱していたさ。お互い様だ」
「いろんなことが頭の中でぐるぐる回って纏まらない」
「白滝に関してのことか?」
「白滝に情けないところ目撃されて、彼に伝えないといけないことがあるはずなのに、なんかぐちゃぐちゃで」
そんな様子の樺菜に、俺は手に持っていたコンビニ袋から缶ビールを取り出し、彼女に差し出した。
その差し出された缶ビールを彼女は不思議そうに見た。
「俺が白滝だったら、お前の様子が気になる。今日中にお前のところにコンタクトするだろ」
「このビールは?」
缶ビールを受け取り、彼女はそう訊いた。
「アルコールが入れば舌が回りやすくなるだろ? 言いたいことを彼に全て吐き出してしまえ」
「わたしは顔に出ても酔わないタイプなんだ」
「言い訳ぐらいにはなるだろ?」
そう言って笑ってやると、彼女は苦笑いをしてその缶ビールの蓋を開け、一口目を飲んだ。
「うーん。苦い」
そんな苦い顔をして言う彼女に俺は笑った。
「大人の階段を登る時は、大抵苦いもんだ」
彼女の顔にかすかな笑みを浮かべ、「東」と俺を呼んだ。
「うん?」
「ありがとうな」
「ああ」
そう言うと、俺は彼女の部屋を出た。
神田が来るのを待ちながらしばらくリビングにいると、神田が訪れるより先に樺菜が自室から出てきた。その顔は今までに見せたことのない晴れ晴れとした顔をしていて、見ていて眩しいほど輝いていた。
それは紛れもなく恋をしている女の顔だった。
六年間、彼女と付き合っていて、初めて見る顔だった。
樺菜もこんな顔ができるんだな。
「どうだ。言いたいことをすべて伝えると、すっきりするだろ」
そう訊くと、彼女はその恋する顔で笑みを作った。
「うん。言いたいこと全部伝えた。
もう、思い残すことはないよ」
白滝がなんて答えたか知らないが、樺菜のこの様子から気持ちを伝えるだけ伝えて、返事は聞かなかったのだろう。
まぁ、クリスマスオフ会はもうじきだ。直接でも返事を聞けばいいさ。
俺はテーブルに置かれた缶ビールを持ち上げて言った。
「もう一本飲むか?」
「いや、今は甘いのが飲みたい気分だ」
「チューハイもあるぞ」
そこへあの神田が申し訳なさそうな顔で、のそのそと現れた。その顔は、昨日弁慶に殴られた痣だらけだ。
神田のその顔を見て、樺菜は「ぎゃー」と悲鳴を上げた。
「どうしたんだ、その顔!」
「いや、顔のことは良いんだ。
それより、昨日は……」
「良くないよ! 手当はしたのか?」
「いや今更しても」
「看てやるからそこに座ってろ!」
そう言って、樺菜は神田をソファーに腰掛けさせると、部屋を出ていった。
神田はどうなっているんだ、と言わんばかりの顔をして俺の方を振り返った。
「あいつも、大人の階段を登ったのさ」
「……良い顔していたな」
そう神田が諦めたように言った。
クリスマスオフ会の二四日。
樺菜はクリスマスの飾りつけの段階でソワソワしていた。
夜の七時に始まるオフ会なのに、六時過ぎになって、
「シャンパン足りないから、買い足してくる」
と言って、ウロウロと行ったり来たりするのをやめて自室に籠もってしまった。シャンパンは十分買ってあるというのに、わかりやすい嘘をついたな。
一緒になって飾り付けをしていた神田と、百合の妹の小百合も察しているらしく呆れている。
きっとオフ会始まる前に白滝に会いに行くのだろう。
そんな感じで始まったオフ会で、樺菜に自分がカフェテラスの常連のサンであることを伝えたら、頬を膨らませて文句有りげに睨まれた。
散々樺菜との関係で、やきもきさせられた白滝とも話をした。
やはり彼も俺がサンだと聞いて驚いていた。そして、樺菜のことで感謝された。感謝するのはいいが、それ以上に気になることを俺は訊いてみた。
「それより、お前は誰を選んだんだ?」
その質問に、白滝は照れたように笑い、ちらっと樺菜の方を見た。視線を送られた樺菜は白滝の方を見て、笑みを浮かべながら小さく手を振っていた。
随分と仲の良いことで。
床に座り、手作り巨大ケーキとシャンパンで腹を満たしていると、隣りにいた神田がなにやら腹を立て始めた。
「白滝のやつ、一体どうなっているんだ。なんであんなにモテているんだ」
樺菜だけでなく、渚は当然ではあるが、あの男には無縁と思われた百合まで白滝にベタベタしている。
確かにそれを見ると神田が嫉妬するのも無理はない。
「まぁ、嫉妬するな。あれがあいつの才能なんだろ」
俺がそう言うと、彼は「才能ねぇ」と信じられないような、胡散臭そうな顔をして白滝を見ていた。
「ねぇ、神田くん」
「ん?」
神田が声のした方を振り向き俺もその方を見ると、あのコンパだった。
カフェテラスではその話し方からてっきり男だと思っていたら、オフ会で現れたのは二十代後半のスレンダーな女性だったのだ。
それにはさすがの俺も驚いた。というか、カフェテラスのメンバー全員が驚いたに違いない。
「神田くんはチャットには参加してなかったんだよね」
「あっ、あぁ。でも、樺菜、いや、丹下がチャットしているところをよく見てたから、どんな常連がいるかは知っているよ」
「丹下とはどういう関係? ちょっと話を聞かせてよ」
「あ、あぁ」
女性に話しかけられ、いささか困惑気味の神田ではあったが、コンパと一緒に俺から離れていった。
そんな二人を見て、俺は笑みを浮かべた。
どうやら神田にも春がきたようだ。
一人っきりになったところに、樺菜がシャンパンと瓶ビールを持ってやってきた。そんな樺菜が、楽しそうに話している神田とコンパの方を見て言った。
「あの二人、いい雰囲気になっているじゃないか」
樺菜は俺の隣に腰掛け、持っていた二本の瓶を見せた。
「どっち飲む?」
「そろそろビールを頂くか」
そう言って、殻になったグラスを樺菜に向けると、そこにビールを注いでくれた。
「東には改めて礼を言おうと思ってさ」
そう言うと、彼女は俺の方を改めて向き直った。
「白滝のことでいろいろと相談に乗ってくれてありがとう」
「白滝とはうまく行きそうか?」
そんな俺の質問に、彼女はあの恋する顔ではにかんでみせた。ほんと、いい顔してるな。先ほどの質問は愚問だったか。
「なら、樺菜は俺から卒業できそうだな」
「なんだよ、卒業って」
眉根を寄せて不安そうにしている樺菜を見た。
危なっかしい樺菜を俺は六年間見守ってきた。彼女が危ない道へ踏み外さないように道標になってきたつもりだったが、これからは俺の代わりがいるようだ。
「言葉通りだと思うが」
そう言うと、彼女は顔を大きく歪ませて涙目になってしまった。
そんな顔をされ、俺は慌てた。
「おいおい、なんだなんだ。
シラフじゃなかったのか? アルコールでも入っているのか?」
「泣き落としだよ。
こうでもしないと東が本当にどこかへ行っちゃいそうで」
「そういうことは、口にしないで実行するもんだ」
今にも本当にポロポロと泣きそうな樺菜に、俺は天井を仰いだ。
俺の代わりがいるなら、そいつに任せればいいと思ったが、どうやらそういうわけにもいかないようだ。
別に俺にとって樺菜は、世話のかかる面倒な子供というわけではない。いや、訂正しよう。世話はかかる。世話はかかるが、別に面倒と思ったことはない。
神田ではないが、彼女の世話が妙に楽しいのだ。
「お前が卒業宣言しない限り、どこにもいかないさ」
「本当か?」
「お前ほどの危なっかしい奴は、誰かが手綱を握ってやらないとな。酷いじゃじゃ馬だ。あいつ一人じゃ無理だろ?」
そう言うと、彼女は涙目で俺の肩をバシッと叩いた。その衝撃で、継がれたビールが零れそうになった。
彼女はその涙目に笑みを浮かべて開口した。
「わたし、家に帰っても誰もいないし、一人っ子だろ。だから兄弟が欲しかったんだ。いや、兄貴が欲しかったんだ。頼れる、尊敬する兄貴が。
だから、神田や東が来てくれて嬉しいんだ。
本当の兄貴ができたみたいで」
そう言う樺菜を見て、俺は微笑んだ。
「俺はそんな頼れる、尊敬する兄貴なのか?」
俺のその質問に、樺菜は大きく、はっきりと頷いた。
「あぁ。神田もそうだけど、東は特に理想な兄貴だよ。
だから、近くにいて、いつまでもわたしの兄貴でいてくれよ」
これ以上懇願するような目で喋らせると、なんだかこっちまで涙腺が緩みそうだった。
「そうだな。
世話のかかる妹の願いだからな」
そう言って俺は笑った。
と、そこへ渚がやってきて、
「ちょっと樺菜、百合が独り占めしてるのよ」
そう言って、樺菜の腕を掴んで、百合と白滝がいる方へ行ってしまった。
白滝と仲良く話している樺菜を見て、俺は大きなため息を付いた。
樺菜が俺から卒業できそうか、などと言ったが、本当はその逆だ。俺が樺菜から卒業しないといけなかったのだ。
樺菜と長いこと付き合っていて、ついつい樺菜の兄貴ポジションが居心地よく、長居してしまった。
そろそろ樺菜から卒業しないと、そう思っていたが、どうやら俺は樺菜から卒業することができないようだ。
これからも、彼女を見守っていく必要がありそうだ。
俺の名前は東のぼる。俺には古くから付き合っている女友達がいる。その女友達の名前は小原樺菜。今の俺には、女友達という言葉よりふさわしい言葉がある。血の繋がりはないが、俺の大切な妹だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
まさかとは思いますが、本編を読んでない方がいましたら、是非とも本編も読んでいただけたら幸いです。