第一章『風上速水』 その①
「ごめん、走太」
何十発と殴られて、顔を腫らしたオレに、速水は両手を合わせた。
「ちょっと殴りすぎた」
「どこがちょっとなの?」
オレはちゃんと数えていたぞ。お前がオレの顔面に五十六発のパンチをお見舞いしたことを。
この女は、風上速水。オレと同じ陸上部に所属している暴力女だ。
「なあ、痛いんだけど?」
オレは真っ赤に腫れあがった頬に触れた。ちくっと傷む。
「ねえ、痛いんだけど」
速水は握りつぶした瓶の破片で手を切ったようで、絆創膏の貼られた右手をオレに見せてきた。
「知らねえよ。お前が勝手に怪我したんだろうが」
「走太が私のお願いを聞いてくれなかったからよ」
どこの暴君のセリフだ?
ちなみに、イチゴジャムはオレが美味しくいただきました。
「とんだ屈辱だぜ!」
なんでオレがクラスの女子たちの前で速水に殴られなきゃいけねえんだ。まあ、速水はクラスのボス猿だから、仕方がないことなのだが…。
「なんか言った?」
「ほぎゃあ!」
オレの頬に再び速水の拳がめり込んだ。
そのまま殴り飛ばされ、廊下の端に倒れこむ。
「何も言っていない!」
オレはすぐに顔を上げて首を横に振った。
「そう。もしも、ボス猿なんて言おうものなら、もう一発殴っておこうの思ったのに…」
「もう殴っているよ!」
こいつ、オレの心を読んでやがる!
速水は肩に掛けていたスポーツバッグを掛けなおした。
「何してるの? さっさと部活行こうよ」
何してるのって…、お前が殴ってきたから倒れこんでいるのであって…。
まあ、いいか…。
グラウンドの隅に建てられた小さなクラブ棟で、ランニングウェアの上に「宇楚中学」のロゴが入ったジャージを羽織ったオレたちは、駆け足でグラウンドに出た。
もう野球部やサッカー部は集合していて、揃った掛け声とともにアップを開始していた。もうオレたち陸上部の練習スペースは無い。
「君たち! 遅いよ!」
顧問の大村先生がすでに待ち構えていて、遅れてやってきたオレたちを一喝した。
「もう中学二年生なんだ! そんなトロトロしていたら、後輩に笑われるぞ!」
「そうですね」
オレは大げさに辺りを見渡した。
先生、どこにいるんですか? その後輩ってやつは。
「一応聞きますけど。オレたち陸上部って、二人だけですよね?」
「馬鹿言え!」
大村先生はムキムキの胸を張って声を荒げた。
「三人だ! 先生のことも忘れるな!」
「ああ、はい…」
新任の大村先生は、うちの陸上部の顧問。と言っても、陸上の専門知識を持っているわけではなく、余りものになった陸上部に割り振られただけ。
まあ、その熱血的指導は、「これぞ運動部!」って感じで悪くはない。
「ところで走太、その真っ赤に腫れあがった顔はどうしたんだ?」
「ああ」
オレは隣の速水を指さした。
「こいつに」
「もお! 走太くんたら!」
突然、速水がオレの脇腹を殴った。
「ぐへえ!」
オレはうめき声を上げ、地面の上に倒れこむ。
「走太くんたら、階段で転んだんですよ」
くそ…、速水…、大村先生の前だけぶりっ子しやがって…。
「おお! そうか。気を付けろよ! 走太!」
先生も先生だ。頭が筋肉でできているせいで、こいつの嘘に全く気付かない。なんでこんなクラスのボス猿に…、
「なんか言った?」
「ぎゃああああ!」
踏まれた! 思い切り踏まれた!
「こらこら速水。何しているんだ」
「すみません。足が滑っちゃって…」
「そうか! 足を滑らせるということは、陸上界では致命的だ! 気を付けろ!」
「はーい!」
…、おれはもう何も突っ込まない。
「さあて! 早速アップを始めるぞ!」
大村先生に促されて、オレたちはアップを始めた。
一応、グラウンドには二五〇メートルのトラックがあるのだが、今日も野球部とサッカー部が占拠しているせいで使えない。ひどいときはソフトボール部もいる。
そのため、オレたち陸上部の練習場所は、この宇楚中学の校舎の周りか、裏山のクロスカントリーコースだ。
あ、クロスカントリーっていうのは、山道に造られたランニングコースのことだ。
「はい! いっちにっ! いっちにっ!」
一周約四〇〇メートルはありそうな校舎の周りを走る。
時々、角から飛び出してくる生徒を躱しながら身体を温めていった。
「はい! いっちにっ! いっちにっ!」
それにしても…、大村先生の掛け声がうるさい…。
「はいはい! 君たち! もっと元気よく! 元気が無いと、陸上はできないよ!」
「いっちにっ! いっちにっ!」
大村先生に触発されて、速水まで声を出し始めた。くそ、キイキイとうるせえな。お前、教室じゃもっと図太い声を出しているだろうが。例えば、ボス猿
「なんか言った?」
「ぐああああ!」
痛い! また殴られた!
「いい加減やめろ! このくだり! いちいち話が進まねえんだよ!」
「こら走太。もっと真剣にやりなさい!」
大村先生は何を見ているんだよ…。