春泥棒
川沿いの道に並ぶ桜の木は、無数の薄紅色を着飾っていた。今年もまた春がやってきたことを実感する。
もうすぐ4月になる。この地に越してきて、新生活が始まってからもう一年が経つのだ。そして、あの日からも。春風を浴びながら私はあの日の出来事に想いを馳せる。
一年前の今日、引っ越しのため家のありとあらゆるものをダンボールに詰め込んでいる最中のことだった。玄関のチャイムが鳴った。
どうせまた引越し業者が大型の家具を運びに来たに違いないと思っていた私を、母が呼んだ。
「咲、あんたに用があるって子が来てるわよ」
誰だろう、と思った。仲の良かった子とはあらかたお別れの挨拶は済ましておいたはずだ。今更用がある子などいただろうか。
足の踏み場もないほど散らかった廊下を忍者みたいに抜き足差し足で通り抜けて、玄関に行くと、そこには彼が立っていた。
彼、伊吹くんは、私の住んでいるアパートのお隣のマンションに住んでいる同じ中学の同級生だ。小学校四年生に上がるときにこの地に引っ越してきて、転校当初ガチガチに緊張していた私に、クラスに馴染めるように色々と優しくしてくれたのが彼だった。小学生の間は家が近いこともあって毎日のように一緒に帰っていたし仲も良かったが、中学に上がってからはクラスも離れ疎遠になってしまった。廊下ですれ違ったとき軽く挨拶する関係、たまに目が合う関係、謎の気まずさから窓の外に目をやってしまう関係。そんな風に私たちの関係性は変わっていった。
その彼が今目の前にいる。息を切らして。走ってきたのだろうか。
「引っ越すんだ」と彼が尋ねた。なんだか久しぶりに彼の声を聞いた気がする。
「うん、お父さんの仕事の関係で」
そういえば彼にはまだ伝えていなかったな、と思いながら私は答える。
「あの、忙しいかもだけど、ちょっと外、歩かない、ですか」
ぎこちない口調。お母さんの方を見ると、行ってきなさいというように頷かれた。
私もつられて、ぎこちなく返す。
「あ、はい、歩き、ましょう」
彼はホッとした顔をする。
「どこ引っ越すの」
しばらく無言で歩いていた私たちの沈黙を伊吹くんが不意に破った。
私は父の転勤先を答える。伊吹くんは「遠いんだね」とだけポツリと呟いた。また会話が止まった。彼には何か用がありそうなことは明白だったが、彼はなかなかそれを言い出さず、私も聞くようなことはしなかった。
こんなふうに二人で歩いていると小学校の頃を思い出す。二人で毎日ふざけあったり寄り道をしたりして帰っていたんだった。もうずいぶん昔のことのように思える。
つくづく時間というものは強引に人と人との関係性を変化させていくものだ。いいようにも悪いようにも、そして、近づくようにも遠ざかるようにも。
思えば人間関係が大きく変化するのは決まって春のことだった。進学や進級というイベントは、以前のクラスメイトとの学校生活を強制的に終了し一新するものだったし、親が転勤族の私は、何年かに一回「転校」という名前の人間関係総リセットイベントなんてものまであった。
私にとっては、春とはそういう季節だった。春には泥棒が潜んでいる。どこからともなく現れて私の人間関係をまるっと盗んでいくのだ。今回の引越しだって、そう。
ほとんど会話のないまま、私たちは家の前まで戻ってきてしまった。
「ごめんね、伝えられてなくて。来てくれてありがとう」
そう言って家に入ろうとしたとき、私の左手を彼が掴んだ。突然のことにびっくりする。
「これ。俺の連絡先書いてるから」
とメモ用紙のような小さな折りたたまれた紙切れを私の手に握らせる。私がそれをちゃんと掴んだのを確認すると、彼はあっという間にそこから去っていった。「元気でな!」という声がアパートの階段にこだました。
***
しばらく桜並木を歩いていた私は、道の途中にベンチを発見し腰掛けた。あの時もらった紙切れを大事そうに財布から取り出す。久しぶりに紙切れを開くと、彼の携帯のメールアドレス、電話番号と、「絶対また会おう」の文字が現れた。つい先日買ってもらったばかりのスマートフォンを取り出して、彼のアドレスと電話番号を登録する。気持ちが踊る。
春に現れる人間関係泥棒の正体は結局よくわからない。でも、去年の春、確かに泥棒は私と彼の関係を盗み忘れていった。それとも薄く消えかかっていた関係性だったからこそ見逃してくれたのだろうか。
早速彼にメールを打った。今までは家に置いてあるパソコンメールでやりとりしていたが、これからは違う。
『スマホ買ったんだ!』
送信するとすぐに返信が来た。
『登録した!ねえ、ところで今度のゴールデンウィークでそっちの方遊びに行こうかなって思ってるんだけど、会おうよ』
嘘、嬉しい。私はスマホに飛びついてまた返信文を連打する。
春に潜む泥棒さん、これまでは盗まれてばかりの人生だったけれど、見てなさい。これからは私があなたから春を盗み返す番だから。あなたがこれまで私から盗っていった、私の青春を。
柔らかな風が私の耳元を通り抜けていく。心地いい春の日だった。