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36話:柿が生まれた柿生2

 明治22年の町村制の施行に伴い、都筑郡の黒川村、栗木村、片平村、

五力田村、古沢村、万福寺村、上麻生村、下麻生村、王禅寺村、早野村の

十ケ村が合併して「柿生村」となった。これは、この地域特産の禅寺丸柿

の収穫が多い理由から「柿生まれる村」になったといわれる。


 同じ都筑郡で、この10ケ村とはやや距離のある岡上村は、地形的な

事由等もあり柿生村には入らず、柿生村と岡上村で一部事務組合を設立し

、協同で行政を進めていた。しかし昭和14年、柿生村と岡上村が

川崎市と合併したため、柿生村の名は50年ほどで消えてしまった。


 昭和2年に開通した小田急線は、これまでの交通の便に恵まれなかった

柿生村の人たちの生活を大きく変えた。時あたかも昭和初期の経済恐慌では

あったが、小田急線の開通と柿生駅の誕生は、それまでの人々の暮らしや

地域での活動の広がりに拍車をかけた。柿生駅の上りホームには引き込み線

が設けられ、昭和30年代までは、この引き込み線から箱詰めされた大量の

禅寺丸柿や地元で生産された野菜が貨物車に乗せられ出荷された。


 とりわけ、禅寺丸柿はこの時代から柿の木箱に彩りを加えた共通の

レッテルが貼られ、東京を始め各地に出荷されるようになった。明治の

終わり頃、この地域で大変名誉な出来事があった。それは、都筑郡柿生村

王禅寺の森七郎氏栽培の禅寺丸柿が、明治42年10月24日に明治天皇

に献上されたことである。


 禅寺丸柿の献上は、この地域を挙げて取り組まれ、翌日の横浜貿易新報は

、身を清めた採取委員によって.ぎ取られた柿は、都筑郡長、村長、

村会議員等の立ち会いの中で採取式を挙げ・・・と大きく取り上げている。

 そして、「献上柿子」という幟をたて、大八車で長津田駅まで運ばれ、

横浜線で神奈川県庁に到着し、県知事の手によって明治天皇に献上された。


 その後、宮内大臣より郡長あての証と郡長より森七郎氏宛の書が届き、

今も額に入れられ保存されている。 日本の代表的な詩人である北原白秋は、

昭和10年の秋に王禅寺を初めて訪れている。その後もしばしば王禅寺を

訪れ、その静寂な境内の環境に感動するとともに、柿生の里と禅寺丸柿を

讃える長歌を詠っている。


 白秋は、晩秋の美しい柿生の里の風景を詠い、

「柿生の里は、柿が生うるところから名づけられたが、名に持つのみならず、

禅寺丸柿というすばらしい実りがある」と記している。白秋の歌白秋の

柿生の里と禅寺丸柿を讃えた長歌の一節

「柿生ふる柿生の里、名のみかは禅寺丸柿、山柿の赤きを見れば、まつぶさに

秋か闌けたる」は広く知られており、後に歌碑が境内に建立された。

しかし王禅寺まるには現在の日本にで売るには欠点があった。その一つが

渋が残っている場合がある事。もう一つが完熟の商品は柔らかすぎて

輸送できない事。そのため橫浜農協でも柿の栽培は、もっぱら一般受けして

形の良い富有柿と次郎柿が主流となっている。

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