35話:柿が生まれた柿生1
この情報を聞きつけた、他の地域の梨農家の人から、こっちでも指導して
欲しいと電話が入ったが、身体がきついので、丁重にお断りした。この成功に
久保伸一には監修料という名目で10万円報奨金が農協を通じて支払われ、
投資した3千万円の配当と合わせて40万円と日当20万円の合計60万円
を2ケ月で手に入れた。
その後、同じ農協の山下巧さんという柿の担当者が久保の家を訪れて、
梨の担当者から、久保さんの成功の話を聞いて、是非、柿の方でもお知恵を
拝借したい久保の家を訪ねてきた。彼の話によると、この近くの川崎市に
小田急線の柿生駅がある。その柿が生まれると書いて柿生。
これについて話し始めた。柿生の地名のおこりとなったといわれる禅寺丸柿
については、建保2年・1214年に王禅寺の山中で発見されたとされている。
それからおよそ150年後の応安3年・1370年、焼失した王禅寺を再建
するため朝廷の命を受け派遣された等海上人が用材を求めて寺の裏山に入った時
、秋の日差しを浴び真っ赤に熟した柿の実を見つけ口にしてみると、あまりの
美味しさから寺に持ち帰って植え村人たちにも栽培を勧めたことにより、
後に近隣にまで広まったという。
この禅寺丸柿の原木、樹齢およそ450年原木のひこばえは、今も
王禅寺境内に保存されている。禅寺丸柿の原木のある王禅寺は、徳川家の
領地・天領であった。「いなだ子ども風土記」によれば、家康が領地の見回り
に来たある時、一人の農夫に柿の名を尋ねたが名前がないため、家康は土地
の名前を採り王禅寺丸柿と名付けたと伝えられている。
後に元禄時代の頃になって禅寺丸柿と呼ばれるようになった。
慶安の頃・1650年前後の江戸市場では禅寺丸柿は柿の品種の王様と
なっていた。手車に柿籠を乗せ江戸へ運ぶ作業は交通機関のない時代では
大変な重労働であったが貴重な収入源であり禅寺丸柿によって人々の
生活は支えられていた。
中でも、禅寺丸柿の出荷が最盛期を迎える10月の中頃に行われる
池上本門寺の御会式では、「江戸の水菓子」として庶民にもてはやされ、
禅寺丸柿はこの時代から農家の大きな収入になっていた。
やがて、禅寺丸柿は大山付近にまで栽培が広がり、明治後期の記録によると
神奈川県内のおよそ半数以上は禅寺丸柿であったという。その味の美味しさは
、有機質を多く含む土壌が堆積した柿生の地に適していたといわれている。




