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2話:港北ニュータウンと伸介の仕事

 1972年に港北ニュータウンの基本設計を最初は書面で該当する地域の

農協を通じて地元の農家に書面を渡した。その後、1973年には橫浜市側が

該当する地域の住民を集めて説明会を開いた。それに対し住民側は宅地会という

交渉窓口を作り住民代表を送って移転条件等を橫浜市と話し合った。1974年、

昭和49年に造成工事を開始し、港北ニュータウン開発、当初は遺跡調査と

地権者との調整に費やされたが住民の意見を反映した前向きな街作りが進められ、

都筑中央公園の設計にも、その考え方が生かされた。


 1974年11月1日にN証券の担当者、佐藤賢一君からの情報でソニー株を

500円で2千株100万円で買い残金が30万円となった。


 1975年には時給が500円となった。月に25日働くと10万円となる、

実際には会社の都合で働くために平均して20日前後しか仕事がなく月8万、

年間100万円足らずの給料だった。その給料は友人との飲み会など生活費で

消えて、とても貯金する余裕はなかった。やがて、地元の農家の2代目や甥っ子

、姪っ子が学校卒業し、農家の実家の離れや倉庫、納屋を改築して住むのが

流行りだした。


 と言うのも、この地区では田園都市線を使い、渋谷へは30分、橫浜へも

45分で行くことができて実家の敷地に古家を改築するので費用も少なくて済み、

経済的にも両親からの援助というメリットがあったためだった。そう言う事で

地元農家やその家の離れや倉庫、納屋を改修して人が住めるようにする仕事が

数多く舞い込んだため、久保伸介は独立することを決意し、1977年に久保興産

と言う名の有限会社を立ち上げて中卒、高校中退者、パート・アルバイト希望者

など訳ありの人を雇って仕事が忙しい時に連絡して働いてもらえるシステムを作り

独立して仕事を始めた。


 この頃から正規社員に慣れずに高校中退者したり離婚してかけ持ちでパート・

アルバイトをる男性、女性が増え始めたので好都合だった。しかし彼らに仕事を

全て任せるという訳にはいかず、あくまでも手伝いをしてもらい給料は土日

祝祭日でも時給500円と低賃金で済んだ。これがあたり、徐々に久保興産へ

の仕事依頼が増えていき儲かった。


 その後1977年に橫浜市から港北ニュータウン構想という大きなプロジェクト

案が提示された。それは、港北ニュータウン内に散在していた民家を移転させ、

新たな街並みを作る換地移転が開始された。当時、土地を持っている全ての地主は

土地面積の40~50%程度を無償で拠出「減歩という」して道路、学校用地等に

提供した。駅前に土地を残すには約80%近い減歩を求められるなど駅予定地から

の距離に応じて減歩率が異なった。この頃になると久保家では先祖が持っていた

人里離れた竹林、山林、農地、荒れ地が港北ニュータウンの中に多く存在していた

ので色めき立った。


 しかし、それらの土地を橫浜市が買ってくれるのではないかと言う希望は崩れ

去った。橫浜市の案で港北ニュータウン開発でかなりの広さの土地を供出して、

その代わりの、その土地の状況と広さによって決められた割合で代替え地と

交換できるという話になった。

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